メールマガジン
分権時代の自治体職員
第57回2009.12.24
インタビュー:津市スポーツ・文化振興室文化振興課 原田 浩治さん(下)
「ツヨインジャー」を生み出してローカルヒーローとして定着させ、「うまっぷ」をつくって「津のうなぎ」のイメージを定着させた原田さん。その後、「津市げんき大学」に取り組み、また、「藤堂高虎公入府400年記念事業」の担当者として、1年間で65の事業に携わり、実行することを任される。
稲継 でも、上司も偉いですね。完全に信じきってたんですね。
原田 僕が、こういう人間やていうのは、みんな知ってますんで。ある程度好きにさせてもらったというのも。「○○小学校に行って来ますわ」「津競艇にPRいってきますわ」とか、職場も「おお、行け行け。」みたいな感じで、どんどん行かしてくれました。
それでね、本当にこれまでやって来たいろんなネットワークが役に立ちました。たとえば、ツヨインジャーやシロモチくん、手作り甲冑教室のメンバーなんかで、役所のイベントだけやなくて、警察のイベントとかも、しょっちゅう行っとったんですわ。「振り込め詐欺撲滅運動」とか、「秋の交通安全運動」のなんとかとかいろんなイベントに行ってましたら、警察の人たちともすごく仲良くなって、協力してくれました。
400年記念事業の最後のフィナーレイベントのときに、キャラクターでパレードをしたんですけれども、公園だけでも数千人いていた人を、また、こっちの商店街までパレードしたもんで、すごい大混乱になるといって、普通でしたら、警察は嫌がりますよね。「そういうのは問題あるので、行政がやるんやったらやめといてくれ」て。そんなこと、一切言わずに、「そんなんやったら、警官4・5人警備に出したるわ」みたいに、すごい全面協力してもらって...。
稲継 そうですか。すごいですね。
原田 ほんまに、こういうのは、まだまだ心意気の世界が残ってて、あのとき苦労して、PR活動に協力した甲斐があったなと。そういう意味では、いろんな団体や部署が、全面的に協力してもらえて、楽しいですよ。こういうことで、あそこで苦労したことが、次のことにつながっていくということが、ほんまにね実感できますしね。
稲継 フィナーレイベントといえば、全国のゆるキャラが集まって、パレードしたというやつですか。
原田 そうです。今、話題の地域を盛り上げるキャラクターのパレードです。すごく盛りあがりまして、ほんまに、一つひとつにドラマがあって、面白かったです。
東京でもイベントをしまして、東京の上野恩賜公園で11月にイベントをしたんです。何で上野公園でやったかといいますと、上野公園は、昔、藤堂家の上屋敷があったところで、藤堂高虎公の墓が建っているんですよ、あそこの中に。
稲継 へぇー、そうですか。
原田 浩治さん
原田 何で、注目されないかというと、上野動物園の中にあるんです。当の藤堂高虎公のお墓が。上野動物園の奥まったところに、藤堂家の墓がぽつんと建っとるもんで、普段は、お参りできないんですよ。
それ以外にも、藤堂高虎が将軍をもてなした茶室とか、上野東照宮-高虎が家康を祭った日光東照宮の造営に携わっているんですけれども、その日光東照宮にお参りに行けない江戸の人たちのために、上野にも東照宮を造って、お参りさせた-とか、そのそういった高虎ゆかりの地というのが上野公園の中に4つぐらいあるもんで、是非とも「高虎公ゆかりの地。上野公園でイベントを!」といった感じで企画をしました。大河ドラマ「天地人」の原作者の火坂雅志さんが、「虎の城」という高虎の小説を前に書かれているもんで、火坂さんに記念講演してもらおうということで、記念講演もしてもらって、そういったイベントも東京で、やらしてもうたりとかして、ほんまに、やれるイベントはやりつくしたみたいな感じで。逆に、こういう経験したことも無いようなことが、その後のノウハウになっていったと思います。
特に東京イベントで一番苦労をしたのが、「津のうなぎを東京で焼け」という市長の命令がありまして、みんな「そんなん、無理、無理。」とか言ってました。僕も、うなぎ屋さんと知り合いがおっても、さすがに、「ごめんして。忙しい休みの日に、職人を2、3人行かせるなんて、無理無理。」て言って、ほとんどのうなぎ屋さんに断られて、最後、小さい、2人でやってるうなぎ屋さんがあるんですわ。おいしいところなんですけれど。そこがやっと来てくれるようになって。
うなぎ屋に来てもらうのに、保健所の許可を取るためにも、いろいろな苦労があって、何回も打合せをして、最終的に、こっち(津)でもキャンプ場を借りて、「いっぺん試しに、キャンプセットで焼けるかやってみようにぃ」ということになって、試食会とかもして、これなら「津のうなぎとしてだしても大丈夫だ」というところまでたどり着きました。前の日1日店を閉めてもらって、うなぎをずっと串さしてもろうてたんですわ。200人分出さなあかんもんで。そして、むこう(東京)に行くと、野外では、うなぎって切れないらしくて、切ると、衛生上、保健所の許可が下りないので。キャンピングカーを借りて、その中で、切ったり、盛り付けたりして、そういうのもすべてクリアして、その東京イベントのときにうなぎをだしたんですよ、早朝から炭火を起こして。(笑)
ほんまにね、みんな何気に思っとるうなぎのブースなんですけれども、舞台裏ですごい、何か月間にも渡る苦労がありました。毎週のイベントの合間に、そのうなぎ屋との交渉を何度もやって、そのうなぎ屋だけでも、5、6回食べにいきましたよ(笑)。ほんまに、そういうところも、面白い1年でした。
稲継 関東のうなぎは、基本は焼いて蒸してで、こっちとは違いますよね。
原田 津は関西風ですので、ずっと炭火で焼きあげます。ですので外はパリッとして中はジュワとってね。僕は、関西風のほうが断然おいしいと思います。関東の方は、背開きで、こっちは腹開きで、武士社会である関東のほうは、切腹につながるということで嫌うもんで、腹開きやなくて背開きでやってますけれども、こちらは、こだわらずに、腹開きでやってるんですよ。僕は、この関西風の炭火でっていうことでしたら、津のうなぎは、すごいおいしいと思いますわ。
稲継 東京の人の反応は、どんなんでしたか?
原田 調理法もぜんぜん問題なく大好評で、長蛇の列でした。「おいしい。おいしい」て喜んでいただけました。ほんまに、数か月苦労したのに、2時間足らずで完売してしまって(笑)。ほんまは、ずっと、一日中、うなぎを焼いて、うなぎのいい匂いを会場にさせたかったんですけどね。
稲継 数が足らないですね。
原田 すごい長蛇の列で。やっぱり、もっていける量だとか、仕込める量を逆算していくと、200人前が限界なんです。できても300人前だったかなぁ。
初めは、売れるかどうか、うなぎ屋さんも僕もすごい心配で、うなぎ屋さんが「売れ残ったらどうすんの。買い取ってくれるの、市が。」みたいな感じで、「いやぁ、そこまで責任はもてやんけど、僕ら食べられるだけ食べるんで。」(笑)「それでもがんばってやろうにぃ」て励まし合いながらやっていたんです。普段店で出しとる炭火の火力が、出るかどうかもすごい心配しとって。万が一うまく焼けなくて生焼けやったら、全く売れませんしね。それが、試食会とかしてたら不安も無くなっていきました。
あれは、本当におもしろかったですね。なにをやってもね、楽しんで前向きにやっていれば、何でもうまくいきますし面白いんです。
稲継 "ツヨインジャー""うまっぷ""藤堂高虎公入府400年記念事業"と津を盛り上げるためにいろいろとがんばってこられましたが、これ以外にも、"手作り甲冑教室"というものに携わられてこられたとお伺いしたのですが、この"手作り甲冑教室"というのはどんなものですか。
原田 年に1回、10月の津まつりのときの高虎時代絵巻の武者行列への参加者が、大人が着られる甲冑をいろいろ手作りしているんですよ。これで3年目になるんですけれども、20領以上の鎧ができてますんで、このメンバーだけでも、時代行列ができるぐらいの数となってます。
これもね、京都に面白い方がおられまして、その方が「彦根で甲冑教室をやっとるもんで見に来てくれ」って言うんで見に行って、その場の勢いで数人でやりはじめたんですけれども。(笑)
今まで、津まつりで、数十万円かけて甲冑をレンタルしとったんですわ、祭りのときに。数十領の甲冑を借りて、祭りのときは、その立派な甲冑を着て、みんな盛り上がって、「たのしかったな」と。でも、それで終われば、何も地元に残らないんですよね。楽しい思い出と疲れだけが残るんです。
それやったら「こんなにお金をつかっとんやったら、自分らで鎧つくって、これからもずっと、津まつり以外のときも甲冑でイベントしたいよな」ということで「手作り甲冑教室しようにぃ」ということで、市内の物作りの得意な方に頼み込んで手作り甲冑教室の講師をしてもらってスタートしました。
稲継 ああそうですか。
原田 月に2回ぐらいは、この甲冑を着て一緒にPR活動に行ってますんで。そういうところでも、こういう甲冑を通じてPRしてくれる人たちがどんどん増えてきたんです。すごくね、そういうのにも役に立ってるんです。
街道ウォークのときは、シロモチくんというキャラクターのきぐるみが、実は、6月になるまで出来なかったんですけども、それまでは、僕が手作り甲冑を着て毎回賑やかしに行ってました。途中からはシロモチくんになりましたが。
去年は、私自身にとっても今までやってきた活動の集大成的な年でしたので、数年来付き合いのある津まつりで出演してくれる全国の甲冑マニアや手作り甲冑教室のメンバーがみんな、こうやって協力してくれて、こういう新しく「藤堂とらまる」というキャラクターまでつくってくれて、そういうことで、去年は、400年記念事業ということで、げんき大学もツヨインジャーも甲冑教室もすべて、フル動員して、みなさんに乗り切らせてもらったという感じです。
自分らのもっとるキャラクター、ツヨインジャー、藤堂とらまるとシロモチくん。そして甲冑がありますから、これだけでもイベントを自前でできるようになりました。津市に津ボートという競艇場があるんですけれども、去年はここでも数回、こういうキャラクターイベントをして記念事業のPR活動をさしてもらいました。
稲継 キャラクターも、だいぶ、ふえましたね。
原田 浩治さん
原田 今では、これらのキャラクターを使えばタダでイベントできますし、ある程度の集客も見込めますししね。そういう意味でも自分らにひとつずつ武器ができてきました。「なにもないなにもない」て嘆いているよりも、やっぱり自分らで武器をつくればいいんで。なければつくればいいんですね。
まあ、僕も毎年、何かひとつづつ活動の立ち上げに携わってますが、5年前はツヨインジャーを作って、翌年、げんき大学を作って、その次の年、手作り甲冑教室を作って、で、去年が津のフィルムコミッションというロケ地誘致団体を作ったんですわ。
今年も、シロモチくんキャラバン隊というのを作って、-これだけは仕事なんですけれども-緊急雇用創出事業を活用して、数人の方を雇って、市内の幼稚園、小学校、保育園とかでPR活動してもらうキャラバン隊を事業化しました。
ひとつずつやりたいことを何か事業化していくというのは、非常に面白いというか、やりがいがありますね。逆に、ひとつずつ事業を作っていけば、そこでやってくれる人だとか、携わってくれる人のネットワークができてきて、活躍する場ができてきます。
僕がやりたくてもやれないことって、いっぱいありますよね。一人の人間が出来ることって限界がありますから、そういう活動の人たちががんばってくれたり、いろんなノウハウやネットワークを持ち合って手伝ってくれるもんで、逆に僕は、楽させてもらっているという面もあると思うんですよ。
稲継 どんどん広がりを持っていくということですね。
原田 ほんまにね、面白いことや趣味でつながっていくメンバーが、こういうまちづくりの活動に携わっていくというのは、非常にいいことやと思います。今の世の中の人って無理強いしても続きませんしね。
こういうつながりって、やってて楽しいです。
稲継 今まで、お話をきいていますと、本来の仕事以外のことで、いろんな活動もしておられます。そして、本来の仕事としても、この津をアピールするいろんなことをやっておられますよね。
そういったことを通じていったい何が一番大事なことだと思っておられますでしょうか?
原田 やっぱり、先ほども言っていたように、津の人は、PRがやっぱり下手というか、大人しすぎて、いいものがあってもなかなかPRするノウハウもありません。
また、いろんな地域のまちづくりされている方、地域活性化に努めておられる方というには、情報発信のノウハウとか術を持っていなかったり、新しい後継者づくりというのがなかなかうまくいっていないということがあります。
ですから、そういった活動を僕らが少しでも、ツヨインジャーやげんき大学といったいろんな活動を通じてネットワークを作れて、いろんなところで情報やノウハウを共有できることで、もっと大きな動きになって、津市をもっと面白く、情報発信したり、活性化できるんかなと思うので、そういった活動がもっともっと広がればというのは、常に思っております。
稲継 そのためには、もちろん原田さんの世代の方々、あるいは、やや下ぐらいの人たちががんばると同時に、次世代も育てていく必要がありますね。それは、どういう風にして育てていけばいいんでしょうか?
原田 今の時代、いろんなことに関して世の中全体が無関心な風潮が強くなったと感じます。
どんなにいいことをやっていても、みんなの耳に入らない、心に届かないので、どの地域の方も苦労されてますしね、いろんな地域の方、行政の方も苦労されとるんと思うんですけれども。
無関心な人に関心を向かせるというのが、難しくなっています。情報量が昔に比べると圧倒的に、今は多いですね。インターネット、ケーブルテレビいろんな情報のツールがすごく増えまして、10年前に比べると情報過多で400倍くらいになっているともいわれてますんで。
そういう中、いかに伝えたい人に伝えたい情報を届けるかというのが、やっぱり、すごく難しいです。特に、無関心の方をこちらに向かせるには、やっぱりある程度、面白みというのかね、そういう遊び心というか、そういうのが必要ではないかと思います。そういったところがやっぱり若い人たちを引き付ける要因なのかなと思いますので。
そういったところで、僕ら自身も、20代、30代のメンバーが中心でやってますので、僕らが「おもしろいこと」「やりたいこと」をすることによって、逆に、そういう仲間が、また、関心に結び付けてくれるんかなと思います。
僕らのやりたいことが、まちづくりにつながっていって、それでまた、新しい人たちの窓口なりになっていければと思いますね。
稲継 このメルマガを読んでおられる方の中には、全国で、自分たちの街をどう活性化したらいいのかということに悩んでおられる方々もたくさんおられると思うんです。それで、今のお話の中に、すでにヒントがいくつかあったと思うんですけれども、そういった方々に向けてのメッセージを最後に聞かせていただけたらなと思います。
原田 そうですね、僕が言うのは、ほんまにおこがましいというか、僕もまだ「まちづくり」の山の登りはじめで、麓にいる立場でお話しさせていただきますが。
やっぱりですね、何事も自分たちが、あきらめずに前向きに楽しんでやらないことには、活動も続かないと思いますし、仲間もついてこないと思います。
ですんで、多少のワルノリというんですかね、遊び心を常に持ち続けて、自分たちが楽しんでやるということが、まず、前提です。
そして、予算がなくても基本的に事業や企画はできると思ってます。動くことによって、「人」「情報」「お金」は後からついてくることがありますし、動かないことが一番悪いことだと認識して欲しいです。
僕は、自分も子どもが3人おりますんで、子どもたちにいい地域というか、楽しい地域を残してあげたいという思いがあります。子どもたちにとって「楽しい思い出」だとか「楽しい地域」をつくる活動をどんどんどんどん広げていけば、逆にまた、その子たちがその楽しい思い出があるから津のためにがんばろう、地域のためにがんばろうという子どもたちになっていってくれるのかなと思います。僕らが楽しんで子どもたちや地域を育てていくということで新しいまちづくりにつながっていけば、僕らもやりがいがありますしね、楽しい夢のある地域づくりになると思います。
稲継 今日は、津市の原田さんにお話をお伺いしました。どうもありがとうございました。
原田 こちらこそ、ありがとうございました。
原田さんはここ数年、毎年何かの取り組みを続けている。仕事としての取り組みもあれば、仕事を離れての取り組みもある。しかし、いずれも自分のふるさと「津」をいかにして元気付けるかということでは一貫している。
5年前に、ローカルヒーローの「ツヨインジャー」を作って、その後現在に至るまで、あちこちのイベントに登場してきた。翌年、げんき大学を作って、次の年、手作り甲冑教室を作り、さらに次の年には、津のフィルムコミッションを作っている。
藤堂高虎関連事業以降は、自ら、シロモチくんの被り物を着て、あちこちをかけめぐってもいる。
どうやらこの人には、「お休み」という言葉はないようである。いかに「津」を盛り上げるか。そのことだけを念頭におきつつ、オンタイムもオフタイムも楽しんで取り組んでおられる。
これからも津の未来を背負って立つ人材として活躍を祈りたい。