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第59回2010.02.24

インタビュー:農林水産省大臣官房政策課企画官 木村 俊昭さん(中)

 商工課で「ものづくり」にかかわっていた木村さんは、全国の職人さんを集めた大会をしようと企画する。「札幌ドームで職人展をしましょう。」「体験工房を2千5百人受け入れた後に、1万人まで拡大しましょう。」と言い始めた木村さんのことを、多くの人は本気にはしていなかった。
 しかし、その後、ねばり強い説得を続けて、それを次々に実現していくことになる。


稲継 本気にしてくれないんですね。

木村 この人、本当に本気なのかなと。
 それと、製作体験工房を開催するときに、情報共有をするために、携帯端末を職人さんに導入して、その講習会もやりました。「今日は200人○○中学校の人が来ます。ついては参加できますか。」と情報端末を通じて情報共有をいち早くしたりしたんですね。「いやいや今日は出られないよ。」とか、「出られるよ。」とかいう返事を集約すれば今日はどんな体験ができるのかわかるんです。
 製作体験の希望者が200人来ても300人来ても、1チーム10人で、別々の体験ができるというのが小樽の特徴なんです。普通は、オルゴールを作りましょうと言ったら、300人一緒のオルゴールを作るんです。パーツになっているものを単に組み立てることが多いんです。
 ところが、小樽の職人さんの場合は、「小学校5年生が、1時間半あるいは2時間で、どれだけのことができるのか。」「組立てだけじゃなくてもっとできるだろう。」だとか、そういうのをそれぞれごとに考えるというやり方をするんですよ。しかも、職人1人が10人までしか教えないんです。そうするとマンツーマンになります。そういう特色を出しているんですね。
 もちろん、こういった制度の設計にあたって、その目的のひとつには、職人さん方の所得が上がるということが大切なんですね。まず、それは平成8年から12年までの5年間やってきて、そして、平成13年には、 NPO の北海道職人義塾大學校が発足しました。
 このNPOは、今は、小樽市の歴史的建造物の指定管理者にもなっています。というのは、職人集団ですから、指定管理者になったら、修復とか、できちゃいます。
 そこまで設計した理由というのは、自分たちのやっていくところは、しっかり確保するというのと、あわせて、教えるといったときに、しっかり言葉で伝えて、教えないといけない。昔と違って、金槌で、ガツンとやるわけにいきませんから。そうすると、どういうふうにすると子供たちによくわかってもらえるかなと考えるようになる。そのことが、自分で気づきになるし、今度は、感謝されて、再評価を受けるなど、喜びに変わっていくんです。モチベーションが上がるということになります。さらには、将来的には体験工房の中から、関心を持った子たちが、後を継ぎたいということになってくるというようなことを想定して北海道職人義塾大學校が発足したんです。
 それ以外には、札幌ドームで大会もやりました。

稲継 札幌ドームでやったというのは、どういうことですか?

木村 札幌ドームの中で、職人展をやったんですよ。ドームの外では、北海道の物産展も開催しました。北海道新聞が全体を統括しましたが、一緒にやって、3日間で20万4千人に参加していただきました。すごい人でした。

稲継 すごいですね。

木村 午前中でほとんど物は、完売してしまったような状況でしたね。もうお昼からクレームですよ。「物ないぞ!」って言って。それでまた慌てて持ってきて。そんなに来ると想定していなかったんです。3日間で15万人ぐらいを想定していたんですが、実際には、20万人を超えましたから。
 「もう、地下鉄が危ないので、早めに開場させてください。」と言われました。地下鉄の駅から会場までもうつながっちゃっているんで、乗客が降りられなくなって危ないからということで、「早めに開けてください。」って言われちゃうんですね。だから、本来は10時オープンなのに、9時ちょっとくらいで、もう開けるんですよ。

稲継 そうですか。

画像:木村 俊昭さん
木村 俊昭さん

木村 ドドーッと入ってきて、並んでいるんですよ。すごかったですね。「ああ、これが、20万人来るということなんだなあ。」と思いましたですね。

稲継 小樽の職人さんも含めてそちらに集められたわけですね。

木村 小樽の職人さんを中心に、北海道、東北の職人さん方に集まっていただいた職人展だったんですよ。

稲継 もともと木村さんが、呼びかけたときに、小樽の職人さんたちは、「何言っているんだ、あいつは。」みたいな感じでのってくれなかったのが、段々年を追うごとに、やる気になってくださったんですか。

木村 1人親方というのは、人に指示されるよりも、自分のペースで誰に使われることもなくやっていくということも大事だから1人親方をやっているんですね。そうすると、横の連携をかけていかなければならないということについて、なぜそうなのというふうに感じてしまうんですね。
 でも、私どもから見れば、その技を失いたくないと思うんですね。何代も続いている技が、その方がお亡くなりになったときに、後継者がいないから失われると、これはもったいないので、横の連携をかけていただいて、そのつき合いの中で、お弟子さんがいないのであれば、その技を他の方のところに何とかして残していくということを、小樽レベルだけでなく北海道レベルで、全国レベルで、あるいは、世界レベルでやりませんかという呼びかけだったんですね。
 ですから、最初はピンと来なかったと思いますね。だから何なんだという感じだったと思います。ところがそれを地道にやりましょうというところでは、実は、皆さん方のその技は、市民の皆さんも最も評価をするんですよっていうところで職人展をやったんです。それによって、自分たちは、確かに工房に入って、自分たちのペースで作ってきたけれども、ひょっとしたら、注目されているんじゃないかという気づきに変わったんですね。
 そういう場を作らしていただいて、そして自分のお孫さんぐらいの子どもたちに教えるということで、子どもたちが、すごく活き活きとしていくんですよ。それを見ていて、「ああ、自分たちには、こういう伝え方があるんだ。」という喜びになるんです。
 それに、体験は無料じゃないですから、所得も上がっていくというところで変わってくるんですね。

稲継 気づき、喜び、所得増。全部プラスになる。

木村 そしてモチベーションをどう上げていくかというところです。すごくそれが大事だなと思っています。
 裕次郎さんの帽子を作ったことがある方で、帽子職人の山田さんという方-こないだお亡くなりになられましたけれども-がおられまして、この方は、手作りで帽子を作ってくれるんです。使い古しのコートだとかオーバーを持っていって、こういう形の帽子を作ってほしいといったら、愛着をもったオーバーやコートを捨てることなく活用して帽子を作ってくれる職人さんなんです。

稲継 それは、すばらしいですね。

木村 それで、この方が、寝入りがちだったんで、この方のモチベーションを何とか高めないとということで、「すみませんが、テレビ局が来るんで、出てもらえませんか。」とお願いをしたんです。ところが、「他の人に頼んでくださいよ。私は、とてもそんな元気ありません。」ということだったんで、「ちょっとでいいですから、ぜひ、仕事をしているところを、撮影して、小樽でもこんなにがんばっている人がいるんだということを映さしてくださいよ。」と言ったら、「わかりました。」といって、テレビに出てくれたんですね。
 そのときに、もうひとつ「お孫さんの住所とか教えてもらえますか。」とお願いすると、「なんでですか。」と尋ねられたので、「ぜひ、放送するときに、お孫さんや親戚の方に見てもらいたいと思っています。」と言って教えてもらったんです。
 それで、ご家族の方に連絡をして、放送日当日になったら、それまでは、寝入りがちだったんですけれども、電話がかかってくるので、起き上がって電話を取ると、「おじいちゃん、かっこよかったね。」というお孫さんからの電話だったんですね。その次の日からずっと仕事をしていました。
 さらに、「お弟子さんを作っていただくと、ほんとありがたいです。」とお話をすると「そうだな、弟子作んなきゃな。せっかくだから技を伝えなきゃね。」と言って、旭川に二川さんという女性を中心に15人のお弟子さんを作られました。
 この間、お亡くなりになったんですけれども、亡くなられて1年たつということで、小樽で帽子展と追悼式をやっていました。
 こういったことがなかったら、おそらくお弟子さんを作ることもなくお亡くなりになっていたと思います。身内にほめられるという仕組みは、実は、ものすごく重要なんです。

稲継 身内でほめられる仕組み?

木村 身内がほめる。「お父さんすごいね」「お母さんすごいね」「お父さん、お母さんがやっていることは、こういうことなんだね」だとか、「おじいちゃんて、こんなに苦労もしながら、みんなのためになる、こういう仕事をしてきたんだね」ということを、言われる機会を作って、実際にほめられると、実は、自分も高まるし、あとに続こうというお孫さんだったり、お子さんが高まるというところがすごく重要だなと思うんです。

稲継 なるほど。木村さんがもし山田さんに声をかけていなければ、山田さんは、立ち上がることもなかったんでしょうし、その帽子のノウハウも伝わることはなかったんだろうと思います。
 行政マンとして、そこにタッチされたというのは、何かあるんですか。普通の行政マンだったら、そういうことまではしないと思うんですけどね。

木村 先ほど、私の目標の一つとして産業文化をわがまちから世界に向けて発信するということを申し上げましたが、産業文化を発信するときには、こういったことが、どうしても大切なことなんですね。そこをやっていくということは、すごく重要で、そこがなければ、きっとぶれていっちゃうんだと思うんですね。
 あとは、お孫さんもそうなんですけれども、子どもたちをそこにどうかかわらせていくのかということなんですね。私は、福祉でも、教育でも何でも、変わらないと思うんです。そこが「恕」の心に通じるんだと思います。そういう思いがなければ、おそらく淡々と行政職を続けていくということになるんだろうと思います。
 大学でも秋期講義を担当していますけれども、そこで言っているのは、それぞれ、もし公務員になる、もしくは、会社員になる、それはそれぞれ考え方があるんだろうけれども、一番楽しい自分の立ち位置はどこなんだろうと考えるのも大事だよということと、ディスカッションパートナーをもつのが大事だよということです。
 それと、やっぱり、何か1つか2つ、こういうことを社会人になったらしたいんだということを持っていないと、ぶれちゃうよねという話をするんです。
 まさに、私はそう思っていますし、そう感じています。

稲継 それで、そういう仕事を、工業振興を中心に、6年間とおっしゃいましたよね。

木村 6年間ですね。

稲継 6年間おられて、41歳ですか、次は、どういうお仕事を。

画像:木村 俊昭さん
木村 俊昭さん

木村 そうですね、41になったときに、産業振興課長に昇格したんです。課長職になりましてですね、それで、産業全般を担当することになったんですね。それで、企業誘致もそうですし、職人さんの活動もそうですし、それから、起業や金融制度も担当することになりました。
 私自身、数字がすべてだとは思ってないものですから、たとえば、起業セミナーをやるとなったら、500人来たら成功だとか、あるいは、企業誘致も2社より3社、3社よりも5社が成功だっていうんですけれども、よく、そういった数字で水準を推し量るのですが、必ずしもそういうことではないと思うんです。
 ステークホルダー、利害を考えて、利よりも害の少ない政策を打たなきゃいけないと思っているもんですから、数字で考えるんじゃなくて、地域内企業が強くなるためには、どういう企業誘致が必要かだとか考えるようにしています。
 移住政策もそうです。団塊の世代を自分のまちに誘致しようというときに、なぜそうするのか。人口を増やすためというのは、あまりにも焦点がぼけているんですね。それじゃだめで、本来どなたでも来ていただいて結構なんですけれども、大事なのは、何をもって、それを何に関連付けて行うのかというのが重要ですから、そうすると、産業を強くする、いわゆる、もっと言えば、市民一人当たりの所得をどれぐらい押し上げるのかという話になってくる。そこを強くするためには、どの産業-今現在の主たる産業を含めて-をどう強くするか、そのためには、人材をどう作り上げてくるかだとかいうことになるわけです。
 あと、起業もそうなんです。セミナーにたくさん集めたって、起業できるわけじゃないですね。それよりも、本来、本当に業を起こしたいという方々を10人なら10人集めて、そのうちの、2人なり3人に起業していただいた方が、よっぽどその目標に達するわけなんですね。ということで、産業振興課長のときに、盛んにやっていたのは、起業セミナーも10人単位ぐらいでやって年間で10社程を立ち上げてきました。そこが大事だと思うんですね。
 だから、企業誘致も担当していましたけれども、それも同じで、どれだけの数の企業を誘致するかという考え方を転換する必要がある。自分のまちで、不足していて、そこと連携すれば、より地元の企業が高まる企業だとか、今、正社員を雇って、従業員や従業員の家族を支えている地元の企業を強くするために有益な企業を誘致するための企業誘致の考え方にしないと、結局、利より害の多い政策になりかねません。

稲継 企業は来たけれども、結局、非常勤ばかり雇われて、貧しくなっちゃいますもんね。

木村 そうです。いわゆるパートタイマーが雇われて、全体的な所得は下がって、商店街が厳しい厳しいといっているところの購買力は落ちるんですね。
 そうなると、空き店舗があるといって、空き店舗を埋めるための家賃補助をいくら打ったって、これは、ぜんぜん政策でも何でもないんですね。いわゆる、応急措置みたいなものですね。そうすると、空き店舗は埋まっても、根本は何の解決もなされてないということがおきるわけですね。
 そこをこう全体のデザイン設計をしていかないといけないということをずーっと考えながら3年間、産業振興課長をやっていたんです。

稲継 3年間ですか。

木村 ですから、銀行の方々とは、しょっちゅう会っていましたね。銀行も、支店長クラスと1週間に何回ぐらい回っていましたでしょうかね。あと、信用保証協会もそうですけれども。かなり回っていましたね。
 というのも、いわゆる、見所のあるところに融資をしてくれないと、共倒れになっちゃうと。まちも倒れちゃうし、地域金融機関も倒れちゃうでしょうと。それでは、見所のあるところを一緒にしっかり育てるということ、育っていただくということをやりましょうよという話ですね。
 だから、利率も何年据え置くかと、2年据置きと書いてあっても2年なんて据え置く場合は少ないんで、半年か1年据え置くか、なんぼ長くても1年半据え置くかということになりますので、そこを一緒に交渉するというようなこともしてきました。

稲継 じゃあ、起業しようとする人あるいは、企業にとっては、木村課長というのは、すごく頼もしい存在ですね。

木村 というよりは、変わっていると思われていたみたいです。「なんで一緒に銀行行くんだろう、この人」ってです。
 起業するときには、自己資金というのが重要ですけれども、持っている人っていうのは、少ないんですね。ただ、思いつき、アイデアだったりするんですが、そこが、単なる思いつきであったとしても、それをほんとに物になるのかどうかを、しっかり、-私も素人ですけれども-一緒に考えていかなきゃいけないんですね。
 それで、そんな中で、公認会計士とかにも一緒に考えてもらったりだとかしながらですね、どれくらいのお金で当初やっていけるかだとか、資金ショートしないためには、事前にこれくらい借りとかなきゃいけないとかいうのを、なんとかやっていましたね。

稲継 なるほど。それが3年間ですね。

木村 はい、3年間ですね。

稲継 次は、どういう場所ですか。

木村 次は、企画政策室で、プロジェクト担当となりました。
 銭湯プロジェクトというのもやりました。やっぱりどうしてもお年寄になるとさみしいものですから、どっかに集まってお話をする。それが、ひょっとしたら病院かもしれない。健康な人が病院に行っちゃうと困っちゃいますよね。
 「あの人今日病院に来ていないけれど、どうしたのかね。」「家で寝込んでいるみたいだ。」というんじゃ困っちゃいますんで。お風呂屋さん、いわゆる銭湯というのが、小樽には27あったんですね、そのお風呂屋さんが営業を始める前の午前中に、お風呂屋さんにお年寄に集まっていただいて、健康体操をやって、血圧検査をする。お風呂屋の近くに町内会館があるんで、それを終えたあとに、ゆっくり町内会館で、弁当を食べるということをやりました。いわゆる給食サービスですね。もちろん、その給食サービスは、200円~300円いただきますというようにしていました。
 こんなふうに集まって、一緒に団欒をして健康になろうという銭湯プロジェクトをやったりしていました。

稲継 それは、銭湯の組合の方は同意してくださったんですか?

木村 組合長に何度か会いにいきまして、「いいですよ。やりましょう。」と言ってくれました。
 お風呂屋さんも大変なんですよね。年中休みがないんですよね。

稲継 そうですよね。

木村 週1日休む日があるじゃないですか。でも、1日風呂掃除ですから。お風呂屋さんをやっていると家族旅行をしたことがないという人がほとんどですよ。

稲継 そうでしょうね。

木村 どなたか代わりがいない限り、ずっと掃除していますから。お休みは、元旦1日くらい、あとは、364日はずっと掃除という大変さもわかっているんですけれども、ぜひ、地域のコミュニティ、一緒に集まる場、それで健康になる場ということで、手伝っていただけませんか、協力していただけませんかと言ったら、快くやってくれました。
 小樽市は単独で保健所を持っていますから、そこの保健師さんに話をして、それで、血圧をはかってもらったりだとかしてもらいました。また、通常、保健師となれば、助産師の資格を持っているじゃないですか。それで、健康相談とかもしてもらってすね、で、それをやりましたですね。

稲継 他にはどんなプロジェクトをされましたか?

木村 そういうプロジェクトから含めてですね、あと、国でやっていた特区制度だとか、地域再生制度ですとか、その関係を推進するプロジェクトですとか、それと先ほどの移住政策とか。
 職人さんを北海道に、例えば、今、小樽で一番大きいガラス工房の深川硝子工芸が、職人さん28人で小樽へ来たんですよ。家族を合わせると、その掛ける3か4ぐらいになりますけれども。それを誘致して小樽を職人の街というイメージ付けをして、それで薩摩切子、江戸切子とありますが、小樽切子というのを作って、3大切子と将来ぜひなって欲しいなと思っているんです。
 また、企業誘致で言いますと、北海道内にわりと散在して各支店だとか、あるいは各工場だとかがあります。それを石狩湾新港小樽市域なんですけれども、小樽の市の区域内に統合してはどうかと。徐々に統合していっているわけなんですけれども。企業誘致で言えば、国内でパイの奪い合いみたいなもんですから、どちらかというと、どのように関連づけできるかというところに尽きるんですね。あるいは、全く関係のないものを誘致するかです。

稲継 後者の方がよくわからないんですが。全く関連のないものを持ってくるというのはどういうことなんですか。

木村 というのは、クロスしちゃうと地元企業が弱体化してしまうんですよ。正社員を切って、パートに変えちゃって、縮小をかけてっちゃうもんですから、全く関連のないところを誘致します。例えば、精密機械部品で有能なところがありましたら、精密機械部品の工場を誘致しちゃうと、同じようなものを作られちゃうことになり、大変なことになってしまうもんですから、そうではないところを誘致することです。利より害の少ない政策を打つことが重要です。
 問題は、固定資産税を減免するだとか、いろんな政策をやっても、他の地域でもいろんなことをやっているんで、結局、国内のパイの奪い合いになってしまいます。
 重要なのは、自分の地域がなんで将来食べていくのかということなんだと思いますね。たとえ、部分最適をかけても、全体の最適にはなりません。部分最適をかけていったときに、温泉地どうしますかとか、工業団地をどうしますかだとか、商店街をどうしますかだとか、それぞれごとにそれぞれごとの対策を取ろうとするんですけれども、それぞれの関連付けがないもんですから税金だけが投入されて、いわゆる支援メニューだけが作られるということになってしまいます。最終的にまち全体を見たときには、おそらく全体マネジメントが図られてないという現象が起きてしまいますんで、そこは十分考えないとなりません。
 部分的にそれぞれ動いているにしても、それらを関連づけていかないと部分的だからしょうがないですねじゃだめなんです。いろんなものを限りなく関連づけをしていくことが、今まさにこれから地方公共団体もそうですけれども、やっていかなければならない事でして、それを放置しておくと、やたらお金だけがかかっちゃうという現象が発生してしまいます。結局、関連づけがされてないから、いろんなことをやっていっていたとしても、実情を言えば、例えば市民1人当たりの取得に跳ね返っていないという現象が起きちゃうんですね。

稲継 そういう活動やっておられるときに、内閣府の方から、声がかかったということなんでしょうか。

木村 はい、企画政策室にいた1年間のときに、あれは秋ですかね。ちょうど年何回か、特区制度と地域再生制度の説明会があって、そして、提案制度とかありますから、それの説明会に内閣官房の参事官が2人こられて、そのときに、地域と大学との連携ということで、小樽商科大学にも行きたいということでしたんで、特区再生制度の説明会をやった後に、小樽商科大学にご案内して、学長、副学長にお会いされたんですね。それで、そこの中で話をしているときに、「地域再生制度を導入して間もないんだけれども、地域を知っている人が来てくれるとすごく心強いんですよ。」と話をされていたんで、そのときは、「そうなんですか。」というだけだったんですけれども、そしたら、今度、その参事官が帰られてから、具体的に「来ませんか。」という話がきました。
 話が急だったといいますか、そもそも、「国へいって、何ができるのかな。」というのがこちらにもありましたんで、「上司とも相談したい。」ということで、とりあえずのお返事をすると、「十分相談して、もし来ていただけるなら、1年なら1年で結構ですし、2年でも結構ですし、来てもらえませんか。もちろん給料をもちますんで。」という話でしたんで、自分でもちょっと考えて、上司にも相談をして、「1年か2年なら行くことにします。」ということで、平成18年の4月から東京に来たんですね。
 それで、結局、東京に来てから、今4年目になっちゃっているんです(笑)。

稲継 ほおぅ。


 機関銃のように次から次へと繰り出される木村さんのお話の中には、いくつかのキーとなる言葉が出てくる。「身内でほめる仕組み」、「産業文化をわがまちから世界に向けて発信する」、「市民1人あたりの所得をどれくらい押し上げるのか」、「部分最適をかけても全体最適にならない・・・それぞれの関連付けが(必要)」、などなど。
木村さんの凄いところは、ものごとの本質をいいあてたこれらの言葉を実践に移していくことである。その木村さんの凄さを見込んで、内閣府から一本釣りでヘッドハンティングにあう。