メールマガジン

第81回2011.12.28

インタビュー:横浜市政策局共創推進室共創推進課 担当係長 河村 昌美さん(下)

 横浜市の河村さんは、広告付きバス停留所や、役所建物への民間広告事業などを実現していった。行政がビジネスをしかけていっている。(この点については、稲継が、福井県庁職員と共著で書いた、『行政ビジネス:PubBizの研究』(稲継裕昭・山田賢一著、東洋経済新報社)を参照されたい。恐竜博物館などを資源とした福井県の営業活動、ビジネス展開を豊富な事例で紹介している。是非、ご一読ください)。
 横浜市の河村さんは、次にネーミングライツに取り組んでいった。


稲継 なるほど。あとはネーミングライツの話は先ほどちょっと出ていました。例えばどんなものがありますか?

画像:河村 昌美さん
河村 昌美さん

河村 横浜F・マリノスのホームである、「日産スタジアム」が第一号になります。次に現在J2のチームである横浜FCのホームの「ニッパツ三ツ沢球技場」。まずは大規模スポーツ施設から始めました。そこから文化施設に展開し、子ども向けの科学館である「はまぎんこども宇宙科学館」に導入しました。その後、施設を特定して募集をするだけでなく、民間サイドからネーミングライツを行いたい施設を自由に募集するという仕組みを加え、「俣野公園・横浜薬大スタジアム」や「ベイクォーターウォーク」という歩道橋などの地域の小規模施設やインフラ施設などに展開しました。現在もっと小さなまちのインフラへの導入を進めるといった状況になっています。

稲継 なるほど。こういうのには結構応募はあるんですか?

河村 たくさんあるわけではないですが、公募するといろいろと問い合わせは来ます。

稲継 そうですか。ずっと広告事業のお話をお伺いしてきたんですが、財政局というところで広告事業を展開してこられて、平成20年から共創推進事業本部(現政策局共創推進室)に移ることになるんですね?

河村 はい、そうです。

稲継 今に至るということですが、この平成20年から1年程育児休業を取得しておられる?

河村 はい、取得していました。

稲継 イクメンというか、男性が育児休業を取るのは勇気が要ることだと思うんですが、その辺の話も聞かせてもらえたらと思います。

河村 ちょうどその時期、私は夜間のロー・スクールにも通っていまして、4年間で卒業するカリキュラムでしたので、3年間は財政局で広告事業の仕事をしながら夜間に学校に通っていて、修了の前の最後の1年は、ちょっと真剣に勉強しなければいけなかったんです。
 あとは、ちょうど初めての子どもが生まれることもあり、みんな育児休業を取ろう、という社会の流れもあり率先して取ろうと。仕事をして、学校に行って、夜中に帰ってまた朝に出ていくとなると全く子どもに会えず、誰、この人? みたいになると嫌だな、などいろいろな要素がありました。
 そこで、子どもができたことが分かった段階で、「私、育児休業を取ります」と。
 ただ、それまでに広告事業の基本の仕組みはきちんとつくるので、この1年は休ませてくださいという下準備をして、それで育児休業を取りました。

稲継 今、お話の中で、夜間のロー・スクールにずっと通っておられた時期は、ちょうど広告事業の立ち上げを行っている時期と重なるわけですよね。

河村 そうなります。

稲継 かなりハードな仕事をしながら夜はロー・スクールに通っていると、身体にかなり負担があったんじゃないですか?

河村 そうですね。横浜からかなり遠くの大学院で、仕事が午後5時15分に終わると電車に飛び乗り、午後7時半からの授業にぎりぎり間に合い、午後11時頃まで授業があるんです。午後11時頃に終わると終電の各駅停車に乗り、始発から終点まで2時間以上乗って帰ってくるんです。

稲継 えっ、そうなんですか。

河村 午前1時半前に家に着くというのを3年間やって、体力的には限界の状態でした。

稲継 晩ご飯はいつ食べるんですか?

河村 ほとんど時間がないので、電車の中でおにぎりを食べるとか。冬は腐りにくいので、サンドイッチとか夜用のお弁当を作っていくとか、そういうことをやっていました。

稲継 それは大変な数年間を過ごされました。およそ1年の育児休業から戻られたのが平成21年6月ですが、それから今に至るまで、財政局から共創推進事業本部に部署が替わってきましたが、やっておられる仕事としては広告事業をずっと展開してこられたわけですね。

河村 そうですね。おおよそ関わってきています。

稲継 なるほど。平成16年にスタートしてから6~7年経ちますが、この間、変化など感じられたことがあれば教えていただけますか。

河村 私どもが立ち上げたときは本当に初めてでしたが、今に至りまして、各地の大なり小なりほとんどの自治体で、この手の事業を積極的にやられているということにびっくりしているところです。
 もう一つは、民間サイドの方が、当初はご相談に伺っても「行政がこんなものを売っていいんですか? 売れるんですか? 僕たちにもわかりません」という状況だったのが、これをビジネスとして専門にやっている広告代理店がベンチャー企業として立ち上がっているという状況もあります。

稲継 そうなんですか。

河村 はい。行政相手の広告事業にメインで取り組まれている会社とか、通常のビジネスのかなりの割合を行政相手にもってきているところとか、専門の担当をつけている会社とか、民間サイドの見方が、「これはビジネスとして行けるかも?」 と思ってきている。それが大変嬉しいです。
 それに伴い、行政側としては、「こういうものがうまくできないか?」と投げかける相手が増えてきていますし、民間サイドも行政サイドに、「こんな企画があるんだけど、どうですか?」と提案があると、入札とかの制度の問題はありますが、「それ、面白いね。いいね」と聞く土壌はできてきています。相乗効果で盛り上がっていき、いつの間にか狙っていた官民の連携、今の「共創」がまさにそうで、自動的に広がってきています。ライバルが増えたという話もありますが、市場が拡大したという見方もありますので、そういう意味ではやってよかったなと思っています。

稲継 官民連携のマーケットがものすごく広がっているということですね。

河村 そうですね。

稲継 昔の行政法の解釈から言うと、目的外使用がどうのこうのとややこしい話ばかり言われて、もうこれ以上はやめた、とみんな意気消沈していたことが、どんどんやろうということになってきています。官民連携とおっしゃいましたが、見方によると「官民融合」になっている部分もあったりして、昔の完全な二分論とは違う世界に今は入っているということですかね。

河村 そうですね。私どもの広告事業がおそらく一番ビジネス寄りであると思うんです。それで始めていますし、その他、各地にPFI、公有資産の活用、指定管理者制度、特区制度など、まさに公民の連携のいろいろなことに皆さんが取り組んで、昔ほどその辺の垣根がなくなってきています。当然国でも制度改正を考えていただくことになりますし、垣根はなくさないといけないんでしょうね。節度は必要だと思いますが、今までの垣根はあまりにも高く、意味のない規制などもあったので、そういう面では非常にいい方向に来ているのかなと思います。

稲継 ありがとうございました。今まで、広告事業の話を中心にお聞きしてきたわけですが、ここで入庁されてから今までのこと、広告事業に関わられるまでのことをお聞きしたいと思います。
 河村さんが入庁されたのはいつになりますか?

河村 平成7年4月です。

稲継 入庁されて、最初に配属されたのはどちらですか?

河村 最初は鶴見区役所の地域福祉課に配属されました。当時、児童手当の事務担当から始まりまして、赤十字とか、共同募金とか、老人クラブなど、団体と言われているものの担当をしていました。他にも福祉の広報とかいろいろと経験しました。

稲継 なるほど。赤十字とか老人クラブを担当するというのは、やはり現場にも行かれることが多かったのですか?

河村 現在は制度が変わりまして、社会福祉協議会が担っていると思うんですが、横浜市の場合、当時はまだ、区がその団体のことをやっていまして、共同募金を集めるお手伝いを自治体も一緒にやったりしました。あとは、火事が起きると赤十字の物資などが必要になりますので、それを赤十字の方と一緒に運んだりして、現場にもよく行っていました。

稲継 老人クラブのほうも現場でいろいろ?

河村 そうですね。一緒にゲートボールをやっていました(笑)。

稲継 その現場の赤十字の方、あるいは老人クラブの方と触れ合う中で、どういうことを感じられましたか?

河村 採用試験の面接などで「どういう仕事をやりたいですか?」と言われると、特に横浜市って、やはり格好いいところが目立ちますし。

稲継 そうですね。

画像:みなとみらい21地区
みなとみらい21地区

河村 「みなとみらい21地区にかかわる仕事は、格好いいですね」とか、「大きなスポーツイベントに関わりたい」とか、やはりそういう仕事をやってみたいという意向は強かったですね。

稲継 そうですね。

河村 実際に、最初に配属されたのが鶴見区役所という川崎市に隣接する一番東京都寄りのところで、私はずっと鎌倉市寄りに住んでいましたのでほとんど縁がなかったんです。土地もわからないし、福祉については本も読んだことがない状況で、どうしようかなあと思っていたんですが、地域の方とストレートに触れ合っていろいろやると、現場の声はすごく刺激になるんです。自分が思っていたまちと、それを支えている市民の皆さんとが、自分の意識の中で乖離していたんですね。
 多くの学生はそうだと思うんですが、そこがくっついたんです。あっ、この人たちがいるからまちなんだなと。この鶴見というまちの地域性は、このおじいちゃんとかおばあちゃんたちがつくってきた、ということが非常に新鮮で、新人の20代の時に行ったことは経験として非常によかったなと、今でも思います。

稲継 なるほどね。そちらに3年ほどおられて、次に平成10年に異動されます。次はどういう部署に動かれたんですか?

河村 市庁舎の市民局広報課で、放送担当です。

稲継 放送担当ですか?

河村 はい。広報課の中には他にも広報紙の担当とか、冊子の担当とかがあるんですが、私は主に広報番組を担当しました。市がお金を出してつくる番組で、テレビ、ラジオ、当時は広報映画もあったんですが、そういうものを制作する仕事です。
 もう一つは、現在はフィルム・コミッションが全国各地にありますが、当時、横浜にはそういう組織がなかったので、事実上広報課でやっていたんです。横浜は、映画・ドラマなどロケが非常に多いので、問い合わせは広報課に来て、横浜にメリットがある撮影であれば、どういう施設で撮影したらいいかとか、許可を取る協力をしてあげるとか、そういう調整の仕事もやっていました。作ることと、フィルム・コミッション的な調整と、両方やっていました。

稲継 その時から、今、取り組んでおられる仕事に近い素地があったということですか?

河村 そうですね。私の場合、この異動がなければ、おそらくこの広告事業は立ち上げてないと思うんです。ここで、民間の皆さま、特に広告代理店とか、テレビ局、ラジオ局、映画業界など、通常の公務員の生活や仕事のサイクルから一番遠いところにある方々と仕事をしていました。

稲継 そうですね。普通の市役所の職員はまず接触しませんよね。

河村 しないですね。例えば、ドラマの撮影があれば、今までテレビや映画の中で見ていた女優さんが、普通に近くにいるわけです。これはまたすごい世界だなと(笑)。そういうところには、広告代理店、制作会社、非常に多くの民間の方が大勢動いていて、そういう方と知り合えた。また、当然スポンサーがついていますから、広告ビジネスの裏を見ることができたということです。そこがすごく勉強になり、得難い体験をさせていただいたというのが本音ですね。

稲継 なるほど。そちらで放送担当をやられた後は、教育委員会の教職員人事課に移ってしまうわけですね。

河村 そうですね。

稲継 この時の異動は、ご本人にとってはかなり意外な感じでしたか?

河村 そうですね。広報課に長くいましたので、後任に譲ろうということになりました。今までの広報課時代の仕事があまりに公務員らしくない仕事でしたので、「真面目な仕事をやろうか」と上司に言われまして。

稲継 真面目な仕事ですよね(笑)。

河村 そうしたら、非常に真面目な仕事になりました(笑)。本人としては勘弁してほしいなと思ったんですが、これも勉強だろうと、非常にカルチャーショックを受けつつ頑張っていました。

稲継 どういうカルチャーショックですか?

河村 広報、マスコミの仕事から、人事、それも教員ですよね。非常に特殊というか、オリジナルの世界ですよね。

稲継 そうですね。

河村 ルールもいろいろと違いますし、こういう仕事もあるんだなということで、転職みたいなものです。その辺の考え方から根本的に。広報課で映画の撮影などを調整していれば、もうイケイケで攻めの姿勢でいいと思うんですが、こちらは守りの部署ですから、攻めと守りが一気に転換ということです。自分は立場が替わったんだと意識しました。

稲継 なるほど。攻めと守り。守りの仕事をしながら、その後はアントレプレナーシップ事業に応募されるというわけですね。

河村 そうですね。攻めが忘れられなかったのかもしれません(笑)。

稲継 守りの仕事はやっているんだけど、応募して、それで通ってしまい、広告事業の業務をすることとなるわけですね。

河村 はい、そうですね。

稲継 ありがとうございました。いろいろと楽しい話をお伺いして、私もとても興味深く、そして勉強になりました。今日はどうもありがとうございました。
 最後に、このメールマガジンは全国のかなり多くの自治体職員の方が読んでおられます。どの自治体でも、今、人が減って、でも仕事が増えて、閉塞感を持っておられる自治体職員がかなりおられます。私もいろいろなところでそういう話を聞きます。でも、その人たちに勇気を持ってもらいたい、何か一つ図抜けてもらいたい、何か一つ突破してもらいたいといつも思っているんです。今、閉塞感を持っているが何とかしたいと思っている人たちに向けて、何かメッセージがありましたら、一言お願いします。

河村 私が広告事業を立ち上げたことが、一番皆さんのお役に立てる話だと思います。「こういうことができたら面白いよね」ということが皆さんの中にもいろいろとあると思うんです。
 私が思っていたのは、JRをはじめとした各地域の駅中には全てビジネスで、お店があったり、タレントさんや美しい風景写真などのビジュアルを使った格好いい看板があったりして、にぎやかでいいなと。まあ、雑然としているという見方もありますが。
 そのような駅に駐輪場とか、エレベーターとか、必ず付随する公共施設を行政がつくることがあります。

稲継 はい、そうですね。

河村 大抵そっちは何もなく真っ白なんです。

稲継 ああ、そうですね。

河村 それはなぜなんだろうと。何でもガチガチしてお金儲けを考えるのはよくないと思うんですが、来る人がちょっとハッピーな気分を味わえたり、便利さを感じるということ、それは行政だけでは提供できないサービスだと思うんです。格好いいとか、便利とか、お店などは民間の方が入らないとできない。それができたらとても楽しいし、自分の使っている駅の付随施設がそうだったらハッピーだなと思っていたんです。
 それを実現するためにこの事業を立ち上げたということもありますので、今はできないかもしれないけど、やればできるかもしれない。
 そして、ハッピーなこと、楽しそうなことを思いついているのなら、それを一緒に面白いと思ってくれる仲間を集めることです。

稲継 仲間を集める。

河村 そうですね。やはり組織ですから一人ではなかなか出来ない。ただ、仲間を集めてその人たちと、本当に地方自治法はそういうことを言っているのか? などと、楽しいことをやるためにクリアすべき部分の根本のローカルな部分を考えてみる。そして、それを周りに伝える。そうやっていくと、突破口のヒントが見つかりますし、次第に理解者・応援者も増えます。そして自分が楽しいと思っていれば、真剣に勉強し、調べると思うんです。それをいつも意識してやっています。
 恐縮ですが、みんな自分の趣味や関心、得意な分野が絶対にあると思います。それは社会と何かしらつながっているはずなので、それを活かしてやっていこうとすれば、やる気も出るし、何かしら突破口が見つかるのかなと。まあ、そのためには自主的に勉強はしないといけないと思いますが。

画像:「コクリコ坂から」ポスター
「コクリコ坂から」ポスター

 私が今年一番楽しさを感じてやっている仕事が、スタジオジブリの「コクリコ坂から」という映画との、集客推進・市のイメージアップのためのタイアップです。映画の舞台が横浜ということで、地方自治体とスタジオジブリと映画スポンサーであるKDDIとがタイアップした事業です。スタジオジブリ映画と地方自治体との公式な連携は全国初の取組みなんです。

稲継 そうなんですか。

河村 はい。映画に関わる本当に多くの方々と接し、楽しかった半面、初物尽くしでとても大変ではありましたが、こんな楽しい仕事はまあなかなかないだろうと。まさに、広告事業を立ち上げた時に目指していた「こういうことができたら面白いよね」というものだったんですね。なかなか思う通りには出来ないこともありましたが、一生懸命やりました。
 この仕事は予定外の飛び込み仕事でしたが、これまで楽しいと思ってスキルをアップし、ネットワークを広げ、前向きにやっていたからこそ、話が来て携わり実現する機会が得られた仕事なのだと思っています。自分が楽しさやハッピーな気持ちに感じることをどう実現するか。そのためにはスキルや仲間等々何が必要なのか、そこを中心に考えていただければ、絶対に何か生み出すことができるのではないかと、私は思っています。

稲継 はい、ありがとうございました。今日は横浜市の河村昌美さんにお話をお伺いしました。どうもありがとうございました。

河村 どうもありがとうございました。


 河村さんのワークライフバランスの実態から学べることは多い。働きながらロースクールに通う。子供が生まれると、育児休業をとる。しかし周りには迷惑をかけないようにする。彼の言葉にもヒントは詰まっている。「ハッピーなこと、楽しそうなことを思いついているのなら、それを一緒に面白いと思ってくれる仲間を集めることです。」「仲間を集めてその人たちと、本当に地方自治法はそういうことを言っているのか? などと、楽しいことをやるためにクリアすべき部分の根本のローカルな部分を考えてみる。そして、それを周りに伝える。そうやっていくと、突破口のヒントが見つかりますし、次第に理解者・応援者も増えます。そして自分が楽しいと思っていれば、真剣に勉強し、調べると思うんです。」
 分権時代の自治体職員として心がけるべきことのヒントがここに凝縮されている。