メールマガジン
分権時代の自治体職員
第65回2010.08.25
インタビュー:京都市総合企画局政策企画室 政策企画課長 林 建志さん(上)
全国の自治体で事務事業評価が一般的になっている。その評価シートはさまざまであるが、全国の自治体から視察が相次ぎ、さまざまな学術論文でも取り上げられているのが、京都市の行っている事務事業評価の仕組みである。そのやり方をそのまま真似た自治体も少なくなく、コンサルタントに依頼しても京都市型のものが提案されることも多い。
その事務事業評価の仕組みを、行政改革課において作り上げた人が今回紹介する林さんである。林さんはまた、ワークショップ方式による公共施設の設計の先鞭をつけた人でもある(あとで紹介する嵐山の公衆トイレのデザインワークショップ)。
稲継 今日は、京都市役所にお邪魔して、 京都市 の林さんにお話をお伺いします。林さん、どうぞよろしくお願いいたします。
林 よろしくお願いいたします。
稲継 現在は、総合企画局政策企画室の政策企画課長でいらっしゃるんですが、京都市役所に入庁されたのは、いつになりますでしょうか?
林 入庁したのは、昭和 60 ( 1985 )年です。
稲継 最初の配属先はどのような部署でしたでしょうか?
林 住宅局改良事業室の管理担当でした。旧同和地区でクリアランスをして建設した改良住宅を管理する部署でした。それが一番初めの職場です。
稲継 具体的には、どういう仕事をすることになるのでしょう?
林 そうですね、コミュニティセンター(旧隣保館)に同居する形で、家賃の収納をしたり、計画修繕をしたり、あるいは、日常のいろんな苦情ですね、それに対応するといった仕事でした。
稲継 それでは、市役所の本庁内にいるのではなくて、現場の方に職場があったということになりますか?
林 当時はそうやったんですね。当時、所属は本庁やったんですけれども、実際は現場に常駐する形になっていました。初仕事は忘れもしません。辞令をもらって現場に着任早々、電話がかかってきまして、改良住宅の中庭に植えてあったツツジが抜かれて放置されていると連絡がありました。すぐに、新規採用早々で、慣れない背広姿でフウフウ言いながら、ツツジの植え替えをしたというのが、私の初仕事です。
稲継 そういうことまで、やらなければいけなかったんですね。
林 ええ、共有部分でしたからね。いろんな仕事がありました。植栽に毛虫が大発生してそれを駆除していたら毒にやられて顔がパンパンに腫れて医者に駆け込んだとか(笑)。
稲継 管理をやっておられたと。その仕事は何年ぐらい続けていらっしゃったんですか?
林 実は、その担当は 5 カ月間だけやったんです。急遽、同じ改良事業室の庶務担当の課に配置替えとなりました。そこは元々、欠員があったんですが、もう 1 人の担当者が、産休に入られまして、その補充という形でした。
稲継 なるほど。では、同じ部署だけれども、全然違う仕事をやるようになったんですね。
林 そうなんです。
稲継 庶務担当では、どのような仕事をされたんですか?
林 いわゆる 市会 対応や、一般庶務ですね。
稲継 庶務全般をやっておられたんですね。一般的に、入庁して、最初によく役所でいろんなことを経験しろと言われるわけですけれども、庶務で役所の議会対応だとか、関連団体の対応だとか、いろんなことを経験されたと。
林 そうですね、結果として 1 年半だけだったんですけれども。改良事業室は、管理を担当する部署もあれば、用地買収をする部署もあって、 120 人ぐらいの大所帯でした。
稲継 それは、大きいですね。
林 人数が多いですから、庶務の仕事というのは、雑務も含めて毎晩遅くまで残業続きで・・・。
稲継 じゃあ、例えば、職員の福利厚生だとか、給与だとか全部色々やらなきゃならないと。ありとあらゆることを担当していたということですね。
林 それだけでなく、異動早々に公金詐取事件という事案が、その職場を舞台にして起こりまして、その対応が非常に大変でした。肉体的にも精神的にもへとへとになっていたのを覚えています。
稲継 不祥事対応ですね。
林 そうですね。
稲継 なるほど。採用されて半年ほどで、困難な事件を担当されたということですか。そこにトータルで 2 年おられたということですね。
林 そうです。改良事業室は 2 年間ですね。
稲継 それから、次にどういう職場に異動されたんですか?
林 それからですね、同じ住宅局内ですが、住宅企画課というところに異動しました。仕事内容は局全体の庶務でした。そこで、局としての市会対応とか、いわゆる人事・労務の仕事を結局、 6 年間担当しました。
稲継 そうすると、住宅局におられたのが、 8 年ということになるんですね。 8 年おられた中で、何か印象に残っている出来事はありますでしょうか?
林 まず現場の仕事で言えば、住宅の管理担当でしたから、家に上がり込んで、おばあちゃんに、水道のパッキンの変え方なんかを教えたりすることもあったんです。そんなことをする中で、住民の方々から、いろんな話を聞くことで、現場の課題とかいろんなことがまさに肌身で感じることができました。現場というもののホンマの大切さ、そこで学べることが自治体職員としての冥利やないかと思いますね。
稲継 なるほどね。
林 もう1つありまして、先ほどお話したとおり、公金詐取事件というものがありました。起きた要因としては、用地買収を進めるために、営業損失補償を上乗せするなどして、裏金を作っていたということがあったんです。当時で言えば、必要悪で、事業を進める上ではしょうがなかったと言えなくもない。ただ、そういう中で僕が、一番学んだというか思ったことは、やっぱり正しいことをするためには、常に正しいことをせなあかんということです。
稲継 正しいことをするためには、正しいことをしなければならない?
林 建志さん
林 言い違えました、「正しいことを人に求めるには」です。公務労働の基本は正義ですよね。自分が間違ったことをやっておきながら、市民の皆様に対して「こうしなさい」なんて言えるわけがない、そう思いました。最近のニュースでも、どこかの自治体で裏金を作っているような報道がありますよね。未だにそんなことやっているんかと思うんですけど、日常の業務の中で、日付を直したりとか、些細なことに思えるかもしれませんが、一度間違ったことをやってしまえば、次はもう少し、その次はもっとと、間違ったやり方がどんどん大きくなっていく可能性があります。ですから、私は、例え時間がかかろうとも、正しいやり方を常に追求するようにしていますし、部下にもそうするようにお願いしています。
稲継 なるほどね。 8 年間おられたときに、上司や先輩で、特に、この人に出会ってよかったと思うような人はいらっしゃいましたか?
林 そうですね、私はずっと上司に恵まれてきたと思っているんです。自治体職員って、仕事で成長する面も多々あると思いますが、どんな上司に付くかというのも、すごく自分の成長に影響があるなあと思います。これまで上司の一人ひとりにいろんなことを教えて頂きました。
一番初めの現場の係長は、現場で大変苦労されてきた職人肌の方だったんですけど、たった半年足らずで異動が決まって、その際の一言が支えになってこれまで頑張れたなあと思っています。「林君、頑張りや、頑張ることに対しては、誰も文句は言わへん、そやからとにかく頑張れ」というはなむけの言葉をいただいて、それで、新職場で事件が起こって、毎日毎日、夜中の 1 時、 2 時になるんですけど、頑張れましたね。精神論なのかもしれませんけど、その上司自身がホンマに現場で体張って頑張ってはったんで、言葉と行動が一致してるといいますか、ですから、自分も頑張らないかんなとしみじみ思ったわけです。
次の係長もやっぱり、いろんな苦労をされてきた人で、いろんなことを教えてもらいました。毎日のように飲みに連れていってもらいまして、仕事だけでなく、人としての生き方といえば大袈裟かもしれませんが、人間味溢れる付き合いをさせていただきました。今そういった上司部下の関係がずいぶん薄れてきてしまったようで残念な気がしますね。
それ以降の上司もそれぞれにいっぱい学ばせて頂けたし、プライベートも含めて色々と面倒をみて頂ける人間味溢れる凄い人ばっかりでした。ほんと恵まれていたと思います。
稲継 上司に恵まれた 8 年間だったんですね。住宅局に 8 年おられて、次はどちらに異動されたんでしょうか?
林 京都大学の大学院に派遣されました。
稲継 京都大学大学院の専修コースで派遣研修を受けたということですか?
林 そうです。
稲継 一応、どちらかの市役所の部署に所属されて派遣されたのですか?
林 今は名前が変わっていますが、当時の総務局の職員研修所付けでした。
稲継 そこから派遣されるという形で、 2 年間大学院で学ばれたわけですね。そこで、どのようなことを経験されて、どのようなことを学ばれたんでしょうか?
林 一番経験したというか実感したのは、本当に自分の頭が錆びついているなあということです(笑)。 30 歳を過ぎて、他の院生さんたちの読書の速さに比べて自分はなんと遅いことかと、劣等感に苛まれました。ただ、役所から離れて、おもしろかったことがあるんです。内部管理事務などの庶務をずっと担当してきましたよね。そのときに、2つのことを思いました。1つは役所の中では、人事労務を担当する人はどちらかというと中枢というかエリート的じゃないですか。
稲継 人事はどちらかというと、エリートですよね。
林 それが、全く大学院のスクーリングでの発表とか議論では、通用しないし意味がない。むしろ、窓口でこういう仕事を担当してきたとか、測量事務でこんな苦労があったとか、そういう話はいくらでも、共感を得るし、迫力があるわけですけれども、自分は何もしゃべることがないなと。私はこの 8 年間何をしてきたんだろうと思いましたね。
それと、もう1つは、客観的に組織を見つめ直す機会ができたなあと。行政ってなんなんだろうとか、どういうことを目的にやっているんだろうとか、そこで自分は何をしたいのかとか、少し冷めた目で見ることができました。言うなれば、市民感覚、市民目線で、市役所なり自分自身を見直せて、頭を一回リセットできた気がしますね。
稲継 自分たちの世界をちょっと離れて見るという機会を 2 年間持てたということですね。
林 私にとって、非常に大きな転機でした。
稲継 その 2 年間の経験をされて、今度は市役所に復帰されるわけですが、その時には、どのような部署に異動されたんでしょうか?
林 都市計画局の都市づくり推進課という新設された部署に、調査担当係長に昇進しての異動となりました。
稲継 そちらでは、どのような仕事を担当されたんでしょうか?
林 都市づくり推進課というのが、非常におもしろいセクションだったんです。当時の都市計画局長から、「君たちは、まちづくりの別働隊、機動隊なんだよ。ですから、何でもしていいよ。 3 年間は大目に見てやるから、いろんなことをしろ」と言われました。
課に3つの係があって、私の担当以外では、いずれも建築技術職のスペシャリストが係長で、京都市の中心部をどのようにしていくかという、京都市の新景観政策の基礎になるような計画や、高度集積地区といって、京都の南部をどういうふうにしていこうかというダイナミックな計画を作る企画ラインと、京都市内に多くある袋路をどう再生するかとかいった事業の推進ラインがありました。
一方で、私はですね、事務職として、どちらかというと庶務的なこともしながら、あまり明確なミッションがなかったんです。
稲継 何をやってもいいと。
林 ただ、 景観・ まちづくりセンター の企画というのがあるにはあったんです。以前に、2つの部署で、別々に企画がされてたんですが、どうも2つともうまく進んでいなくて、こちらに取り敢えず回された感じだったんです。
1つは景観セクションで、景観センターという京都市の景観について研究する機関を作ろうということが計画されていました。もう1つは、まちづくりセンターという、当時、建設省が進めていたまちづくり情報センターのような機能を作ろうという計画があって、両方とも、どうもうまくいっていない。それをなんとかするというのがメインでした。
稲継 それはうまく、できましたでしょうか?
林 以前から、市役所と市民との距離が大きいといいますか、なんで二項対立みたいな関係にになるんやろうという疑問を持ってまして、大学院でもそれなりに市民参加について勉強したりしてたんです。それで、局長の「何やってもいい」との言葉に励まされて(笑)、景観・まちづくりセンターには市民参加の要素を組み入れようと思いました。実は、京都市は市民参加のいわば老舗で、 1980 年に作られた第 1 期の基本構想にも明確に市民参加の推進って書かれています。どの都市よりも一番初めに明記されたとも言われているようなんです。
ただ、当時は、シェーン・アーンシュタイン(米国社会学者)の「参加の梯子」で言うような、形式的な参加、つまり情報公開とか広報広聴ぐらいのことしか想定されていませんでした。でも今は、実質的な参加、つまりパートナーシップとかですね。具体的に言うと、最近ではワークショップ形式を使って、住民の方々と水平関係で一緒になって、責任も役割も権限も分担しながら、やっていこうということが当たり前になりつつあります。でも当時はまだ、ワークショップ的なやり方は世田谷区とか一部の先進的な都市で試み始められたぐらいで、あまり知られていなかった。景観・まちづくりセンターには、市民・地域と行政、あるいは、企業・事業者とを結ぶような機能を持たせたい。そのための1つの手法として、ワークショップ的な考えや手法が有効ちゃうかと考えたんです。ただ、考えたんですけど、誰も分かってくれない。「ワークショップってなんや?軍手でも売ってる店なんか?」っていう風な具合に(笑)。ですから、まずは、そうしたことを広めるための仕掛けを一生懸命やりました。
稲継 具体的に、嵐山で何かされたとか伺いましたが?
林 そうなんです。実は僕自身が十分理解できていなかったので、いろんな所に勉強しに行ったんですけど、シミュレーション的に公園作りをやるとかで具体的な事例がなくて、僕の中では、どうも違うなあと。何が違うだろうと考えて分かったのは、やっぱり真剣になれへんのですよ。そこで、一気にシミュレーションではなくて、本物でやろうと考えました。
それで、その時も素晴らしい上司に恵まれました。都市づくり推進課の初代の課長さんです。当時の清掃局の生え抜きで、初めの 3 年間だけが区役所で、それからずっと 40 歳半ばまで清掃局におられたんです。ワークショップで計画づくりを行うのに、いきなり大きいものだと難しそうやし、公衆トイレくらいが手頃かなあと思って課長に相談しました。後になって、公衆トイレは公園とかより数段市民参加で企画するには難しい所が沢山あることが分かったんですが(笑)。そうこうするうちに課長が「林君、嵐山に手頃なのがあるで~」って話をつないでくださって。
稲継 なるほど、清掃局ですからですね。
林 はい。一方で、僕は住宅局出身ですから、建築職を説得しました。当時の清掃局の処理課というところが、トイレの建築担当ですけど、具体的に設計とか、施工するのは、住宅局の営繕部門でしたから。そこで、話をして、うまいこと両者を引きつける。「こんなことやりたいんですよ」「何それ」っていう話から始まりました。
稲継 その話ですが、嵐山の観光名所にあるトイレが耐用年数を過ぎていて、建て替えることになった。従来の方式でいくと、役所が入札をして、コンクリートの打ちっ放しのような、味気のないトイレになるはずだったのが、林さん達が提案をされて、商店街の人とかみんな参加して、トイレの形とか、どうゆうデザインかということをワークショップ形式で作っていったとテレビで拝見したんですけど・・・。
林 そのとおりです。
稲継 もう少し、そのあたりを詳しく説明いただけますでしょうか。
嵐山さくらトイレ
林 そうですね、当時としては、画期的やったし、初めての試みでもあったんです。「勝手連」と称して、大学の先生とか、市民参加のまちづくり活動を応援する市民ボランティアの方たちが、すごく後押しをしてくださって、彼らと一緒になって、地元に入っていきました。
先ずは、自治連合会長さんに相談にいきました。会長さんに、「企画段階から地元と一緒になって考えたい」と言ったら、「あんた、宇宙人か。言ってること理解できひんわ」って。図面とかスケジュールとか行政が大体の段取りをしたものを持ってきて説明するのが普通やのに、そんなもんまったくなしですから、びっくりされたみたいで(笑)。それでも、その方は天龍寺の塔頭の住職で、元中学校の校長先生やったんですけど、僕は担当部署ではないので、何の権限もないのですが、熱意を感じてくれはったみたいで、「とりあえず、地元の主だった人たちを集めてあげるから、話をしてみろ」と言ってくれはったんですよ。当時、市役所では、私のほか、清掃局処理課の担当者、営繕、設計する担当者とか 7 人が「言い出しっぺ」と称して動いていました。後に「 7 人の侍」って呼ばれたりするんですけど(笑)。
それで、初めての会合。普通でしたら、ある程度の役職の人たちが対応するんでしょうけど、みんな係長、あるいは係員だけで、地元のお歴々を前に説明会をしました。行ってみたら、天龍寺のお坊さんやら地域の色々な団体の会長さん達がたくさん並んではって、初めはかなり重苦しい堅い感じでした。けれども、ワークショップ形式を体験してもらわなければ、分からへんということで、幾つかのテーブルに分かれて「嵐山のいい所を教えてください」式で進めていったんです。次第に、盛り上がってきて、「皆で考えることって、こういうことか」っていう風に理解されはじめて、最後に「じゃあ、取り敢えずやってみましょう」ということになりました。この動きが、どんどん色々な人を巻き込んでいって、地元とか市職員、ボランティアの大学生とか、総勢 100 人を超える人たちが、たったトイレ 1 つのために動き回ることになりまして、結局6ヶ月間で6回のワークショップを開催しました。いや~ほんとに大変でしたが、愉しかったですね。
稲継 1つのトイレだけれども、利用しやすさはどうだとか、観光客からどう映るかとか、いろんなことをみんなで考え、いろんな意見が出て、それをみんなでまとめあげていったんですね。
林 本当におもしろかったし、未だに、僕の中で、一番愉しい思い出だし、その経験があるから、今も頑張れるというところがありますね。
稲継 なるほどね。その時の林さんの立場としては、先ほどもおっしゃられていましたけど、自分が責任ある立場では全然なくて、いろんな部署の人を動かさなきゃいけない。それから、市民の人も動かさなきゃいけないということで、ファシリテーターとして、役所のいろんな部署をつなぐ、市民のネットワークをつないでいくということを、都市まちづくり推進課の 1 係長として、やっておられたということですね。
林 そうですね。ファシリテーターというよりは、むしろ裏方かもしれません。僕のポリシーというたら大袈裟ですが、行政職員はいたずらに目立つ必要はないと思ってます。目立つのは唯一市長だけでいい。なぜかというと、主役はやっぱり住民でしょ。僕らは市民の事務局であって、裏方として、市民が頑張れないところがあれば、支えるという役回りが基本ちゃうかなぁと思うんです。
偉そうなこと言うて恐縮なんですが、労務と一緒で、今の時代労務屋さんのなり手が少なくて困ってられると聞いたことがありますが、誰だって目立つこと、楽しいことをやりたいのはわかるんですが、行政職員のホンマの醍醐味というのは、地域と人をつないだり、人と人をつないだり、場と機会をうまくコーディネートすることが重要ではないでしょうか。
行政職員の本当の醍醐味というのは、地域と人をつないだり、人と人をつないだり、場と機会をうまくコーディネートすることが重要だとの指摘は、林さんが経験してこられたことであるからこそ、余計に重みがある。自治体職員に求められるコーディネート力、ファシリテーション能力といったものが求められている時代だといえるし、そのような仕事の進め方をしている職員は、自治体職員としての醍醐味を味わっているといえる。