メールマガジン

第47回2009.02.25

インタビュー:札幌市円山動物園 経営管理課経営係長 北川 憲司さん(中)

 旭山動物園に大きく水をあけられた円山動物園は、一時、入園者数50万人を割り、49万人にまで低下していた。寂れていく動物園の姿を目の当たりにして、北川さんたちは、何とかしようと奔走することになる。園長から飼育員までが一体となって議論を重ねて長期計画、コンセプトを作っていった。同時に、経営を成り立たせるために、スポンサー集めにも奔走した。北川さんが赴任するまでは1件もなかった民間とのコラボ企画が、現在では年間50件を優に超えている。入園者数は、V字回復して70万人にまで達することになった。40数%アップという驚異の上昇率である。


稲継 これだけ大勢、入園者が増えた原因というのは、どのように分析しておられますか。

北川 本当にいくつもの要素が組み合わさってはいるんですね。
 やはり、一番入園者数が増になる要素というのは「新しい施設ができました」なんですよ。今年度は、特に新しい施設が3つぐらいオープンしているんですけれど。
 次に要素として大きいのは、「新しい動物がきました」あるいは「赤ちゃんが産まれました」なんですね。やっぱり、われわれが動物園である以上、それが一番大きい要素になります。
  それ以外でいいますと、やはり、イベント、それから普段の展示方法ですね。解説看板がおもしろいだとか、あるいは、飼育員がすごく親切に解説をしてくれる、あるいは、にこやかに対応してくれる。
 そういった、僕らの努力で解決できる要素ともう一つは、露出の部分なんですね。こればっかりは、われわれがいくら広報誌だとかホームページで書いても、興味のない人は見てくれませんから、やっぱり、マスコミにどれだけ取り上げられるかというのが非常に重要になってきます。
  それで、われわれは、自分たちでできる努力と、広報というものとを少し切り分けてですね、広報はかけ算だろうと。われわれが100努力しても、広報がゼロだったら結果はゼロだし、広報が50だったら結果は半分になってしまう。逆に広報が2倍だったら100努力した分が200の効果を生むだろう。ということで、広報にかなり力を入れています。
  一つは、ホームページ、携帯サイト、動画サイト、はてはブログパーツまで、あるいは、飼育員ブログ、そういった若い人向けのメディアを充実させたということですね。
  それから、どこの部局でもできるとは思いますけれども、プレスリリースですね。動物園側から積極的にニュースを発信していくということをかなり力を入れてやっていて、最低でも毎週、週1回必ずプレスリリースをしています。

稲継 動物園としてはめずらしいですよね。

北川  めずらしいですね。ヘタすると週2、3回プレスリリースを打つんですけれども。その甲斐あって、マスコミの側でも、毎週毎週、動物園から、「こういうことやっている、こういうことやっている」とやたらと来るわけですよ。ニュースがなくても「こういう花が咲いたよ」ですとかですね、そういう季節ネタのちょっとホロッとくるような。新聞でもよく小さい囲み記事とかあるじゃないですか。

稲継 ええ、ありますね。

画像:札幌市円山動物園の写真
札幌市円山動物園

北川 円山動物園は、そういうネタの宝庫ですので、そういうのをどんどん出していくとですね、今度マスコミ側のとらえ方が変わるんですよね。「あれ、最近、円山動物園変わったね」、「すごく元気じゃないか」と。どんどん情報も発信してくるし、自信を持って対応をしている。「私たちを見に来てください」というわけですから。それで、だんだん興味が出てくるんですよね。「なんかあるんじゃないか」ということでマスコミ側の目が向いてくれるというんですか。そこがすごく大きかったですね。

稲継 かけ算で、かけるの右側がどんどん大きくなっていったというわけですね。

北川 そうです。おそらく地元の札幌圏での露出でいったら、旭山動物園よりもずっと多いです。

稲継 飼育員さんのブログというと"100マイル"ですか。私もチラッと拝見したんですが、やっぱり彼らでなければ書けないものってありますよね。

北川 すごい味があるんですよね。

稲継 味がありますよね。

北川 普通であれば、例えば、市役所の部局で、担当者に、「ブログを書いてみなさい」と言ったら、たぶん公開する前に、いちいち課長の決裁をもらって、「こういう言い回しはおかしいんじゃないか」と赤ペン入って、たぶんお役所的なつまんない...つまんないって言ったらおこられるかもしれないけれど、そういったものになるんだと思うんですけれども、ある程度飼育員を信頼してですね、字句として市民が読んでも失礼じゃないようなもので、とにかく自分の好きな動物のことを思いっきり書けという形で信用して任せたわけです。それで、苦情が出たらその都度修正をしようじゃないかというやり方で。本当にわれわれが読んでも吹き出してしまうくらいおもしろいものが出て。それが結果的にお客様に顔が見える動物園になってきた。円山動物園の場合は、動物だけでなく飼育員もセットで売り物になってきたということがあります。
  どうしても動物たちっていうのは人間の言葉をしゃべれるわけではありませんから、飼育員が通訳になって彼らの魅力、あるいは彼らのふるさとの環境のメッセージみたいなものを伝えていく必要があるので、そういう意味で言うと、一つ有効なチャネルになっていると思いますね。

稲継 飼育員さんの顔も見えるし、飼育員さんでなければ撮れない写真も載っているので、これは、住民の方にとっては、とても動物園が親しみやすくなりますよね。  これは、関係ない話になりますが、読んでいて傑作だったのがある飼育員さんのブログの中に、「日本経済を斬る」というのがあって、いったい何かと思って読むと...。

北川 「日本経済を斬る」で検索したら、あらゆる経済学者さんたちのブログよりもうちの飼育員のブログが一番上にでちゃったというやつですね。
 ただ、あれをやって、情報発信をすると意識が変わるんですよね。情報って発信するところに集まってくるじゃないですか。そうすると飼育員が人前で人に伝えるということを通して自分の意識が変わっていくんですよ。自分の使命、自分に与えられているミッション、税金で動物を飼っていることのミッションみたいなものが、やはり、彼らの自覚みたいなものがすごく上がっていくんですよね。そういった意味でも、すごく効果があったと思いますね。

稲継 モチベーション対策が最初の非常に大きな課題だとおっしゃいましたが、かなり克服されて、皆さんのモチベーションがかなり上がっているということですね。

北川 そうですね。結果的に、もう今年で改革3年目になりますけれども、何が起こったかと言いますと、どんどん飼育員からイベントにアイデアがでるようになった。今まで、一部の飼育員だったのが、もっと幅が広がり、裾野が広がって、「俺もこれをやりたい」「私もこれをやりたい」と。
  しかも、それは、今度、"アニマルファミリー制度"というものを途中に導入しているんですけれども、これは市民が動物のえさ代を寄付するという、市民が親になってくれるという制度なんですね。
  昔は、変な言い方ですが、飼育員は自分の動物だと思っていたんですよ。「自分がえさをあげて、自分が世話をしてる、自分の動物だ」と思っていたものが、初めて市民の動物なんだということに、直感的にこれを通じて考えるようになったんです。ようするに「オーナーは市民の方です」と「われわれは、その動物をお預かりして、大事に飼育をして、それを美しく見せるという仕事なんだ」と制度を通して意識が変わっていったんですね。
  実は、このアニマルファミリー制度というのはただ、えさ代を負担してもらうという財政的なツールではなくてですね、お客様とわれわれ動物園の関係性を変えていきましょうということが主たる目的だったんですね。
  お客さんも「動物園に動物を見に行く」じゃなくて、「私の家族に会いに行く」という気持ちになっていただく、それで、自分の家族ですから、「私のリッキーをもっと多くの人に見てもらいたい」と思うから、そのお客さんは、自分のブログでライオンのリッキーのことを宣伝してくれる。お客様だったものが、広報マンになってくださる。
  それから、アニマルファミリーでイベントみたいなことをやっているんですね。最近でもあるんですけれども、例えば「レッサーパンダのココちゃんがすごくかわいいので、ココちゃんのTシャツをつくって売りましょう」というアイデアがお客様から出てくる。「じゃあ、よい写真を集めなきゃいけないんでレッサーパンダの写真コンテストをやろう」という話に飼育員とお客様が盛り上がって、それが事業になっちゃう。
 だから、お客様が広報マンになり企画マンになってくださる。これはもう企業で言うところのCRM(Customer Relationship Management)のゴール地点に近いものですね。そういった状態が今もうこの3年目になって実現してきている。それはもう、飼育員のモチベーションも上がるし、企画力も上がるのも当然だということなんです。

注:CRM=情報システムを応用して企業が顧客と長期的な関係を築く手法のこと。詳細な顧客データベースを元に、商品の売買から保守サービス、問い合わせやクレームへの対応など、個々の顧客とのすべてのやり取りを一貫して管理することにより実現する。顧客のニーズにきめ細かく対応することで、顧客の利便性と満足度を高め、顧客を常連客として囲い込んで収益率の極大化をはかることを目的としている。(e-wordsより)

稲継 非常にいい循環になりつつあるということですね。
 こちらの方に赴任されて2年半、いろんな取組みをやってこられましたけれども、今、お話を聞いていると、普通の人なら苦労に感じるようなことも、北川さんは全然苦労に感じずに、むしろ楽しんでやってこられたというふうに考えたらいいんでしょうか。

北川 そうですね、僕自身、実は、行革というか、管理部門が長かったので、正直、円山動物園のことを知らないときにはですね、「動物園は民間でやるべきじゃないのか。行革のさなか、例えば福祉を削ったり、公共事業を削ったりしているときに、どうして動物たちにえさをやらなければいけないんだ」という思いもあったんですね。
 ただ、ここに来て、いろんな飼育員と話していくうちに、彼らがどんな思いで動物を飼育しているのか、彼らがどんなメッセージを伝えたがっているのか、動物園にどんなポテンシャルがあるのか、このまちにとって動物園がどういうメモリアル的な存在なのかということを知っていった。そのうちに、簡単に言えば、惚れちゃったんですよ。僕自身が円山動物園のことを愛してしまったんですね。円山動物園のこともそうだし、飼育員たちのことも、すごく尊敬して、すごく愛してしまったんですよ。
 それで何とかこの円山動物園を次の世代の子どもたち、あるいは、100年後の札幌に残したいというふうに、自分の気持ちの中でモチベートできたんですよね。そのために、経営係長として僕ができることは何だろうかと。それは、円山動物園が生き残っていくための戦略をつくっていくことであったり、市民や企業に応援してもらえるような存在にさせることであったり、円山動物園自身の価値を高めて、「ここを絶対つぶさせないぞ」とお客さんに言ってもらえるような動物園にすることであったりと。そういう中から、動物園の戦略というものはできてきているという感じですね。

稲継 今まで、ずっと、円山動物園における北川さんのお話をお聞きしてきたのですけれども、北川さんがこちらに移られるきっかけになったのは、ある方の動物園人事だったわけですが、そのある方は、北川さんがこれまでにやってこられたことを、高く評価して、動物園に送り込まれたわけです。
 ここで、ちょっと北川さんが入庁されてから今までどんな仕事をしてこられたのか、簡単に振り返ってみたいと思いますが、入庁されたのはいつでしょうか。

北川 平成5(1993)年です。

稲継 最初は、どういう配属だったのでしょうか。

北川 最初は区役所ですね。区役所で福祉部に配属になりまして、一番最初の仕事がですね、老人クラブの担当だったんですよ。
 福祉といっても、障害者福祉だとか高齢者だとか生活保護じゃなくて、元気な老人-老人クラブですから元気なお年寄りですよね-のお世話というのじゃないですけれど、そういった仕事をしていまして、僕自身、「おぉ、役所でこういう仕事があるのか」と。老人クラブっていうのは、市民が独自にやっていると思っていたので。「役所の中でそんな仕事があるんだなぁ」と思って。まぁ、補助金が出てたりしたので、そういう振興みたいな仕事があったんですよ。
 やっている内容はですね、休みの土曜日に出勤して、おばあちゃんと社交ダンスを踊ったり。社交ダンス大会みたいなものがあったりして、担当者ですから行きますと、「北川さん、北川さん」と呼ばれて、おばあちゃんたちと踊ったり、日曜日になれば、ゲートボール大会でおじいちゃんと一緒にゲートボールをしたり。まぁ、そういったことをしながらイベントのお手伝いだとか、そういうことをしていたという感じですね。

稲継 ここにはどれくらいおられましたか。

北川 最初の1年間ですね。

稲継 それから、次、担当が替わられたということですね。

北川 担当が替わって、今度は、同じ福祉部の中で経理を担当しました。最終的には福祉部で3年いたんですけれども、そこで経理をやったことによって、福祉部全体、札幌の福祉全体が少し見渡せるようになったかなというふうには思いました。

稲継 福祉部に最初3年間おられて、それから移られたのが行政改革ですね。

北川 そうですね。希望としては全くなくてですね、行政改革の仕事だとか、経営の仕事に全く興味がなくて、自分自身はもっと別な仕事をしたかったんですけれども。
 後で聞いたら、一番最初の老人クラブの仕事がそこに大きく関わっていたんです。というのも、老人クラブ-30以上クラブがあるんですが-の会長さんって、だいたい銀行の頭取だった人だとか、小学校の校長先生だったりするような名士みたいな感じなんです。その会長さんたちに、大層、気に入られていて、その人たちが、僕の知らないところで、ご親切に人事の方に「北川ってやつはすごいいいやつだ」と宣伝してくれたらしいんですよ。
 たぶん、そういうことがあって、そういう市役所の大事な仕事に就かせてもらえたんだと思います。

稲継 どこで人事が決まるもんかわからないものですね。
 行政改革に行かれた平成8(1996)年にどういう仕事を担当されましたでしょうか。

北川 札幌市の行政改革は、特徴として、職員参加型の改革というのが、当時、行われていまして、"ダイナミック・リファイン・プログラム"通称で"DR"と呼んでいた職員参加型のプログラムで、各職場から個人が行革のアイデアを投稿して、そのなかのいいものを実現していくという、そういうお仕事でした。

稲継 これを担当しておられたということですね。やっておられて、いかがでしたか。

北川 やっぱりどうしても危機感みたいなものが足らない部分があったり、あるいは、一部の人は盛り上がってるんだけれども、組織全体が盛り上がっているわけではなかったり、いろんな課題はあったんですけれども、やっていく中で、どんどん庁内の"やる気人材"と言うか、まだ諦めていない人たちを発掘するのが、すごく楽しくなってきまして、自分でニュースレターみたいなものをつくって、興味のある人に、どんどんダイレクトメールみたいに送ったりしてですね、改革の仲間みたいなものを増やした時期だったんですね。

稲継 "わいわいテーブル"というのも似たような概念なんでしょうか。

北川 "わいわいテーブル"は、そのDR運動の中で、後半に差しかかって、だんだん沈滞ムードが出てきた頃に、庁内から公募をして、やる気のあるメンバーを10人ぐらい集めて、それで本質的な問題に切り込んでいこうという検討チームでした。
  どうしても職員参加型で、アイデア募集でやっていくと、大なたを振るえない部分が出てくるので、そういったところを徹底的に議論しようということで庁内から募集をして集まった仲間ですね。

稲継 そういった職員参加型というか有志の士を募る形の行政改革のやり方をやられたわけですが、ここの担当が2年ほどで、担当が替わられたんですかね。次に担当されたのどういう仕事ですか。

北川 次はですね、機構改革といって、組織改革、組織作りですね。課と課を統合したり、部を廃止したり、そういう、ようするに財政と人事と組織という査定部門の仕事を2年ほど。これは、出資団体の仕事とあわせてやりました。

稲継 これは、どちらかというと内部管理型の仕事ということになりますね。あまり参加してもらってということはできないということで、もっぱら机上であるいはヒアリングを通してやるという仕事をやられたわけですよね。
 これは、北川さんにとっては、あまりおもしろくない仕事だったんじゃないですか。

画像:北川 憲司さんの写真
北川 憲司さん

北川 いや、これはすごく楽しくてですね。行革のときは、野に散らばった一兵卒というか、その中でやる気のある職員たちとおつきあいをしていたわけですが、今度は、ラインの仕事なので、各部門の筆頭部長、筆頭課長、庶務担当者みたいな人とのおつきあいが深くなるわけですよね。
  そうすると、市役所全体の構造が見えてくるんですよ。市役所も1万5千人職員がいて、非常に大きい職場ですから、なかなか市役所の全体像って見えてこないんですね。それが、どこでどういう仕事をしているのかというのが見えてきて、どこにどういう人がいるのかというのがだんだん見えるようになってくるのですよね。それがすごくおもしろくって、初めて市役所の仕事の全体像ってこうなんだなと把握できた。
 それで、出資団体もやっていましたんで、三セクだとかそういうものを含めて、要するに連結決算ベースで、公共の全体像が見えたということです。

稲継 非常に鳥瞰図が描けるようなったということですね。

北川 そうです。あわせて、将来の本当のラインに乗っているキーマン、在野の野武士たちのキーマンじゃなくて、本当に出世コースにいるような人たち、といったら語弊があるかもしれないけれども、そういうキーマンともお知合いになれたということがすごく大きかったですね。

稲継 自主研究グループをつくられたり、"@る~む"というものを開設されたりとかいうことをされはじめたのは、この頃なんでしょうか。

北川 その後ですね。機構改革しているときに、ちょうどインターネットというのが普及しはじめてきて、組織もやはりバーチャルな存在であると。だから、ネットワーク組織、今までのライン、スタッフあるいはプロジェクトチームという固定的に言われてきた役所の検討方法だけじゃなく、第四の組織としてネットワークというものが、これから重要になってくるぞということに、やはり気づいた年でもあったんですね。
 おりしもその後の2年間、また、総務局の中で、文書管理だとか地方分権だとか職員提案だとか、そういう仕事をしてたんですね。その中で生まれたのが職員電子会議室"@る~む"というものです。

稲継 これ、具体的にはどういうことやるところなんですかね。

北川 これはですね、基本的には電子会議室ですから、今で言えばミクシィみたいなものが、役所の中にあったんですよ。イントラネットの中にミクシィがあったという感じです。

稲継 職員であれば、誰でも参加できる。

北川 そうです。

稲継 お友達を呼ぶわけでもなく、職員であれば参加する権利があるということですか。

北川 そうです。たとえば、仕事のことでわからないことがあったら相談したりだとかですね、あるいは、役所の中で「これはおかしいんじゃないか」「変えるべきじゃないか」と思うことがあったらそこで提言したりとか、アイデアを出したりだとか。 あるいはクローズドの会議で実際に集まれない、たとえば、札幌市は政令市なんで区役所が10個あるんです。10区の区役所の担当者が集まって会議をするというのは結構大変なんですね。だから、ヴァーチャルで、web上で会議をしたりだとか、そういうふうに使われていました。

稲継 この"@る~む"をつくられたのが北川さんですか。

北川 そうですね。

稲継 どこで思いついて、どうやってつくったんですか。

北川 いや、これはですね、伏線がいくつかあるんですが、僕らの先輩に当たる人たち、インターネットに早くから携わっていた人たちが、市役所の外でメーリングリストをやっていたんですね、職員の有志で。そこに僕も誘っていただいたりして、こんな世界があるんだな。そこで喧々諤々議論している。でも、これって役所の問題を外で、赤提灯で議論しているのと同じだなと。ヘタすると批判、不満だけで終わってしまうだろう。これがもっとオフィシャルに仕事の中でできたらうちの市も変われるんじゃないのかという思いがあって、いつか役所の中でやりたいって思っていたんですね。
 そのときに、ちょうど、市民との間でも市民電子会議室というのをやってみましょうという話があって、じゃあ、外でもできるんなら、中でも必要だよねと。外の市民とリアルタイムで電子会議室をやるってことは、それだけ意思決定が早くなければいけませんから、庁内でもメールでやりとりをするようなことができなければいけない。ということで、それで、市民電子会議室とちょうど同じ時期にできあがっていったということですね。

稲継 結構、テクニカルな問題だとか、予算がかかったりだとかクリアしなければならないハードルはありましたよね。そういったのはどのようにクリアしていかれたのですか。

北川 基本的には、情報化部門、IT部門に同じような志を持った職員がいたんですね。仲間が。僕は、総務局なので制度を所管してますから、総務局が制度面でクリアして、IT部門がインフラでクリアすれば実現できるわけですよ。ちょうど、その2人の担当者がいたので、2人で相談して「やってしまえ」と。

稲継 「やってしまえ」ですか。(笑)

北川 「やってしまえ」って感じですね。(笑)

稲継 ちっちゃく見えるけど、かなり大きな変化だと思うんですよ。

北川 ステップ・アップだと思います。だから、やっぱり、その当時、僕らは担当者ですから、部長、課長みたいな人たちを説得しなければいけないんですね。

稲継 ですよね。そこが一番大きいですよね。

北川 しかも、その当時、彼らは「パソコンなんて触ったことないよ」、「ネットワークってなんだ」という世界の人たちが結構多かったので、どうしたもんかなと実は悩んでいたんですよ。
  そのときにですね、たまたま有珠山の噴火があったんですよね。それで、有珠山近くの町村に避難所が3つほどできまして、札幌市が応援の職員を派遣してそこの避難所の管理をしていたんですよ。管理人みたいな仕事を。必要な物品を調達したり、薬品を届けたり、あるいは災害情報を届けたりだとか。
 そのときに、僕とそのIT部門の担当者が「これだ」と直感しました。「この緊急時に、遠く離れた有珠山と札幌とを瞬時につないで、しかも3か所の避難所の情報を共有して、必要なものをリアルタイムで届けるには、この電子会議室のシステムしかありませんよ。だから、ここで使いましょう」といって、デビューが決まったんですよ。あれがなかったら、もしかしたら生まれていなかったかもしれない。

稲継 その有珠山に、これ使いましょうということで、上の人もはんこを押してくれたんですか。

北川 そうです。

稲継 普通は、躊躇しますよね。そんなのやって大丈夫なのかとかなんとか。局長さんとか部長さんとか、いっぱい、なんか二の足を踏みそうですけれども。

北川 それで有珠山で使ってみて莫大な効果があったわけですよ。当然ですけれども。
  「今、自転車が欲しい」だとか言ったら、すぐ、放置自転車の部門に行って、「廃棄処分のものを何台かください」って言ってもらってきて、バスを借りて持って行ったりだとか。そういうことをリアルタイムでしていて、それで、このツールは使えますねとなった。
 しかも、避難所応援業務で、毎週、10人単位で職員を1週間ずつ派遣していたんです。それで、延べ百何十人の職員が、電子会議室を実際に使ったわけですよ。彼らは、いわばモニターですよね。
 だから、もう、下地もできちゃった。使い勝手だとかそういうことに関して、あるいは運用のルールみたいな下地ができちゃったので。それで、実績もあります。モニターもいます。いつでもセットアップOKですという形になったので、スムーズに利用できた。

稲継 北川さんにとっては、これは、制度面におられたけれども、IT関係に携わることになったきっかけでもあるわけですね。 その後、平成14(2002)年に今度は異動されますよね。これがCRMの関係ということでしょうか。

北川 そうですね。

稲継 この辺のいきさつをちょっと教えていただければと思います。


 動物園の飼育員さんたちのブログは読んでいて本当に面白い。彼らが本当に自分の担当する動物を愛しているのだということがひしひしと伝わってくる。上にあげた、「日本経済を斬る」などは、テレビで偉そうな講釈をしているコメンテーターにも是非読んでもらいたいものである。
 飼育員さんたちのモチベーションは飛躍的に向上してきているとともに、飼育員さんたちが担当している動物を「市民の動物」であると再認識する意味も込めて、「アニマルファミリー制度」を作る。里親制度の動物園バージョンであるが、これは、ファミリーとなった市民の意識を変えること、環境教育・情操教育になるとともに、市民みずからが広報マンになってもらうという効果をももたらすことになった。ここでCRMという用語が出てくる。
 この発想は、北川さんがIT担当をしておられた頃に、キー概念となっていたものだった。市役所に入庁して、区役所で老人クラブの担当などをし、福祉部の経理担当を経験したあと、北川さんは行政改革を担当することとなる。ここで市役所全体を見渡す機会を得て鳥瞰図を把握すると同時に、さまざまな仕掛けを考える。お役所仕事の世界では先を行きすぎていた感のあるシステムも有珠山の噴火があったことによって日の目を見ることになった。
 そしていよいよCRMの担当となり、自治体コールセンターの立ち上げに至る。