メールマガジン
分権時代の自治体職員
第67回2010.10.27
インタビュー:赤平市社会福祉課 大井 弘幸さん(上)
住民というのは、サービスの受益者であると共に、自治体財政を支える税負担者でもある。まじめな納税者がおられる一方で、そうでない住民もいる。今回は、「まっとうな9割の納税者の視点」を標語に掲げ、活躍する職員を紹介しよう。
稲継 今日は、北海道 赤平市 にお訪ねして、ZEIMNET21 の立ち上げで有名な大井さんにお話をお聞きしたいと思います。大井さん、どうぞよろしくお願いいたします。
大井 よろしくお願いいたします。
稲継 大井さんが、この赤平市役所に入庁されたのは、いつ頃になりますでしょうか?
大井 ちょうど住友赤平炭鉱が閉山した年なんですけれども、平成6(1994)年に入庁させていただきました。
稲継 そうですか、その年に、赤平市にあった最後の炭鉱が閉山されたということですね。最初に配属されたのはどのような部署ですか?
大井 最初は、建設部下水道課業務係に配属となりました。私は一般事務採用だったのですが、当時は下水道事業が盛んに行われており、技術屋さんが多くいる部署で、行政のイロハが分からない状態で、下水道の業務を担当させていただきました。
稲継 そもそも、この赤平市役所の職員になろうと思ったきっかけは何かありますか?
大井 弘幸さん
大井 それがですね、当時、私が小学 4 年生だったんですけれども、赤平でもまだ、 2 万人以上の人口がいたんです。夏休みに、市の教育委員会が市内の小学生、子供たちを集めたジュニアキャンプを企画されていまして、そこに私も参加させていただく機会がありました。
北海道で管理する日高の青少年の家にキャンプに連れていっていただいたときに、市役所の教育委員会の職員の方々から、キャンプファイアーを指導していただいたり、登山に連れて行っていただいたんです。その市役所の職員の姿を見て、すごく憧れたんですね。その時、当時の文集に将来の夢を市役所の職員になると書いてしまった事がきっかけだったんです(笑)。
稲継 普通は、パイロットになるとか、宇宙飛行士になるとか、そういう夢が多いんですが、市役所の職員になるということを、その時から決めておられたということですね。
大井 そうですね。文集にそういう夢を書いたということが、本当にきっかけだったんです。それで、入庁したときに、当時講師だった職員の方が、教育委員会の管理職になっていらっしゃいまして・・・。
稲継 お偉いさんになっておられたんですね。
大井 初登庁のときに、当時のキャンプの写真だとか僕が職員になりたいと書いた文集を大公開されて、大笑いされた記憶が今でも蘇りますね(笑)。
稲継 そういう思いがあって、市役所に入って、最初は、下水道課業務係に配属されたのですけど、ここには何年くらい、いらっしゃったんですか?
大井 ここには、比較的長く 5 年間いました。
稲継 主に、その頃に思い出に残っているような仕事の変革ですとか、取り組んだことはありますか?
大井 この時は、正直、市役所に入って、右も左も分からない状況の中で、大した志もなく、行政の雑務事務みたいなことを日々淡々とさせていただきましたね。当時の自分を考えると、今の自分は想像できません(笑)。
稲継 割りと、淡々と日常事務をしておられたと。
大井 そうですね。
稲継 5 年ほど、いらっしゃって、次はどちらに異動になったんでしょうか?
大井 それがですね、異色の経験だと思うんです。旧産炭地は夕張をはじめ、全国的にも、革新のまちということで、炭鉱労働者などの労働運動が非常に盛んな土地柄でした。そんな環境もあり、当時、空知管内にある自治体の輪番制で自治体職員を労働組合に派遣するということが、慣習になっていたようでした。
そこで、当時、まだ行政のイロハも分からないまま、当時の市長から「人生の1ページのつもりで行って来い」ということで、休職辞令を渡されまして、平成10(1998)年から2年間は労働運動の最前線で過ごしたという異色の1ページを送りました。
稲継 休職専従で出向されたわけですね。そこで、組合の職員として働いておられたわけですけど、何か、感じられたことはありますか?
大井 そうですね、この1ページが自分の人生に大きな影響を与えているように思います。労働組合、また、自治体職員として、権利と義務を考えたときに、何が見えたかというと、自分の職務義務をおろそかにして、権利は主張できないということですね。また、職員と、その家族の権利を守ることを仕事にさせていただいていましたから、職員の権利と義務をよく知ることができました。それが、今の自分に影響を与えています。
稲継 2 年間休職出向で、専従期間があって、役所に戻られるわけですね。その頃は平成の・・・。
大井 平成12(2000)年になります。
稲継 その時は、どういう部署に配属になりましたか?
大井 はい、商工労政観光課の観光係に異動になりました。無事に、復職できるのかという、心配もあったんですが、現場復帰ということで、やっと、規則正しい生活ができるかなあと思っていたんです(笑)。しかし、炭鉱閉山後の政策として、市の第三セクターとして、赤平市花卉園芸公社が設立され、そこで、胡蝶蘭栽培が行われていたんです。その胡蝶蘭栽培の生産高が全道一ということもありまして、当時、そこの社長が市の収入役を兼ねていたものですから、赤平で北海道一の胡蝶蘭のイベントをやろうという事になりました。
そこで、帰って来て早々、「イベントを立ち上げる事務局をやりなさい」と命じられました。右も左も分からない状況の中で、全道各地のらん友会の皆様に協力のお願いに伺ったり、北海道新聞社や NHK 札幌放送局、 JR 北海道などに主催・後援のお願いに走り回ったという記憶がありますね。イベントのイロハや、地域や民間の皆様と汗と涙を流すという地域の「明」の部分を見る事ができました。今でも「北海道の春は赤平から」という標語は、ポスターに記載されています。
稲継 そうですか。ここではどのくらい、いらっしゃったんですか?
大井 2 年間ですね。
稲継 2 年間おられて、平成14(2002)年に税務課の納税係に異動されたんですね。その時の最初の印象はどのようなものでしたか?
大井 観光部署が行政現場の「明」と例えるならば、納税係は、「暗」の場所だったんですね。正直に言うと、観光係では、地域のイベントや活動の中で名士と言われる方々と頻繁にお付き合いをさせていただいたり、まちづくりでも、一緒に活動させていただいたんです。
しかし、実際に納税係で「暗」の部分を見たときに、その実態に愕然としたんです。名士と言われているような人たちや、企業・会社で高級車を乗り回しているような人たちが、社会的な義務を果たしていないのに、権利ばかりを主張している実態があったんです。それに非常に憤りを感じて、初めて「まっとうな 9 割の納税者の視点」に立てた第一歩だったと思います。
稲継 つまり、煌びやかな活動をしているのに、実は納税義務を果たしていないような高収入者がいて、それを見てしまったということですね。
大井 そういう人たちが許されている一方で、わずかな年金収入しかなく、文句も言わないような、税金を徴収し易い、おじいちゃんやおばあちゃんからは、淡々と徴収するという実態がありました。職務として組合に出向していたときもそうだったんですけど、権利ばかりを主張して、納税の義務、また、徴収する義務、職員として業務を遂行する事を、果たしていないのではないかという思いはすごく強くありました。
稲継 多くの自治体で、当時は、強制徴収だとか差し押さえは非常に珍しい例で、めったにやっていなかったと思うんですね。赤平市もそういう状態だったんだと思うんですけど、それに対して、どうしようと思われたのでしょうか?
大井 自分の思いの中で、どこの視点に立つべきなんだろうと、すごく色々考えたんですね。誰を基準に考えて、どのような仕事をしていけばいいのかを考えたときに、やっぱり、まっとうに納税をしている 9 割の納税者の視点に、ここでは立つべきだと思いました。預金の差押えすら執行されていない状況で、正直者が馬鹿を見るような、とり易いところからだけ徴収している、この現場をどうにかしなきゃいけないと。
稲継 現場、自治体の現場ですね。
大井 それを変えたいと、強い思いを持っていたその当時に、全道各地の徴税吏員が集まる税務研修会があったんです。そこで、いろんな税に関する研修を受けて、ご存じの通り、市道民税は、道民税分も現場の市町村が全部徴収するという制度の中で、その研修内容も含めて、現場の徴税吏員や職員の悩みなどの実態が反映されていない。「まっとうな 9 割の納税者の視点」で差押えをしたい、そんな熱意・情熱の思いがあって、矛盾と葛藤と闘っている職員が本当にいっぱいいるんです。でも、いっぱいいるのにどうしてできないかというと、やっぱり「旧態依然の行政の殻」の中に閉じ込められているんです。
それじゃあということで、よくある話かもしれませんが、その研修で会ったメンバーと、懇親会の場で、お酒の勢いを借りて、僕らは上級官庁や都道府県の指導助言を受けるだけじゃなくて、自発的に僕らが発信して行こうじゃないかと。そこで、 ZEIMNET21 という志と名は大きい組織を旗揚げしようと提案しました。実際は僕が管理者となりメーリングリストを立ち上げたっていうだけの簡単なものですが、それがきっかけで、多くの熱意・情熱の思いを持った「意情」な仲間とつながるきっかけになっていったんですね。
稲継 なるほどね。研修が1つのきっかけになって、人と人とのつながりができて、それを、核にして広げていかれたということですね。
大井 そうですね。
稲継 具体的に、 ZEIMNET21 の中ではどういうことに取り組まれたのですか?
赤平の胡蝶蘭
大井 ちょうど、この当時の平成17(2005)年以降に、インターネット公売が自治体の中でも取り入れ始められていました。今までの自治体の現場というのは、単独で自治体が公売を行うということは、なかなか難しいことだったんです。しかし、インターネットの普及もありまして、オークションや公売をネットでできることが流行り始めたときに、 ZEIMNET21 の志があったものですから、じゃあ、先ほどの観光係で、蘭フェスタを立ち上げた時のように、やってみようと。
らんフェスタ赤平を「北海道の春は赤平から」という思いでやったときのように、「北海道で一番になろう」と、赤平の田舎の職員でも、こういう取り組みができるんだぞという思いで、捜索・インターネット公売に取り組みました。当時は北海道だけでしたけど、北海道全道の同じ境遇の仲間に、その思いが伝えられればという思いで、必死に取り組みを始めたのですが、その取り組みは非常に厳しいものがありました。
稲継 厳しい?どういったことでしょうか?
大井 やはり、新しいことへの挑戦というのは、近隣市町村の動向や前例がないという状況の中で、内部から反対がありました。しかし、第2の夕張と言われ始めた頃で、この取り組みは、どうしてもあきらめきれないということで、本当に、多くの同じ志を持っている人や仲間に協力していただきました。
稲継 仲間というのは?
大井 同じ納税係の仲間ですね。また、全道からの ZEIMNET21 の応援にも支えられていました。そして、インターネット公売に出す物件をなんとか、差押えすることができたのですが、ただ、そこに、非常に険しい道のりがありまして・・・。
稲継 それはどういうことですか?
大井 一般的には、まちの首長名で差押えをしていることが少なくないと思うのですが、初めての試みで、北海道の市町村で事例がないことから、内部からは「市長名で差押えすることは難しい」という話になりました。じゃあ、どうすればいいんだと、当時の仲間たちと話し合いました。そうすると、国税徴収法上、徴税吏員でも差押えができるということになっておりますので、誰かの個人名でやるしかないぞと、これは誰かが覚悟しなきゃならないということになりました。すると、先輩たちもいたんですが・・・、まあ、大井だろうと(笑)。今でこそ冗談で済んでいますが、そこは覚悟も処分も受けてくれということで、暗黙の了解で、みんなの思いも受けつつ、北海道市町村初のインターネット公売の差押吏員として、差押えをさせていただきました。最終的に、その物件は SL の模型だったんですけれども、 800 万円で落札されました。
稲継 800 万円ですか。非常に高額ですね。
大井 はい、自主財源確保の新たな手法として、全道全国的にも、評価をいただいたんですけれども、同時に、その事が影響してか否かは分かりませんが、その年度の 3 月に農政課農政係に異動になりました。
稲継 これは、どう考えたらいいでしょうね。つまり、目立ったから動かされたのか、あるいは、優秀だから他の部署でも活躍してくれということなんでしょうね。人事のメッセージというのは分からないですよね。説明はせずに、異動発令しかしませんからね。大井さん自身はどういう風に受け止められたんですか?
大井 そうですね。この時点で、恵まれた仲間たち、現場の仲間たち、全道全国の仲間たちに支えられて、覚悟を決めて、差押吏員になったということだったんですけれども、やはり、本音の部分で言うと、自主財源確保がまちの命題とまで、言われていましたので、これからが新しい僕の領域だと思っていたんです。しかし、その最初で最後の差押えで異動になったものですから、やっぱり志半ばという思いは非常にありましたけれども、ただ、メッセージとして、全国の仲間にその思いと勇気と希望を伝えられた、それが、広がっていったことで、ちょうど 、 フィフティ・フィフティ の気持ちを持って、前向きに考えてやっていましたね。
稲継 そうですか。先ほど、立ち上げられたという ZEIMNET21 は別に部署が変わっても、メンバーが入れ替わるわけじゃなくて、ずっとそのネットワークは続けておられるわけですね。そして、今でも仲間と色々と情報交換を続けていらっしゃるわけですね。
大井 そうですね。平成 17 年というのは初めて取り組むという領域でしたが、今、インターネット公売は、どこの自治体でも自主財源・歳入確保の手法として、ほぼ当たり前に行われています。ですから、インターネット公売の手法を普及したり、その思いを伝えることについては一定の役割を終えたのかなと思います。
ただ、人と人とのつながりっていうのは、部署が変わっても、つながっていくものです。また、色々な現場を回ってきて、税部門に戻ってくることもあるでしょうから、そういう意味ではこの ZEIMNET21 のメーリングリスト自体は、コミュニケーションの場所として、しっかりつなげていきたいなと。今でも、個々でつながったり、一緒に話をさせていただいたり、ご縁があって当時のメンバーとプライベートで付き合ったりしています。
稲継 平成 17 年に、いわゆる徴税部門である納税係から、農政課の農政係に移動されたと。差押えしたりする徴税という部門は嫌がられる職場ですし、いくつかある役所の中では行きたくない職場の1つではありますよね。でも、大井さんはそこにやり甲斐を見出しておられるから、先ほど フィフティ・フィフティと おっしゃられていましたが、悲しさ半分、でもやり遂げた思い半分ということでした。農政課に移られて、今度はどういう仕事に携わられたのでしょうか?
大井 北海道農業というのは、全国的にも自給率が 200 パーセントだとか言われていますが、実際、まさしく畑違いのところに異動させていただきました。当初、徴税吏員証を剥奪されたという思いの中で、悲しみにふけっていたときもありましたけれども、北海道農業について本当に多くのことを農業者の皆様から勉強させていただきました。
赤平の一次産業って何?と言われたら一昔前までは、鉱業から工業へというネーミングで企業立地に力を入れておりましたが、今では経済状況も悪く、企業誘致も進まず、企業立地を推進する単独の係さえなくなってしまう中で、空知管内と上川管内は米どころで、田作地帯ですから、赤平の一次産業は米農家であることに気づきました。しかし、ここでも大きな課題があり、一般的に言われている少子高齢化の影響で、農業の担い手がいなくて、休耕田や遊休農地などが増え始めました。過疎地になればなるほど、そういう大きな問題が出てきます。
そこで、どのような対策が必要かと考えると、やはり若手農業者の担い手の育成が重要であると強く思い、施策に携わらせていただいたんですね。当時、赤平市にもまだ、 20 代の若手農業者が 4 人いましたので、私が事務局になりまして、 4 人の若手農業者と農協職員、 JA 共済の職員、道の農業普及員などの皆さんに声をかけてですね、これも勢いなんですけど、「 Y ネット赤平」というものを立ち上げたんです。 Y って、何だってよく言われるんですけど・・・。
稲継 何でしょう?
大井 ヤングなんです(笑)。よく、ヤングですかみたいな感じで笑われたりもするんですけど、単純で純粋な思いを伝えるために Y ネット赤平を立ち上げたんです。最初は本当に手弁当で、農協の組合長・役員の支援や、農業者の理解と協力を得るために、戸別に回らせていただき、農政課職員らしく、稲穂のようになっていた事を思い出します。これは、観光係で得た後援会への依頼だとか、協力依頼だとかで身に付けられてきたものが、農業の分野でこういう団体を設立するときにも、すごくいい経験になっていましたね。
そして、 Y ネットのメンバーと米を担いで、畑作地帯である十勝などに行って、新米の PR をしたり、一緒に農業機械の研修に行ったり、そういう活動を率先的にやってきました。今では、 Y ネットのメンバーも、赤平のまちづくりの中核を担うようなメンバーになっていますので、本当に、種をまく農業のように、自治体職員も種をまいていくということは大切で、重要なことなんだと実感する現場でした。
稲継 中核人材が育っていくというのは、役所の職員にとっては、すごく心地よく、うれしいことですよね。それを実際にできたわけですよね。とても、素晴らしいことだと思います。この農政課には 2 年ほどおられて、その次はどちらの部署に異動されたのでしょうか?
大井 その後ですね、平成19(2007)年に、社会福祉課の福祉係で、身体障がい者の担当をさせていただいたんですけど、ここが行政現場で究極のグレーなところだったんです。
稲継 どうしてですか?
大井 実際に、福祉の領域というのは、非常に奥が深いなと思いますね。
ZEIMNET21を立ち上げ、また、インターネット公売に取り組んだ大井さんは、すぐに農政課に異動を命じられる。そこでもYネットを立ち上げるなど、現場と関係者、役所をつなぐ仕掛けを立ち上げていくことになる。その後の赤平市を担う中核人材を育てるきっかけとなる種をまき続ける大井さんは、福祉の現場に飛び込むことになる。