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第55回2009.10.28

インタビュー:津市スポーツ・文化振興室文化振興課 原田 浩治さん(上)

 ゆるキャラがはやりである。彦根のひこにゃん、をはじめとして全国的に人気キャラも増えてきた。三重県津市では、昨年、藤堂高虎公400年記念事業のマスコットキャラクターとして「シロモチくん」というものをつくり、市民の人気者になっている。実はこの事業の担当者は、その数年前に、ゴレンジャーに似た、「ツヨインジャー」というご当地キャラクターをはじめた津市の職員である。毎年のように、津を売り込むためのアイデアを生み出している、津市の原田さんという人がいる。今回からは、「分権時代の自治体職員」として、彼のお話をお聞きしよう。


稲継 今日は三重県津市にお邪魔して、原田さんにお話をお伺いします。原田さん、こんにちは。よろしくおねがいします。

原田 よろしくお願い致します。

稲継 原田さんの簡単なプロフィール、入庁されてから、今までどのような仕事をされたかということについてお教えください。

原田 はい、平成5(1993)年に津市役所に採用になりまして、そのとき、市民対話課という課に配属されました。

稲継 市民対話課?珍しい名前ですね。

原田 そうですね。当時は、すぐやる課というのが流行っていたらしく、現場と市民の方たちを結ぶような課だったんですけれども、僕は、その中でも、国勢調査とかを担当している統計担当をしておりましたもので、直接は、そういったことはあまりなくて...。

稲継 それじゃ、普通の市役所の総務課的な仕事をされていたんですか?

原田 そうですね。そういう仕事ですね。

稲継 平成9(1997)年に次の課に移られましたね。

原田 課税課の市民税担当に異動しまして、市民税の徴収なり、納付なりにかかわる仕事です。

稲継 なるほど、そちらにおられて、それから、その次は?

原田 その次に、農林水産課に行くことになりまして、そこでは、主に管理担当をさせていただいておりましたが、いろんな事業にかかわる仕事にも携わらせていただきました
 農林水産課は、土木工事の現場があって、そういう管理部門や政策部門もあってという、結構、ひとつの課で、小さな役場みたいな感じの幅広い業務内容でしたので、結構、面白かったですね。

稲継 幅広くやっておられたんですね。この課の仕事の中で、特にどんな仕事が印象に残っておられますか?

原田 当時、特産品づくりをする事業がありまして、もち小麦という新種の麦で、特産品を作っていこうということで、いろいろと、三重短大の先生や企業、農協といった方々と協働でやっておったんですけれども、そのときに、ある商店街のうどん屋さんと一緒に、もち小麦を使ったうどんで"つぅどん"というのを-これは、もじってつくったんですけれども...。"津"のことを津の人は"つぅ"と小さい"う"をつけて言うんですが...

稲継 "つぅ"っていうんですか。

原田 はい。それで、何も入っていないうどんっていうのを"素うどん"といういいかたをしますもんで、それをもじって"つぅどん"というかたちで、売り出したら、結構、人気がでまして...。

稲継 そうですか。へぇー。

原田 そういったところで、ちょっと、地域の人たちと事業をつくるというのが、ちょっと面白いなと、そのときに実感することができました。

稲継 なるほどね。
 後でいろいろお話がでてくると思うんですけれども、その後、さまざまなイベントやキャラクターとのかかわりだとか、市民と協力してやっていくことになるんですが、その種が、農林水産課のときにあったということなんですかね。

原田 そうですね。ちょうどそのうどん屋さんで、お客さんと話になったときに、「役所の職員でこんなおもろいこと考えるやつがおったんやな」と言われたもんで、「役所の職員でもこんなことやっていても'あり'かな」と、そのときにちょっと思いました。それが、ある意味きっかけだったかもしれません。

稲継 それは、おいくつぐらいのときになりますか?

原田 まだ32ぐらいですね、そのときは。

稲継 その農林水産課から次に動かれたのが、商工労政課ですか?

原田 そうです。商工労政課の観光担当というところに変わりました。

稲継 そこで、いろんなことを始められるわけですよね?

画像:原田 浩治さん
原田 浩治さん

原田 そうですね。
 農林水産課に所属している当時から、僕は観光とかですね、津市を盛り上げることをなんとかしたいなとは、常々、思っておりました。そこで、商工労政課におりました増田くんという若手の子と一緒に-農林水産課と商工労政課というのは、場所が隣同士の課でしたので-「津市を盛り上げるのに何かしたいな」という話は、常々、しておりました。
 そんな中で、まだ農林水産課の4年目の最後のときくらいに、何かヒーローをつくって盛り上げようという話が出て、その話が盛り上がっている矢先に、僕が、ちょうどその増田くんと同じ商工労政課の観光担当に移りましたもんで、これは何かの縁というか運命やなと思って、「ちょっとがんばって観光振興をやろうにぃ」ということで、ローカルヒーローの"ツヨインジャー"というのを力を入れてがんばりはじめたんですわ。

稲継 すでに、農林水産課におられるときに、キャラクターづくりの話が始まったということですね?

原田 そうですね、まず、名前だけがあったんです。
 名前ありきで、このツヨインジャーというのが"津をよくする"というのと"強い""弱い"の"強い"にかかってますんで、「すごくいい名前やな」とウケまして「まず、この名前から何か動くきっかけにしようにぃ」とメンバーがみんな盛り上がり、活動が始まりました。

稲継 そのまんま、このツヨインジャーは爆発的な人気になるわけなんですが、当時はまだ、参加の呼びかけも非常に質素な手作りのポスターだったと聞いているんですが。

原田 そうです。手作りのポスターで...。

稲継 ちょっと見せていただけますか。

原田 まず、職員に呼びかけないことには、僕らね、数人のメンバーだけでやっているんではあきませんし...。
 これがそうなんですが。(呼びかけポスター)
 僕らも、そのとき何をしたらいいのかわからんけれども、とにかく「津をよくしたい」「おもしろくしたい」というメンバーを集めたいなぁ」と常々思っていましたもので、「まず、'何をするか'よりも先に、'動く'ことが大事なんかなぁ」ということで、アクションをおこすために、こういった手作りのパンフレットというかポスターを作ったりして、呼びかけをしました。

稲継 これで、呼びかけをされてですね、何人くらい集まられたんですか?

原田 そうですね、それでもですね、ほんまに、集まったのは、役所の職員では、4、5人くらいですわ。
 ですけど、それ以外にも僕の同級生だとか、あと、大学生とか、結構、関心のある人が、市役所職員以外にも集まってきましたもんで、そういったところでは、活動自体は、10数人ではじめました。

稲継 その活動というのは、具体的にはどのようなことをやられたんですかね。

原田 そうですね、観光PRもしたいんですけれども、まず、ツヨインジャー自身の知名度を上げなければいけないということで、こちらからアポイントをとったり、アポなしで飛び込んでいったりということで、いろんなイベントに、とにかく行ったりしまして、ちょっと変わったやつ来たなぁみたいな感じで...。

稲継 アポなしで飛び込むんですか?

原田 そうです。たくさんのイベントにこちらから押しかけていって、PRちゅうかね...。 僕ら自身も、何のノウハウもなく、何をしたらいいのか分かりませんでしたけれども、「まず、行って、やることによって何か分かってくるんちゃうかな」というのもありましたんで。
 行ってみて、「こういうことしたらアカンなぁ」「こういったらウケるなぁ」というのがちょっとずつ分かってきましたもんで、そういったところが、今の活動なり、ツヨインジャーのいいところの活動につながって、ノウハウになっていったんかなと思いますね。

稲継 当時は、これは、いわばボランティアでやっておられたということですかね?仕事として、これを命じられてやっていたわけではないんですよね?

原田 仕事としては、なかなかこういうのは、認められませんでしたしね。
 どちらかというとツヨインジャーといってもイロモノ的な存在でしたので。「市役所の職員が何バカやって、それで給料もろとんやないか」というんだったら、逆に心証も悪いですし、ある一定のときから仕事から切り離して、僕らのやりたいことの延長としてやろうということで、整理がついてきたんです。

稲継 土曜、日曜だとか。平日のイベントのときは、有給休暇を取って、出かけていくと。そこまで思い入れをもってやられた原動力というのはどういうことなんでしょうね?

原田 僕は、津に生まれて、津で育ったんですけれども、津で何かをしたいなというか...。
 津の人から「津は何もないなぁ」という口癖が、よく聞かれましたもんで、やっぱり、そういのは、ちょっとね、残念というか、悔しいというのがありますんで、それを何とか変えたいなと、そういう市民意識を変えたいなという思いがありましたもんで。
 そういったところで、僕らが、何かバカやって、こういうおとなしい市民性をちょっとでも変えることができて、新しい登場人物がどんどん生まれて来ないかなということが原動力というか、そういう思いでやりはじめました。

稲継 先ほど、半ばボランティアでやっておられたということですから、お金もなかなかなくて-予算も当然、ついていないわけですから-キャラクターのマスクだとか衣装だとかどうやって作られたんですか。

原田 これはね、まずはお金をかけずに、作り始めました。
 100均だとかで買った安いシャツに赤い布を貼り付けて、ホームセンターで買ってきたヘルメットを赤く塗って、ほんまに数千円でやり始めて、ある程度したときから、実は、上司だとか職場の周りの人だとかに声をかけて、カンパを募ったんですわ。

稲継 カンパですか。

原田 「こういう活動をしたいもんで、まず、カンパしてください」ということで、いろんな部長や課長や職場の人に頼んで...。
 それが、結構集まったんですよ。10万円ちょっとくらい集まりまして、それを元に、衣装や小道具を作ったわけです。

稲継 衣装やマスクも、普通にそういうキャラの専門店に頼んだら、ものすごく高いでしょう。
 そういうところを何件か回ったりされたんですか?

原田 そうですね。そういうところは、まず、津市内にはなくて、始めは既存のユニフォームだとかつなぎとかでやろうかといってたんですけれども、やっぱり、ヒーローとして、もうちょっとオリジナリティのあるかっこよく、非日常的なやつを作りたかったもんで。
 数件当りましたら、レオタードとかそういうものをいろいろオーダーメイドでつくってくれる個人の店を市内で見つけまして、その店にお願いをして、作ってもらうことができたんです。

稲継 そういう賛同してくれる人もでて、いわゆるツヨインジャーが動き始めました。
 ツヨインジャーの中にも入られるわけですよね?

原田 そうです。

稲継 真夏とか、暑い中、マスクをかぶって、衣装を着て、ツヨインジャーをやられるわけですが、やりがいとかありますか?

原田 そうですね、やっぱり暑い時期のイベントでは、39度を超える中、2時間ぐらいパレードしたりだとかがありますし、休みの日とかに出て行くときは、すごいテンションが低くて、「あぁ、えらいな。今日はイベントで2つ出なあかんなぁ」とかいろいろあって、行く前には、気持ち的にすごく落ち込んでいるんですけれども、いざ、イベント会場に行くと、子どもらの反応のよさというか、子どもらの喜んでくれる顔だとか、キラキラした目で近づいてくるのを一度、経験すると、もう病みつきになります。

稲継 病みつきになりますか。
 動き出した当初のころは、まだ、100均でつくった頼んないイメージのローカルヒーローだったわけですけれども、徐々に人気が出てきたと考えていいんですかね。子どもたちの食いつきもだいぶよくなってきましたか?

原田 よくなってきまして、僕らの動きもちょっとずつヒーローっぽくなってきたということもありまして、そういうので、いろんなところで...。
 僕ともう一人の増田くんというのか、目立ちたがり屋というのもあったもんで、そんなで、臆せず、どんどん出ていったというのもあって、結構大きなイベントとかにも呼んでもらえるようになりました。

稲継 そうですか。テレビとか雑誌、新聞なんかの取材も来るようになったのですか。

原田 そうですね。ほんまに、テレビ、ラジオとか雑誌とか、あと、出始めた当時、一番大きかったのが、愛・地球博で三重県のPRをする日に呼んでもらって、すごい大きなステージで、初めて何千人もの前でツヨインジャーが出て...。そのときは、ちょっと緊張しましたけれども...。

稲継 全国のみなさんにツヨインジャーをPRすることができたわけですよね。

画像:津のうなぎ
津のうなぎ

原田 そうです。そんなんで、徐々に、そういうところにも行っとるよということで、箔もついてきまして...。
 あと、当時、僕と増田くんが、うなぎを何とかPRしたいという思いがありましたもんで、津には大変うなぎの店が多いので...。

稲継 それは、どうしてなんでしょうかね?

原田 やっぱり、昔からお伊勢さんへ向かう参宮への街道であったこともあって、それで、その当時から徐々にうなぎ屋さんが出てきて、それに伴ってうなぎの養殖池もたくさんこの辺につくられまして、うなぎの養殖池が、ほんまにこの津一面にたくさんありました。この辺がある程度湿地帯であったということもありまして、うなぎの養殖池がたくさんあったんです。今は、伊勢湾台風だとか、宅地の開発でぜんぜんなくなってしまったんですけれども。
 その中でも、おいしいうなぎ屋さんや流行っているうなぎ屋さんが残りまして、今でも、この辺だけでも20件以上お店が残っております。

稲継 それで、うなぎ屋さんがたくさんあるということですね。それを何とかPRしようということですか。

原田 そのうなぎ文化と津の安くておいしいうなぎをもうチョイPRせんとあかんなということで。
 やっぱりね、この辺の方は、いいものがあっても、PRをしないんですね。今が儲かっとればいい、今がよければいいという、おとなしいというか、そういう市民性というか。
 だから、PRをもうちょっとやってもいいんじゃないかなということで、僕らがちょっと一役買いたいなと。
 その当時、残業しているときに"うまっぷ"という名前をまた考えましたもんで...。

稲継 うなぎのマップですね。

原田 そうです。うなぎのマップで"うまっぷ"と言います。「これをまた実現化させようにぃ」ということでやり始めました。
 初めは、それを行政でしようと思ったんですけれども、いろいろ上司にも反対にあいまして。やっぱり、特定の業種や特定の産業、お店を応援するというのは、行政では公平性に反するということで。

稲継 いかにも上司がいいそうなことですね。

原田 そうです。
 「それやったら、うなぎ屋だけやなくってうどん屋も寿司屋も全部PRせなあかんやないか」「そんなんやっとったら、また、おもしろくなくなりますやん」なんて話をしとったんですわ
 それは、僕ももっともやと思っとったんですわ。税金使ってね、特定の産業を応援するのも、どうかなと。そうやけども、今の時代にね、地域に特色を見せないと、このままでは、どんどんあかん地域が負け組になっていく悪い連鎖やなと思ってましたもんで。
 行政でダメやったら、また、今まで、ツヨインジャーとかで独自にいろんな活動ができてきとるということもありましたんで、うなぎ屋さんに直接話をしに行ったんですわ。うなぎ専門店組合さんというのが、すべてのお店やないんですけれども、8件ぐらいのお店でつくっておられる組合さんがありまして、そこに話をしに行きました。
 初めはね、その8件のお店のなかでも、「そんなん、なんで、ウチの組合に入ってへん店までも宣伝するパンフレットつくらなあかんのや」という反対の声もあったんですけども、そのなかでも、心意気のあるお店の方が、「そんなん、おれら(組合)の心意気見せて、パンフつくったろやないか」ということで、とりあえず印刷代をもらえるようになりました。
 それで、僕らが、企画を考えて、デザインもみんな考えて、お店を回って-"うまっぷ"には、味とかのバロメーターがついとるんですわ-味とか値段とかのそういったデータとかの調査して、作らせてもらいました。
 うまっぷは、当初、1万部作ったんですが、予想以上の大好評で数か月もたずに、一気に、すぐなくなりましたね。これを通じて、マスコミの取材がさらに、また、増えたりとかして。これで、「津と言えばうなぎやな」というように、周りの認識がちょっと変わったかなというのがあるんです。


 ローカルヒーロー「ツヨインジャー」を軌道に乗せた原田さんたちは、次に、津の「うなぎ」に着目し、「うまっぷ」を作成して町をアピールしていった。