メールマガジン
分権時代の自治体職員
第49回2009.04.22
インタビュー:宇部市総務部防災危機管理課 防災危機管理係長 弘中 秀治さん(上)
先月号まで、札幌市の北川さんに登場いただいた。
今月と来月は、気象予報士であり、日本気象予報士会の理事も務められている、防災のエキスパートである宇部市の弘中さんにお話をお伺いすることとする。
弘中さんも、普通の事務職員として公務員人生をスタートされ、その後、防災のエキスパートになられている。まずは、入庁後からの経歴について順にお伺いしていこう。
稲継 今日は宇部市の防災危機管理課をお訪ねして、防災危機管理係長の弘中さんにインタビューをさせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。
弘中 よろしくお願いいたします。
入庁後、教育委員会での仕事
稲継 弘中さんが、この宇部市役所に入所されたのはいつになりますでしょうか。
弘中 秀治さん
弘中 平成3(1991)年の4月になります。
稲継 最初はどういう仕事にたずさわれられたのでしょうか。
弘中 市役所に入りまして、すぐ、教育委員会に出向しまして、体育課に配属になりました。
稲継 体育課ではどういうお仕事を担当されましたか。
弘中 体育課ではですね、一つは宇部市の体育協会-競技スポーツを担当しているところですけれども、この協会の事務局としての仕事がありました。それから、もう一つは、体育指導委員、'体指'とよくいわれますけれども、その事務局としての仕事、それから、もう一つは、生涯スポーツの担当として高齢者のスポーツを担当しておりました。
稲継 市役所に入られる前の市役所のイメージと入られて教育委員会の体育課に配属されてからのイメージはだいぶ違うと思うのですが、どういうふうに違いますでしょうか。
弘中 そうですね、市役所というと夕方5時になったらすぐ帰れるような職場なのかなと漠然としたイメージがありましたけれども、実は、体育協会の中にもいろいろな、たとえば、野球協会だとかサッカー協会だとかいろんな種目団体ごとの協会があり、また体育指導委員の方々も普段会社にお勤めの方だとか自営業の方が多くいらっしゃいますけれども、こういった方との打ち合わせ等の会議、こういったものはすべて夜間の会議になります。
そもそも、体育行事そのものが日曜日にあるというのが普通ですので、日曜日が営業日ということで、朝早く集合して...。
稲継 朝何時ごろですか。
弘中 冬のマラソン大会とかになりますと、朝5時集合とか...。
稲継 朝5時ですか。
弘中 真っ暗ですね。
稲継 きついですね。
弘中 朝、真っ暗な中、ライン引きといって、よく道路に石灰で矢印が描いてありますよね。あれが当日最初にやる仕事なんですけれども、ああいったことをやったり...。
でも、非常に楽しい仕事でしたよ。体育というのは気持ちのいいことですし、多くの方の協力を得て、この大会運営が成り立っているというのを学びました。私自身、それまで一参加者として参加したことはあっても、大会運営という面から、たくさんの方のご苦労があったり、ご協力があって成り立っているということに気づかされたという意味では、非常にありがたかったと感じています。
稲継 割と充実した仕事をされたということですね。
弘中 そうですね。準備や手配等が大変なんですけれども、仕事は、メリハリが非常にあり、そして、達成感とか充実感とかこういったものを毎週味わえるいい仕事だったなと思っています。
稲継 仕事は、どちらかというと内部管理よりも外部の方との調整が多い仕事ですね。
弘中 内部的なものも、文書発送や予算管理などいろんなことがあるんですけれども、中心は、外部との調整ということで、市役所の中の付き合いよりかは、外のお付き合いが非常に強かった、そういった仕事でしたね。
稲継 外部の方との接触の中で何か教えられたこととかありますでしょうか。
弘中 その後の活動とかにも大きく関わってくるのですけれども、たとえば、体育指導委員さんにも、たいへんお世話になりました。ボランティア精神で地域の方のお世話をされ、そして、市の大会でもお世話をされるということで、私自身もたいへん助けられたし、本当に頭の下がる思いでしたね。
私自身、その後、災害ボランティアにも関わってくるようになってくるのですが、その大きな原動力というのですか、きっかけをいただきました。
稲継 ここに平成3年からいつまでおられたのでしょうか。
弘中 平成3年から平成8(1996)年の3月までです。
防災関係の仕事との出会いー気象予報士の資格取得へ
稲継 平成8年の4月に異動されたわけですね。それが、今の防災危機管理課ですね。
弘中 そうですね。今、防災危機管理課といっていますが、当時は、防災室といっていましたね。そちらの方に配属になりました。
稲継 ここに平成8年の4月に配属されたわけですけれども、主に、最初に担当されていた仕事というのは、どういうものでしょうか。
弘中 最初はですね、宇部市の地域防災計画が従来あったわけですけれども、平成7(1995)年のあの阪神淡路大震災を受けて、国の方でも震災対策に力を入れるようにという方針がでたり、あるいは、サリンの対策があったり、大きな防災施策の転換期を迎えて、市の地域防災計画もそれにあわせて、特に、震災対策編という地震の関係をきちんと整理しましょうということで、その担当ということになりました。当時ありました地域防災計画を隅から隅まで読みまして...。
稲継 大変な分量ですよね。
弘中 4千ページくらいあり、分からないところも100箇所以上あって、そういったことを一つ一つ勉強しながら、分かりやすいものにしたり、あるいは、新しい考え方というものを入れたりということに1年間取り組みまして、形にしたというのが最初の仕事です。
稲継 お聞きしたところによると、この頃から気象予報士の資格を取ろうという風に勉強をしはじめられたということなんですが、平成10年に取得されるわけですが、この勉強をしはじめられたきっかけというのはどういうことなんでしょうか。
弘中 防災全体の枠組みは、地域防災計画を通して学べましたが、具体的なものがほとんどなくイメージがなかなかつかめませんでした。例えば、私どもの地域は、梅雨期の大雨というのが災害の一つになるんですが、配属されたばかりの年(平成8年)に、大雨注意報・警報が切り替わったりしながら、一週間出っぱなしになったことがありまして、もちろん被害もあったわけですが、そういった中で、「大雨に関する山口県気象情報」-気象台から出される情報ですが-といったようなものが県庁を通じてファックスで来て、そういった中に、××ミリの大雨が降るおそれがありますよという、いろいろと情報が書いてありました。
稲継 数字が並んでいるんですね。
弘中 数字があるんですけれども、私も来たばっかりでよく分からないので、「××ミリの大雨が降るおそれがあります」と書いてあるのですが、「もし、こういった雨が降ったらどうなりますかね」とまわりの先輩とかにお尋ねしたところ、なかなか皆さん具体的なイメージをご存じないわけです。そういった中で、数字はちゃんと来ているんですけれども、数字の意味するところ、あるいは、地域にとってどうなのかという部分については、「これはやっぱり誰かが詳しくならないと、大変なことになるな」という危機感を覚えました。そのことが、一つきっかけとしてあります。
それから、もう一つは、たとえば大雨警報が出て、大雨が降ったあと、晴れてしまった。でも、気象台は大雨警報を解除せずに、大雨警報が継続中と、こういった事態も当時ありました。これは、大雨による災害ということで、土砂災害の可能性が高いために、気象台さんは、大雨警報を引き続き継続されているわけですけれども、当時分からなくて、たとえば、土木一筋30年やってこられた市役所の大先輩がですね、「俺の見立てによると、もう大丈夫だ」と、「何で、防災体制を解除しないんだ」とか言って詰め寄られるわけなんです。
稲継 自分の経験で、こうなったら間違いないと。防災体制をやめろと
弘中 経験からいったら、たぶんそうなんでしょうけれども。その方が正しいんでしょうけれども、こちらも決まりですんで、「絶対帰っちゃいけません」と、「これは決まりですからダメです」と説得にならないことしか言えなくて...。やっぱり、警報が出続けるということに意味合いはあるだろうと思ったし、何でということを人に説明しないと、単に、ただやっているというだけではダメで、きちんと考えていかなければいけない。こういったことで、気象予報士の資格を取ろうと思いました。
まあ、その後、取りまして、地域防災計画も少し変えまして、防災体制というのは、原則として、当然、国の気象台が出される情報、注意報・警報が基準となっていますけれども、宇部市の実情にあわせて、市長(防災危機管理課)の判断において、たとえば、先ほどのような大雨の降るおそれはないけれども、土砂災害のおそれがあるという場合には、大雨に関係のある下水道部、そういった部署では早めに解除し、土砂災害を担当している部署については、引き続き体制継続と、そのようなさじ加減といいますかね、臨機応変な対応ができるように、地域防災計画の変更をさせていただきました。
これによって、もちろん、時間外等の人件費等の削減というのにも役立つわけですし、意味のある防災体制というものをしくことができたということですね。
気象予報士の資格をとったきっかけとしては、その二つが大きなものです。
平成11年の宇部市の大災害―台風18号―とその後:自主防災組織の広まり
稲継 勉強されて、気象予報士の資格をとられました。平成10(1998)年ですね。それで、平成11(1999)年に実はこの宇部市は大きな災害にあうわけですよね。その辺をちょっと説明していただけますか。
平成11年台風18号被害
弘中 平成10年は、その震災対策編を受けて、今度は、風水害対策編、それから火災・事故災害対策編というのを同様に改訂していきました。
それから平成11年に、台風18号という強い台風が来まして、熊本県の八代で高潮によって死者がでたということで、全国ニュースになった、その台風なんですけれども、その2時間後に山口県の宇部市に上陸しました。
宇部に来て、竜巻が発生し、高潮が起き、災害対応に非常に追われました。当時、500棟を超える全半壊がでましたので、近年、非常にまれに見る大災害となってしまいました。宇部市内においては死者、行方不明者がでず、不幸中の幸いではありました。
(山口宇部空港 台風18号による冠水時の写真・通常時の写真)
稲継 この18号の台風の高潮をきっかけに何か宇部市に大きな変化が起こりましたでしょうか。
弘中 宇部市にとっては、防災対策を進める上で、非常に大きなきっかけとなった台風でした。
当時、それだけ大きな被害を受けましたので、市役所に対するさまざまなご批判だとか、ご要望とかたくさんございました。それから、わたくしども市自身も災害復旧に取り組むなかで、ハード面を順次直していくことは当然のこととしても、ソフト面でなにかしっかりやっていかなければならないと、強い決意が、生まれたのも事実です。
それから、地域の方々といろいろとお話していくなかで、地域の中でも、いろんな温度差があったり、情報の格差があって、自分たちでももうちょっと何かできたんじゃなかろうかと、こういったご意見も聞かれるようになってきました。
そういったなかで、私どもの地域で遅れていた自主防災組織、これについて、重点的に取り組んでいこうということにつながってまいりました。
稲継 自主防災組織というものは、どういうもので、全国的にどういう傾向にあったのか、ちょっとご説明いただけるでしょうか。
弘中 はい。自主防災組織というのは、もともとは、国の施策のなかで、当初は、地震対策ということをメインに考えておられました。平成7(1995)年当時は、残念ながら、私どもの地域は0.8%というほとんどないに等しい状態で、なかなか住民の機運も上がらず、わたくしども行政としても、取組が不十分であった部分もあったと思います。
ですけれども、こういった11年の災害を受けて、やっぱり行政だけでやる、もちろん行政がすべきことはあるんですが、行政だけでできないこともたくさんあって...。
稲継 やっぱり限界がありますよね。
弘中 やっぱり関係者のご協力であったりだとか、地域住民同士のつながりであるとか、助け合い、これをやっぱり大切にしていかなければいけないということで、11年の不幸な災害ではありましたけれども、これをきっかけとしてまして、地域にもそういったお話がしやすくなったという背景もございまして、市としても重点施策として取り組んでまいりました。
市の施策としては、小学校単位にいろいろな施策を進めている関係がございまして、当時、一番被害を受けた西岐波(にしきわ)校区という校区で話をしまして、「市の総合防災訓練をぜひ引き受けていただきたい。その上で、住民の防災機運を高めて、できれば自主防災組織といった形にしたい。」といった話を関係者の方にしました。地域でも、あれだけの被害を受けたけれども、助け合いというのはやっぱり本当に大切だということは実感したと。地域としてそういった組織をつくってやるということは、非常にいいことだと思うという力強いお言葉もいただきましたので、まず、一校区目でやって、導入できたというところですね。
それで、その後、実は、平成11年の台風18号災害で地元の大学、ボランティア団体などいろんな関係者が集まってNPO法人防災ネットワークうべというのが結成されまして、そういったところと連携してですね、そういった自主防災組織の結成へ向けて一緒に取り組んできたところです。
稲継 この小学校単位に徐々に広めていこうとされましたが、その後の状況はいかがなんでしょうか。
弘中 まずは、一歩一歩やっていこうということで、小学校校区一校区ずつNPOと協働して防災研修を半年ぐらいかけてやってですね、住民全体の機運も高めていこうとしました。それから、市の訓練をその地域にもってくることによって、訓練にあわせて結成式だとかそういった形にぜひ取り組みたいですよねということで地域全体を盛り上げながら取り組んでまいりました。
それで、当初一校区ずつ一歩ずつやってきたわけですが、もちろんそういった取組は地元の報道や市の広報誌なんかでも紹介される中で、隣の校区でこういった取組をやっている、あるいは防災訓練をやっているというのが紹介されるとですね、「私たちの校区はどうなっているの」とかですね、「しなくていいのか」とかそういった声もでてまいりまして...。
稲継 競争みたいになったわけですね。
弘中 そうですね。競争が出てまいりました。それで、私どもの方につくるにはどうしたらいいのだろうかとか相談が入ってくるようになりましてですね、それで、追い風にのってといいますか、最初は一歩ずつ何年かかるだろうかとこちらも不安の門出だったんですが、最初の3年を手探りでやってみたら追い風をいただいて、近年、本当に順調に、急速に自主防災組織が結成されてきたという状況です。
平成20(2008)年度末にはですね、消防庁に報告する自主防災組織率(組織されている地域の世帯数/全世帯数)でいうと95.4%になる見込みというところまできました。
稲継 これは、全国平均や山口県の平均と比べるとはるかに高い数字ですよね。
弘中 おかげさまでそうですね。全国的には、もちろんもっと熱心にやられているところもたくさんあるとは思うんですけれども、急速に伸びたというところでは、特に目を見張るところがあるのかなと思っています。
稲継 スタートは0.8%。
弘中 そうです。
稲継 あっという間に95%まできたという。驚異的な伸び方ですよね。
弘中 最初のひとつ、ふたつが一番苦労しましたね。そこができると、前例がありますので、なんとなく地域の方とお話していてもこういうイメージかというものは持っていただけるのですが、最初のひとつは私どもがいくら話をしても、私ども自身もイメージというのがよその地域で少しずつ聞いたようなものしか持っていませんので、ある程度漠然としたものしかお話できなかったんです。そうは言っても、災害を受けて私どもも何とかしたいと思いますし、地域の人々ももうちょっとなんとかできたという思いがありましたので、何とかひとつ目のものができたと。
それで、ひとつ目にできたところはですね、やっぱり先陣を切ったという自負もたぶんおありだと思うんですけれども、毎年自分たちで工夫して防災訓練の中身を考えてらっしゃいますね。そういう意味では、本当に自主的な自律した活動というものにつながってらっしゃいますね。それが、私どもとしてもありがたいなと思いますね。
アドバイスしてくれというお話をいただくことも、もちろんありますが、一緒に悩み、考え、適切にアドバイスできるところはさせていただいております。
もともとは教育委員会の体育課で職業人生をスタートした弘中さんであるが、防災に携わることになってさまざまな変化が訪れる。苦学して気象予報士の資格を取得し、データを読み解いて関係者へ説得的に説明するスキルを身につけた。また、平成11年の大災害をきっかけに、自主防災組織を広めていくことに注力していった。