メールマガジン
分権時代の自治体職員
第56回2009.11.25
インタビュー:津市スポーツ・文化振興室文化振興課 原田 浩治さん(中)
ローカルヒーロー「ツヨインジャー」を軌道に乗せた原田さんたちは、次に、津の「うなぎ」に着目し、「うまっぷ」を作成して町をアピールしていった。「津」と「うなぎ」はそれまで、津市以外の人の頭にはつながりがなかったが、地元では当たり前のように、うなぎを食してきたという。
稲継 「うまっぷ」ができてから「津といえばうなぎ」と考える人も増えてきましたが、それまでは、あまり周知されていなかったのではないですか。ちょっと知らないですよね。津とうなぎがつながらないですよね。
原田 津市民の人はみんな、薄々は、「津ってうなぎ屋が多いし、おいしいな」と思っとったんです。津では、法事があったりだとか、歓送迎会だとか、仕事納めのときなんかは、うなぎを食べるという風習がありますもんで、そういうところで、やっぱり、みんな、薄々うなぎ屋さんが多いなとか思っとったんでしょうけれども、それを具体的にPRするというのが今まではなかったわけなんですね。
僕ら、初めに、商工会議所や観光協会にも話を持って行ったこともあったんですけれども、やっぱり、うなぎ屋さんすべてが、会員でなかったりだとか、そういうところもお役所と同じで、「なかなか特定の会員のお店だけはちょっと難しいな」というような話でしたので、それやったら、「僕ら、自分で、やったほうがええわ。自分らでやろうにぃ」ということで、行政やいろんなところを当てにせんと、自分らと関係者だけでやってしまう方がええんやなということが、やっと分かりましたもんで、自分らでやりはじめたんですわ。
稲継 今、パンフレット(うまっぷ)を見せていただいているんですけれども、この中にも、ツヨインジャーが載ってますよね。"津に来て戦隊ツヨインジャー徹底監修"。ツヨインジャーが監修したガイドブックになっているということなんですね。
原田 そうですね。これがね、行政が出すと、文句がやっぱり出てくるんです。さらには味やおいしさとか、こういう評価しとるだけでも...。
稲継 役所がやったら、大変なことになりますよね。
原田 「こんなん、違うやないか」とか「役所がこんなん言うとってええんか」と苦情が来るところですけども、民間のツヨインジャーという有志の団体が作ったということだと、誰も文句言いませんし、「おもしろいな」「よくやった」といった感じで、逆に、喜んでもらえました。
"うまっぷ"にはいろいろ他の要素も載せておるんですけれども、裏の地図には、今でも、人気のありますガンダムというアニメのセリフを入れ込んだりとかしまして、こういうワルノリの部分も残しながら自分たちも楽しんで作っています。
逆に、こういうワルノリっていうのは、行政では、考えられないというか、やりたくてもできませんしね。そういったところを残しながら。せっかく作るなら、無難にいいものを作るよりも、ちょっとワルノリで面白みや遊び心のあるものの方が、受けて、心にも残りますし、口コミで噂がで広がるきっかけになるのかなと思いましたもんで。
あれやこれやで、僕らのツヨインジャー・テイストというんか、そういうやつを残したんですわ。
稲継 なるほどね。こういう"うまっぷ"をつくるという発想とかは、どういうところから出てくるんですかね?一緒にやられた仲間との会話の中から、ポッとでてきたりするんですかね?
原田 そうですね、だいたい、ときどきみんな集まって雑談するのもありますし、しょっちゅう、僕らメンバーで飲みに行きますんで、そのときの居酒屋での話の中で出てきたりとか、いうのはあります。そういったところでアイデアが生まれてきます。逆にそういったところが大事です。また、僕と増田くんが同じ職場におるときには、残業しているときに、よくこういうアイデアは生まれてきました。
結局、そこで、普通なら「バカやな」みたいな笑い話で終わってしまうようなところが、ツヨインジャーとかいろんな活動が根底にあることによって、「それって、企画になったり実現化できるよな」みたいになり、そういうノウハウや土台がちょっとずつ出来てきましたもんで、こういう思い付きが実現化できるというようになってきました。
原田 浩治さん
稲継 こういういろんな仕掛けをやっておられるときに、突然、別の課に異動になるのですよね。
原田 商工労政課は機構改革によって観光振興課という課になったんですけれども、2年でそこから、僕は、市営住宅課という課に異動になりました。
稲継 市営住宅課?ぜんぜん関係がないところですよね。
原田 そうですね。建築関係のまったく違う部署に移りました。
それでも、今までやってきたツヨインジャーとか、その後にできます"げんき大学"とかでのいろいろな活動については、市民活動やそういう個人的な活動として、続けることができました。普通、市役所の職員とか行政の職員は、職場が変われば、そのノウハウやネットワークは引継ぎだけでは伝わりきれずにまるっきり途切れてなくなってしまうことが多いんですけど、そのノウハウやネットワークを持ち続けたまま、他の部署で仕事して、そしてまた、その関係の部署に戻ったときに、そのノウハウやネットワークを引き続き使うことができました。
稲継 そしたら、市営住宅課におられたけれども、土日やあるいは年休を取って、また、ツヨインジャーをずっと続けておられたんですね。
原田 そうですね、それはずっと続けていましたね。
稲継 onとoffで言うと、onのときの仕事はぜんぜん変わったけれども、offのときの仕事というか楽しみは、ぜんぜん変わらずに同じようなことをやっていたということですか。
原田 はい。
稲継 今、お話の中に出てきた"げんき大学"というのは、どういうものでしょうか。
原田 ツヨインジャーが5年前になるんですが、そのツヨインジャー結成の1年後ぐらいに津市が合併しまして、そのときに、新しい市長さんが、元気づくり事業という事業を、職員から提案させるということで、できた事業です。
初め、いろんな企画を寄せ集めまして、歴史探訪講座みたいなものができかけておったんですけれども、それだけでは面白くないと。そういう歴史探訪講座をしても、集まってくる方は、やっぱり、60代、70代のお年寄りばかりですので。
稲継 でしょうね。
原田 僕は、60代、70代の方、団塊の世代以降の方は、ほっておいても元気だと思いますので。
稲継 元気ですね、今。非常に元気ですね。
原田 だから、そういう方よりも、今、元気がないというかね、これから元気に地域を担っていかなければならない20代、30代、40代の方が、子育てや仕事やプライベートが忙しすぎて、地域に携われていないのとちがうかなというのを思いましたもんで。
稲継 そういうところは、ありますね。
原田 ですから、そういう方らをちょっとでも巻き込みたいというので、そういう方たちをメインターゲットにした「まちづくり講座」ができないかなということで、企画を担当部課でいろいろ話し合いまして、最終的に"津市げんき大学"という企画にまとまっていきました。
稲継 具体的には、"げんき大学"で何をするんですか。
原田 "げんき大学"の立上げのときにですね、普通、実行委員さんだとかが入りますと、どこどこの偉いさんだとかどこどこの会長さんだとか、そういったご年輩の方が、実行委員になるというのが通例なんですけれども、そうなってしまうと、結局、また、今までと同じことになるんかなと思いましたもんで。
それやったら、今までツヨインジャーでできたネットワークを使って、その若い人たちで実行委員を作らせてくださいということになりました。それで20代から40代の人を、ツヨインジャーでつながりができた人を十数人集めまして、その方たちに、実行委員をしてもらいまして、みんなでいろいろ、コンセプトづくりだとかしました。
初め、僕らも何をすればいいのかさっぱり分かっていなかったんですが、まず、与えたれた3か年の事業の期間中に、津にいる面白い人、若い人らのやる気とアイデアを集めて、最終的にみんなで事業なんかを立ち上げられたら面白いよねって話をしていたんです。それに向けて「まず、みんなでそういう人たちを集める工夫をしよう!」ということで、みんなでいろんな企画を考えまして、「まちづくり」の先進事例の方を呼んで講座とかをしたりだとか勉強会とかをしたんです。
まちづくりのすごい人を呼んできて話を聞くといっても、どこでもやっている講座で、よく陥りがちな「あの地域だからできたんだよね」「あの人がおったからできたんやろな」みたいなことで、結局、みんな「ええ話」だけで終わってしまうんですわ。げんき大学は、そうではなくて、やっぱり、何か次のアクションにつながる講座にしなくちゃあかんなということになりました。
まず、講師の方は津市内で活躍しとる人とか、津出身の人とかにしようということで、いろんな津の雑誌編集者の方とか農業でがんばっている方だとか地域の語り部の方だとかいろんな方を呼びまして、津にはこんなおもしろいことをやっている人がいるということを知ってもらったり、また、僕らが、「こんな面白い人を見つけてきたで。講師してもらうに」とか、そんなことで、講師を探してきてきたりして、毎月「座楽」と名付けた講座をしました。
そして、必ず講座の後に参加者のみんなで「津はどうなったら面白くなるんやろう」というワークショップを併せてやって、それにも講師の方にも入ってもらって、いろんなアイデア出しなどをずっとしていったんです。それで、それが今の"げんき大学"のいろんな面白い事業につながっているんですよ。
稲継 それが3か年事業として一方で流れている。他方、それでツヨインジャーは、オフサイトとして続けておられる。まあ、"うまっぷ"も動き出した。それで、そのときに市営住宅課に一旦は出られたわけですけれども、その後、1年で文化振興課に、また、異動されるんですよね。
原田 そうですね。
稲継 これは、どういうきっかけからなんですかね?
原田 ちょうどですね、去年(平成20(2008)年)が、津藩の初代藩主の藤堂高虎公が、津に入府されて400年の年にあたるんですよ。ですので、400年記念事業をしようということになりました。
その記念事業を、やる気のある職員にやらせようという、職員公募がありまして、公募の中で、僕も手をあげさせていただいて、応募職員何人かの中から選考されました。その400年事業の担当が文化振興課のということで、文化振興課へ移ってきました。
稲継 1年だけ、しばらくの間、別の仕事をやっていて、文化振興課ですか。この課は、offもそうだし、onでもいろんなイベントも含めてやらなきゃならない。特にミッションを帯びて400年記念のイベントをやらなければならない。それをやってこられたわけですよね。どういう取組をされたんでしょうか?
藤堂高虎公
原田 そうですね、1年間通じて、400年記念ということで、藤堂高虎公をキーワードにしたいろんな事業を1年間通してやらしていただきました。
稲継 ちょっと、その藤堂高虎公という人がどういう人なのかご説明してください。
原田 戦国時代の武将なんですけれども、7人君主を替えたといわれてまして、その点が世間的には、あまりですね、よく思われていないんです。
日本人的には、君主を何度も替えるというのは、武士道精神に反するというんですかね、一人の君主に仕えて、死ぬまで仕えるというのが、日本人の美学にやっぱりあるんですけれども、当時としては、君主を替えて、ジョブホッピングというんですかね、そういうのは当たり前の時代でもあったんです。
その中で、高虎公というのは、いろんな君主を自分で見定めて、自分から君主を選んで、どんどんジョブホッピングをしていって、最終的には、徳川家康、秀忠、家光という徳川三代に仕えて、絶大な信頼を得るまでに至ったということで、今の世の中でいきますと、先々まで見据えて生き抜いていったというすごい人なのかなと、常々思ってます。
実は、高虎公というのは、190cm、110kgあるという大きな体でした。なので、そんな体格であったら、戦いも強くて、普通そこで満足して、戦いの強い武将として生きていくと思うんですけれども、途中から、これからの時代は城づくりにも精通しとらなあかんということを悟って、築城術もすごく勉強して、日本3大築城家、日本随一の築城術を持つ築城家になるんですわ。ですので、江戸城や二条城、津城、上野城、今治城、大阪城もですか、いろんなお城づくりに携わっておられまして、日本を代表する築城家ということになっていくわけです。
そういったところも、ひとつだけでなくていろんなことを勉強してこれからの世の中のために役立てていこうという自分の信念に基づいてやっていくということが、高虎公のすごいところなのかなと。逆にそういうことを、市民の人たちや全国的にアピールできれば、この事業はすっごく面白い事業になるんちゃうかなということを考えながら事業に取り組ませていただきました。
稲継 具体的には、どういうことを1年間たとえばやられたんでしょうか?
原田 1年間通してですね、65のいろんな事業をですね...
稲継 65の事業ですか。
原田 はい。その65の事業で、その中で、市が主催としてやっております記念事業というのがありまして、その記念事業と...。このように1年間とおして記念事業をやっておりまして...
稲継 毎週のように記念事業をやっていますね。
原田 行政が主催としております記念事業と市民の方たちが自主的に運営してもらう市民自主事業というものと、あと、高虎公をコンセプトにした事業の後援ということで、3種類あったんですけれども、そういった事業をずっと年間通して実施さしていただきまして、延べ95万人を超える方の参加をいただきました。
津市、合併前の旧津市も含めてですね、1年間通してこういう事業をやったということが今までありませんでしたので、市民の方にも、行政の職員にも「津市でこういう事業ができるんや」ということは、すごい評価されました。
稲継 65事業でのべ95万人ですか。すごいですね。これは、文化振興課でどれぐらいの人数でやっておられたんでしょうか?
原田 えっと、文化振興課で高虎記念事業の専属の担当は実質僕一人だけですが(笑)。
稲継 え?たった、一人ですか(笑)
原田 でしたので、他にうちの課がメインでやる事業もありますし、他の観光振興課や文化財の担当やいろんな担当の方が主体となってやっていく事業に、僕がオブザーバーとしてや、いろんな手伝いに行くという形で携わっているものもありましたんで、そういったんで、いろんな形で携わりましたんですけれども、ほとんどですね、コンセプトをつくったりですとか、高虎公をキーワードとした盛上げをどのような形にしていくかということは、一緒に考えてやっていきました。
稲継 ところで、このイベントを市民にも親しみを持ってもらうために、ゆるキャラをつくられたと聞いたんですが。
原田 シロモチくんという400年記念事業のマスコットキャラクターをつくったんです。
三重県デザイン協会の実施した市民自主事業の一環だったんですけれども、高虎公の浪人時代にお餅屋さんから恩を受けたという逸話をもとに作られたお餅が3つ重なったキャラクターです。
このシロモチくんをマスコットキャラクターとして作製しまして、PR活動をたくさんさせていただきました。おかげさまで、そのキャラクターも結構最近知名度が上がってきまして、高虎公入府400周年記念事業が終わった後でも、いろんな津市のPR活動としてキャンペーンにも出て行っております。
稲継 なかには、たとえば原田さんが入っておられたりするのでしょうか。
原田 内緒ですけれども(笑)。キャラクターに誰が入っているのかっていうのは、よく聞かれるのですけれども、僕がよく入って...。こういうのは、僕は大好きですので(笑)、行ける限りどこでも行かしてもらってるんですわ。
稲継 大変ですよね。イベントも考えなければならないし、外の観光協会とかにもイベントをお願いしなければならないし、他方で、実際にゆるキャラをかぶってイベントにもでなければならないしということで、ほとんど休む暇がこの1年はなかったんじゃないでしょうか。
原田 そうですね、でも津市にとっては全国的にPRするいいきっかけであって、この400年記念事業が起爆剤になって、津市というのを全国的にも情報発信する絶好のチャンスなのかなというのは思っておりましたし、あと、合併して3年たっても10個の市町村が合併して、ひとつの市としてやっていくというのは、まだまだ、地域意識がまだ根強く残っているところもあり、そういった意味でも、津市として、ひとつの大きな事業をすることによって、一体感を実感してもらえるのではということで、そういう意味では、すこしでも、この記念事業が役に立ったのかなと思います。
稲継 しかし、それにしても、年間65本の事業というのは、びっくりですね。ちょっと考えにくい分量ですね。
原田 事業を、バーとやっとても、他の人たちに、この分量のすごさがどうやったら分かってもらえるんかなと思ったものですから、記念事業やりはじめてからずっと、参加者数を記録していっていたんです。最終的に95万人の65事業になったのを見て、これは、ほんまに、予想以上の多さに自分でもびっくりしました。
大きいイベントとかもあるんですけれども、数十人とか数百人でやっている小さな事業も、すごく、それなりに盛り上がってましたし、やってよかったなというのがあります。
でも、実は一番えらかったんは、全部の事業が終わってから記念誌を作ったんですが、それが一番えらかったんです(笑)。膨大な写真の取りまとめとかで。
でも、記念誌を見ると、こうやって写真と数字で分かるというのは、やっぱり、すごい、一年間を振り返って面白かったなと。
僕は、ほんまに、一年間、全権委任されてやらしていただきましたもんで、結構、好きにやらしてもらい、公務員としてはなかなか無いことでもあり、やりがいのある1年ではありましたね。
「ツヨインジャー」を生み出してローカルヒーローとして定着させ、「うまっぷ」をつくって「津のうなぎ」のイメージを定着させた原田さんは一時期、まったく関係のない部署への配置換えとなる。しかし、仕事以外の土日を使ってツヨインジャーの活動は続けていた。また、「津市元気大学」の取り組みにもかかわっていた。その後、職員公募に応募して、「藤堂高虎公、入城400年事業」の担当者となる。1年間で65の事業を企画し、延べ95万人の参加者を得た。ゆるきゃらの「シロモチくん」のかぶりものをしたり、ツヨインジャーになり切ったり、忙しい毎日が続く。