メールマガジン

第51回2009.06.24

インタビュー:交野市 企画財政室長 中 清隆さん(上)

 「まちづくりラウンドテーブル」なる言葉が自治体関係者の間で一般化しつつある。
 住民と自治体とのかかわりといえば、1970年代には住民運動という形のどちらかと言えば歓迎されざる住民を相手に行政が構えるというイメージがあった。それが1990年代には住民参加、住民参画ということが盛んに叫ばれるようになり、審議会に公募委員を入れたり、パブリックコメントを実施したりという流れになってきた。2000年代に入って、かかわりかたはさらに変容してきているといえるだろう。その1つの顕現形態であるラウンドテーブルに深くかかわっておられる職員に今回は登場してもらった。


稲継 今日は交野市の企画財政室長の中さんにお越しいただいております。どうかよろしくお願いいたします。

 よろしくお願いいたします。

稲継 中さんは、交野市の市民とそれから役所との架け橋となるラウンドテーブルをつくられたことで非常に有名な方ですが、その話に入る前に、入庁されてから今までどのような仕事をしてこられたのか、簡単にお話しいただけたらと思います。
 まず、入庁されたのは何年になりますでしょうか。

 昭和56(1981)年7月ですね。

稲継 入庁された最初の配属は、どういうお仕事だったのでしょうか。

 いわゆる総務・庶務なんですが、当時は、行政課という名前でしたね。

稲継 総務・庶務をやられたということは、主に自治会ですとか、総務とか、庁舎管理とか、そういう仕事と考えたらよろしいのでしょうか。

 その通りです。

稲継 最初、そこに入られて-まだ若々しい頃ですが(笑)-役所に入ろうとした時のイメージと、実際に仕事をされた時のギャップのようなものは何かありましたでしょうか。

 役所というものに対して憧れて入っているというわけではなかったので、ギャップというものを感じる以前の問題だったんですが、ただ、入ったセクションが非常にいいセクションでして。というのは、当時入った時の先輩達が自主研を立ち上げられておられて...。

稲継 自主研?

 自主研究グループですね。それは、何か民法を勉強しようということで2人か3人でやっておられて。法律勉強ですね、私は文学部出身で、法律には全く無縁で入っているので。その時に民法、特に物権あたりをわからないなりに勉強したので、それで結構刺激的だったんですね。
 だから入り方としては、いい職場にまず入って、その良い影響を与えていただいたというのはありますね。

稲継 それで、ここに何年間かおられた後、次は企画室に移られるわけですね。
 平成元(1989)年に企画室に移られてこちらではどのようなお仕事をされていましたか。

画像:中 清隆さん
中 清隆さん

 こちらはね、主に都市計画なんです。
 ただ、先程の民法を勉強しましたよって話に、実は、すごく関連しまして。都市計画というのは都市計画法なんですが、建築基準法も含めて、結局、土地の売買にからむ、要するに業者さんの利益にからむ部分と、直接、行政が、法律で相対するので、結構、物権で勉強したことは役に立ちましたね。だから都市計画にいった時も、徹底的にその法律を勉強しましたね。
 制度背景も知らないと業者とやりとりできない。逆に、制度を徹底的に勉強することで、へんな話ですが業者さんは何を求められておられるのかということがある程度わかるようになると、「できないこと」はできない、でも、「できる部分」というのが見えてくる。その辺りが結局、交渉事としては役に立ったところはありますね。

稲継 都市計画には7年ぐらいですか。

 そうですね、それぐらいいましたね。

稲継 都市計画をずっと経験された後、平成8(1996)年に、異動されていますね。次はどのようなところでしたか。

 次はね、総合体育施設といいまして、当時、国体が大阪で開かれるというので、ソフトボール会場を作ろうということで、国の補助金を受けて、ちょっと身分不相応の大きな施設を建てたんですけども、それを市で直接運営するのではなくて、民の方で運営をしていただこうと。じゃあ民の運営組織をどうつくるかというプロジェクト的な組織-総合体育施設開設準備室という所に行きました。

稲継 プロジェクトチームみたいなのですね。それはスムーズに動いたのでしょうか。

 そうですね。最初はね、当時、はやった施設管理公社、いわゆる財団化という話がひとつあったんですが、交野市の財力ではなかなか財団化も難しい。しかし、施設の管理面では、任意団体でもできるはずだということで、法律的にいろいろな情報を集めながら、任意団体の設計をしたということですね。
 ただ、任意団体といえども、当時はまだまだ完全に民間に任せているという状態ではなく、職員が派遣という身分で入っていくというスタイルだったので、実際のところは十分制度設計できたのかどうか。特に身分的な部分において十分な整理はできなかったかもしれないですが、とりあえず走るという事を前提にしていましたので、「すべて市の制度を準用してやろう」と、「やってみよう」と、結構、やってみようで入った世界ですね。

稲継 やっぱり、やってみようとして、できた部分とできなかった部分があると思うんですが、そうでしょうかね。

 やっぱり、できなかった部分というのは法律的な部分なんでしょうね。身分的なところでアルバイトを雇用したりしてやっていくのですが、いろいろと細かい所で、問いかけられたりして、なかなか答えられなかった部分もありました。
 ただ、時間も限られた中で走るという意味においては、走りながら制度を整理しましょうという形でいったんで、その都度、真剣に取り組みましたから、団体をつくるという部分においては、それなりにいけたのかなというふうに感じていますけどね。

稲継 この準備室を経験された後、平成11(1999)年でしょうか、次の異動があったわけですね。

 異動といいますか、正しくは、派遣を解かれたということですね。というのは、派遣元に戻ったわけです。
 派遣元が、自治振興とか文化振興を担っていたわけで、私が戻った時に自治振興の部分をやり、主にそちらに軸足をおくような形で戻りました。これは私が入職した時にやっていた仕事と半分同じ仕事になります。だから市民活動の方と、接点をもってやっていく。
 特に交野市の場合は、市民との協働という分野は結構ずっとやっているんですけど、それは自治会なり地域コミュニティを通じてやっていくのが主体でした。地域のコミュニティが結構しっかり残っていますので。
 だから、そういうセクションに戻って、再び市民の人とお付き合いしはじめたということですね。

稲継 この頃にちょうど総合計画の改定時期にあたったということで、その関係のお仕事も兼務でされていたとお聞きしたのですが。

 戻ると同時に兼務をいただきまして、総合計画の改定作業をするということになりました。
 なぜ私が兼務かというと、おそらく、当時、どこの自治体でもそうでしょうけれども、市民主体であるとか市民協働であるとかというのがトレンドでしたから、自治振興セクションは当然入ってやるということで、異動した瞬間からそれに半分どっぷりと入りましたね。

稲継 総合計画を作る仕事と、それから市民と向き合う自治会活動とのつなぎ役とか、そういった事を幅広くやっておられたわけですが、当時、中さん個人でホームページを立ち上げられたとお聞きしたのですけど、どのようなきっかけで、どのようなホームページを作られたのでしょうか。

 当時の私のホームページは、もうはずかしいから全部閉鎖しましたけど。
 結局市民協働で入って、総合計画そのものは綺麗に整理されていくのですが、私の中では「この整理で終わったって市民協働なんて動かんのとちゃうか」と、「ほんまにどういうふうにしてやるのか、それだけを徹底して議論しても、十分、必要性があるんじゃないか」と思って、そういう問いかけを当時の企画セクションにしたら、受け入れていただいて、市民参加システムを考えようということで、これは近畿大学の久教授にお世話になって、その検討を1年強やったんですよね。
 その過程で「市民協働はなんぞや」とか、色んな疑問が自分の中で浮かんでくる。それを自分の中で消化しきれなかったんで、当時、私、わりと新しいもの好きなところがあり、インターネットとか見ていたんで、このツールを使って自分の思いをとりあえず出そうと。
 ただ、どっかにリンクを張ったりとか、そういう積極的なのはしてなくて、ただ自分の備忘録的にホームページを作っていたんですよ。例えば、「参加とはなんや」、「協働とはなんや」、「参画とはなんや」というこの3つの用語の意味だけでも整理したりとか、そんなことをホームページでやっていたんです。
 今から見たら貧弱なホームページだと思いますが、ただ当時は自分の素直な疑問を...

稲継 疑問をそのホームペーシにぶつけるというか、まとめていく感じですか。

 そうです。

稲継 自分の疑問集がそのホームページに綴られているというか...

 疑問集というか...。でもね、疑問集で終わってないのは、疑問に対するその時の自分の答え、思いをそこへあげたのですね。だから、疑問を感じたことに対して、「こうなんだろう」、「こうではないか」というふうな考えをどんどんどんどんあげていったのが...

稲継 自問自答しておられわけですね。

 そうです。自問自答です。

稲継 ただ、それはホームページですから、他の方がアクセスして、見てこられますよね。

 そうですね。

稲継 他の方から何か反応とかありましたでしょうか。

 私自身は、先程言いましたように、どこにもリンクを張ってなかったんですが、ホームペーシというツールの性質上、検索にひっかかるんですかね。
 一番びっくりしたのは、札幌市の職員さんで池上さんという方が、私のホームページを見て、共感していただいて、また、「こういう職員がおるよ」っていうことで、その池上さんのお知り合いのホームページを紹介いただいた。
 そういう出会いが不思議なものでね、その行った先のホームページの主というのが、北川さんといって-私より一回り下なんですが-ここ(「分権時代の自治体職員」第46回第47回第48回)にも出てこられた本当に素晴らしい方で。そのホームページを見たら、自分のホームページをすぐに消そうかなと思ったぐらい素晴らしいホームページで。行動についても実行力もある方で。そういう出会いがね。本当、今でも思いますけど、私自身も『出会い』と『気づき』をすごく大事にしているので...

稲継 『出会い』と『気づき』ですか。

 『出会い』と『気づき』っていうのがすごく自分のライフスタイルの中で大事にしているので、ホームページというツールを自分が使った事によって、その時に北川さんと出会えたというのは、本当にありがたいなと思いましたね。

稲継 このホームページを立ち上げつつ、市民活動支援、あるいは協働というものについて実際にも取り組んでいかれたわけですね。実際のその仕事の中味としてはどういうことをやっていかれましたでしょうか。

 参画の仕組みというのは、こと細かにたくさん出たんですけれど、なかなか私自身の能力が低いというのもあると思うのですが、整理がひとつひとつできなかったんですね。
 ただ唯一根本的に感じたのは、あまりにも市民と我々が平場(ひらば)で話する場がないなということで、そういう意味で『場』を一緒に作りませんかと...

稲継 「我々」というのは職員ですね。

 職員、あるいは市民同士が...。主に自治会とかと当時は付き合っていましたが、自治会自身も加入率の低下とか高齢化とかいろんな問題を抱えておられたんですよね。ところが、それは組織に人を呼び込まなあかんからそういう問題があるんだけれど、もっと自治会自身も、普通に、地域の人と『場』を共有できるようなものがあれば、もしかしたらそこで『出会い』もあり、『気づき』 もあるんじゃないかと。そんなことをいろいろ思いながらそういう井戸端会議を地域、あるいは市で作りたいなと。そういう思いから「市民フォーラム」をやったんですね。これは市民参加シテスムのほんの隅っこの一つのツールなんですけど、それを切り口に何かやっていこうと思って「市民フォーラム」をやりましたね。
 フォーラムの目的は地域の中にそういうふう『場』をつくっていこうよっていうことでやったんですが、そのフォーラムに来た熱い市民の人が、「まず見本として、市でひとつつくって欲しい。私らそこに行って『場』というものは何かを勉強するから。」と言って、その会議の終わった後に、私、呼び止められました。
 声をかけていただいたので、私も単純な人間ですから、すぐにのりまして、その人達が熱いうちに作ろうと思い、それで、そのフォーラムの1月半後でしたかね、早速、第1回の市民の人と行政の人間が、肩書きを抜いて参加できる"まちづくりラウンドテーブル"というものをつくったんです。これは近畿大学の久先生のご指導の下につくったんですね。
 当時、八尾市ほか、北千里とかいろんな所で行われていましたのでね、私も何か所か見にいっていたんです。その可能性というものは行くとすぐにわかりますから。本当に、みな生き生きと議論されていますから。
 それで、「まぁ、交野市でもやってみよう」ということで、取りあえず冒険的に、これも申し訳ないんですが、はっきりと答えをもっているわけじゃないですが、取りあえずやってみようと。そんなスタイルで、"まちづくりラウンドテーブル"をつくりましたね。

画像:まちづくりラウンドテーブル風景
まちづくりラウンドテーブル風景

稲継 ラウンドテーブルというのを知っている人にとってはイメージはすぐに湧くと思いますが、このメールマガジンの読者の中には、「一体それって何?」という疑問を持って、今、読んでおられる方もおられると思います。 "まちづくりラウンドテーブル"というものがどういうものなのかちょっとご説明いただけますでしょうか?

 まったく大層なものではないのですね。誰でもすぐにできるのですが、参加自由、出入り自由な、ただ話題ネタもみんなが持ち寄って、場だけをつくっていますよと。話題もみんなで持ち寄りましょう、参加も自由ですよ、そういう所に集って、時間の間みんなでワイワイとしゃべりましょう。これだけですね。
 そこにおける決まり事というのは、「肩書きが自由ですよ」とか、それから「批判はなしですよ」とか、あとは、「決め事なし」ですね。「決め事なし」というのは、「そこの場で何か決めたりしませんよ」と、「そういう責任を負うことはないですよ」ということです。こういうふうな3つの約束事をベースにして、要するに、敷居を低くして、誰でも気軽に参加できる様な『場』をつくろうということですね。
 そこに、我々も当然いるんですけれども、肩書き抜きですから、職員の顔はしていません。私も当時、迷ったんですけれど、"まちづくりラウンドテーブル"が行われるのが、日曜日の午後2時から4時なんですが、「職員の肩書き捨てるんですから、休日勤務手当もなにもいらんわ。気軽に行くわ」といって、やりましたね。
 これも是否はあると思いますが、施設も施設使用料がいるんですが、参加者で出そうということで、自分達でお金を集めて、その使用料も払っていましたね。だから運営費は一切かけずに、本当にそういう平場で一緒にやりましたね。

稲継 "まちづくり・ラウンドテーブル"という名前がついているということは、まずテーマとしては、まちづくりについて何かを考えましょうという大きな枠があって、ラウンドテーブルというのは、丸テーブルなので、誰が上位にあるとか下位にあるとかとか、上下の関係は全くなく丸いテーブルでみんなワイワイガヤガヤ話しましょうと、この両方が掛け合わさっている会議体と考えたらいいのでしょうか。

 ありがとうございます。そのとおりですね。
 今でこそ、私も、それを学術的にね、実践コミュニティというものとの類似性というものを、自分なりには整理したつもりなんですが、やはり領域を共有するということが大事で、領域を全く設けなければ単なる人の集まりなので、それでは少し意味をなさないだろうということで、領域は共有しようと。
 今、先生がおっしゃっていただいたように、「交野のまちづくりそのものの領域は共有しましょうね」ということですね。
 あとは、ラウンドなので、もう上下が全くない関係で、みんな対等に場の真ん中にどんどんどんどん意見を出していって、みんなで、話ながら、聞きながらという時間を過ごしましょうということですね。

稲継 言葉は良いのか悪いのか分かりませんが、まちづくりというテーマを一つのくくりにした大規模な井戸端会議と考えたらいいんでしょうか。

 私はそう言っていますね。井戸端会議ですね。私は別の言葉で、「『'えん'卓』ですね」って、「『'えん'卓』の'えん'は、ラウンドの円と同時に、人と人の縁ですよね。この『'えん'卓』ですよ。『出会い』と『気づき』だけをキーワードにやっているんですよ」と言っているんですね。
 だから、本当におっしゃったように大規模な市というものを一つの背景にした井戸端ですね。


 木訥とした話し方が印象的な中(なか)さんは、普通の地方公務員として、行政課、企画室と職場を歩み、都市計画の担当などをされてきた。ただ、その間ずっと、市民とのかかわりというものを断ち切ることはできない業務を一貫して歩んでこられたようにお聞きした。
 そんな中さんが、あるフォーラムで呼び止められて、「まず、やってくれ」と声かけられて、ラウンドテーブルを始めることになる。果たしてこれはスムーズに進むのか。