メールマガジン

第22回2017.01.25

なぜ私は多文化共生に取り組むのか?

 私の中で、多文化共生が真に"自分事"になったのは、今から10年ほど前に経験したある出来事が発端でした。当時私は、仕事とボランティアの両方で、在日外国人への日本語教育に携わっていました。日本語がわからなくて困っている人に教え、少しでも日本での生活がスムーズになるお手伝いをしていました。いえ、正直に言うと、「お手伝い」というような謙虚な気持ちはあまりなく、「教育」や「支援」という上から目線のような関わりだったように思います。相手ができないことを、できるように"してあげる"のが自分の役割だということに疑問も感じていませんでした。

 そんなある日、知人に誘われて近くの小学校の公開授業に参加しました。そこは外国籍児童が多い学校で、通訳が常駐していたり、日本語力が不十分な子どもたちを集めた国際学級があったりと、非常に手厚い支援が行われていたのに驚きました。それでも先生方からは、学習の遅れや友人関係、進路・進学に関する問題など、外国籍の子どもたちが抱えるさまざまな困難について伺い、さらなる支援が必要なことを理解しました。

 一方で子どもたちはというと、彼らが休憩時間に私に向けてくれたなんとも可愛らしい表情や楽しそうに友達と遊んでいる姿を見る限り、そんな苦労は微塵も感じられませんでした。公開授業の最後に、日本人の子も外国人の子も体育館に集まって、見学者の私たちの前で歌を披露してくれました。歌詞の1番を日本語で、2番をポルトガル語で、一生懸命歌ってくれました。

  そのとき、私は急に涙が止まらなくなりました。

 この目の前で楽しそうに一生懸命に歌を歌っている子どもたちには一見何の区別もちがいもありはしないのに、実際にはなぜ外国籍の子どもたちだけが学校生活やその後の進路・進学の過程で、先生方に伺ったような困難に直面しなければならないのだろうか、なぜ大人たちは今までこの問題を放置してきたのか、解決せずに今に至っているのか、と。いくら考えてもその答えはみつからず、ただただ自分より上の世代の大人たちへの怒りが湧いてくるばかりでした。もちろん、さまざまな検討や取り組みがなされてきたとは思いますが、それが結果に表れていないことを目の当たりにしては、気持ちを沈めることはできませんでした。

 しかし、そのときふと思ったのです。「もし10年後に、この問題がまだ解決していなかったとしたら、今よりもっと悪化していたとしたら、そのとき今の自分と同じようにだれかが感じる怒りの矛先は、10年後の私自身に向けられるのではないか」と。怖くて身震いがしました。それだけは絶対に避けたいと思いました。子どもたちが抱える問題、外国人が直面する問題は、大人で日本人の私自身から発生していることでもあるんだと思いました。それと同時に、これからの自分のあり方次第で、少しでも解決に近づく可能性があるとも思いました。その瞬間から、私はこの問題に対して、明確に責任を持つようになりました。有権者であり、マジョリティの一員である私こそが、多文化共生社会づくりに取り組むべきなのだと決心しました。

 私は生まれてからずっと日本国籍を持って日本で暮らし、家族や親戚にも外国籍者や外国にルーツをもつ人はおらず、外国語も話せず、外国に2週間以上滞在した経験もありません。そういう意味で、在日外国人からもっとも距離の遠いところにいるのが私かもしれません。そんな私が、多文化共生社会を目指し、当事者意識と責任を持って取り組むことにはそれなりの意義があると思っています。精一杯の想像力を働かせ、最大限に創造力を発揮して、これからもこのチャレンジを続けていきたいと思います。