メールマガジン
分権時代の自治体職員
第39回2008.06.25
インタビュー:愛知県豊田市東京事務所 伴 幸俊さん(下)
人事課の係長になった伴氏は、人事考課制度の導入、部下による上司診断、課長昇任試験、係長昇任試験の導入と立て続けに改革を推し進め、また、採用試験改革にも乗り出す。教養試験すら課さない、自己アピール採用試験は、全国的に大きな注目を浴びるとともに、賛否両論が渦巻いた。しかし、伴氏は、改革の手を緩めない。
稲継 この自己アピール採用を始められたのが平成14年、その他にはどのようなことをされましたか。
伴 少し話が遡りますが、職員の自己実現を支援するために、庁内公募制度というのを平成12年度から実施しました。やはり職員も何の基準で異動させられているんだろうという不満は抱えていると思いますので、自分のやりたい仕事で意欲を持って働いてもらうという制度をつくりました。これには、人事課が募集して特定のプロジェクトなどに申し込むという一般的な庁内公募制度もありますが、もう1パターンつくりまして、全課を対象に希望先の所属長に異動前に面接をしてもらうようにしました。例えば、私が財政課に異動したいという希望があれば、財政課長さんと面接をするんですね。財政課長さんは私と面接をした結果を判定し、今の自分の組織(財政課)に、この職員がいるかどうかを人事課に報告します。人事課はその意見を最大限尊重して全体のローテーションをかけていくというやり方をしました。
稲継 これは庁内公募というよりも、自己アピールというか、FAみたいなものですね。
伴幸俊さん
伴 ええ、この方式は、ジョブリクエスト制度と呼んでいました。これはもちろん、異動したいという個々の職員の自己実現もあるんですけど、異動について、所属長が人事課任せではなくて組織をマネジメントしていってほしいという思いもあったんです。少なくとも、自分の課にどんな人材が必要で、どう運営していくんだという意識を持ってもらいたいということです。このように人事制度全般を庁内分権ということで、人事権をできるだけ部局の方へ降ろしていこうという取り組みも平成12、13年度あたりからやり出しています。
庁内分権は、各部長や課長にできるだけ人事権を渡していこうということですが、具体的に言えば、例えば人員については、各部局に対して総数を内示して、その中であとは部長さん以下で課の人数を調整してもらっています。また、臨時職員については、機動的臨時職員予算と呼んでいましたが、人事課が統括して各課の要望に基づいて配置するというやり方をしていたんですが、これも部局の方に予算を与えて、必要な時期に必要な臨時職員を雇用してくださいというやり方を始めました。
稲継 予算関係では、包括予算とか最近よく聞くんですけど、人事面でそういう包括的なものは珍しいですよね。
伴 これも組織のマネジメント体質を確立していく上では、部門の長が一定のマネジメントをしていく方がスムーズと思ったからです。やはり市民のニーズを最前線の現場で見て知っているのは部門の人たちであり、人や金をどう使うかという権限を与えていくことは必要だと考えたわけですね。
稲継 平成10年に人事係長になられてから、人事考課制度の導入、部下による上司診断、昇任試験(課長級、係長級)、自己アピール採用、庁内公募制、ジョブリクエスト、庁内分権と様々なことをわずか数年の間に立て続けにやってこられましたね。疲れませんでしたか。
伴 確かに疲れましたけど、ただ、人事課の仕事というのは、組織が動いているという実感が成果であり、やり甲斐であると思います。今、考えると結構楽しく仕事させてもらえたと思いますね。
稲継 なるほど。自治体の方とお話をしていると、何年がかりでこの制度を変えたんですよ、大変でした、ということをよく聞きます。それは一つ一つ大変な努力をして改革をしてこられたということは私もハートで理解できます。
ところが、豊田市さんの場合には、伴さんが在籍されたわずか数年の間にいくつもの、二桁に乗るくらいのいろいろな改革をやられたということです。これは驚くべき改革のスピードですね。
伴 人事課の中は大変だったと思います。私の部下は人使いが荒い係長だと思っていたんじゃないですかね。この一連の改革は、すべてを自分がやってきたわけではなく、制度改正の方向性や実施内容・時期などは考えましたが、個々の制度設計については、部下にも投げかけたりしました。豊田市は人事担当者と研修担当者は同じグループでしたので、人事係長であるにもかかわらず、研修担当の職員に対し指示を出していました。給与担当も巻き込みましたが、人事・研修担当総がかりの改革だったと思います。
稲継 人事課でいろいろな改革に取り組まれた後、どちらの所属になられましたか。
伴 平成15年度からは秘書課へ異動になりまして、4年間在籍しました。初めの3年間は、市長秘書、いわゆる市長のカバン持ちをやっていました。
稲継 具体的にはどういうことをするんですか。
伴 秘書ですので、市長が外へ出る時はすべて随行しますし、スケジュール調整や庁内外の連絡調整など、市長の動きに合わせて全てが動くというのが、市長秘書の仕事ですね。
稲継 市長というのは、365日ほぼ働いておられるようなそういう仕事だと思います。日曜日も行事があったりして、それにもお付き合いするわけですか。
伴 そうですね。行事は土日も多いですね。ですから市長秘書をやっていた3年間は、年休が1日も取れませんでした。ただ、月に2回、土日だけは随行を代わってくれましたので、これが唯一の休息でしたね。休日は何と素敵なものだろうと改めて思いました。でも市長の動きを見れば、それは申し訳ない話で、市長はほぼ毎日動いていますからね。市長に代わりはないものですから、やはりそれを思うと市長という職業はやれるものじゃないなと思いますね。近くにいればいるほど大変だと思いました。
稲継 秘書課の時に市長秘書として働いておられた頃に心がけておられたこととかありますか。
伴 今まで、財政、人事という内部管理の仕事が多かったものですから、秘書課に異動になった時に当時の秘書課の上司から、「180度仕事違うからね。」という言い方をされたんです。基本的に人と人とのお付き合いであり、人的ネットワークを構築していくということが大切な職場ですから、人事課の時は難しい顔をしていたとよく言われましたが、非常ににこやかな顔で仕事をするようになったらしいですよ。
稲継 今はお上手になったということですね。
伴 鏡に向かって笑顔を作る練習をしたことがありましたからね。なかなかできないんですけど、よく人に冷やかされて、「目が笑ってないよ」とか... そういうこともありましたね。
稲継 財政、人事とは180度違う仕事ですよね。市長秘書を3年やられて、あと1年秘書課におられるわけですね。
伴 随行は離れましたけど、同じく秘書的な業務が続いていました。
稲継 そして、平成19年にまた異動されるわけですね。
伴 はい。19年4月から、東京事務所の所長になりました。
稲継 東京事務所というのは、そもそも豊田市は昔から置いておられたんでしょうか。
伴 豊田市が東京事務所を出したのは、平成17年4月ですので、まだ本当に日の浅い事務所ですね。
稲継 どういう目的で東京事務所を出されたんでしょうか。
伴 東京事務所というのは現在、全国の都市では60市くらいが東京事務所を出していると思います。中核市は、35市のうち19市が出していまして、首都圏での情報収集や情報発信といった業務をしています。豊田市について言えば、平成17年度というのは、合併により新しい都市にステップアップした年でもありますし、また中核市市長会の会長に豊田市長が就任したこともありまして、東京に前線基地を置いたということです。
稲継 具体的に東京事務所はどういう活動をやっておられるんでしょうか。
伴 日々外に出て、動き回っていることが多いんですが、中央官庁、国会議員その他企業、マスコミなどをフェィスtoフェィスで回って、いろいろな情報を得てくる。あるいは、こちらから豊田市の施策をPRするということもしています。一般的には、東京事務所の中心になっている業務というのは、観光の振興であったり、産業の誘致であったりという東京事務所が多いんですが、豊田市にある香嵐渓という紅葉の名所も、まだ全国的な観光名所とまではいっていませんし、企業誘致をするにしても、産業用地が足りないくらいの状況があったりして、なかなか他の東京事務所とは活動の温度差がありますね。でも、東京の情報をいち早く得て、モデル都市とか何か豊田市の新しい施策が展開でないかという思いで活動しています。
現在は全国的に東京事務所というのは、行革で「まな板の上の鯉」状態だと思うんですね。つまり、多くの自治体では経費削減を進める時に東京事務所を廃止するという発想が多く、19年度末だけでも、私の聞いているだけで3市が撤退すると聞いています(インタビューは平成20年1月に実施)。そういう状況ですので、分権型社会への移行や情報通信の発達した時代に、なぜ東京事務所がいるのかということを今一度心すべき時期だと思っています。
稲継 確かに人によっては、インターネットで情報などは自由に入ってくるじゃないかとおっしゃるかもしれないけど、やはりフェィスtoフェィスでしか手に入らない情報もあるし、逆にシティセールスをするには相対して相手にセールスしていかねばならないという面もあるんで東京事務所という機能は非常に重要かなと思っているんですけどね。
さて、長時間、伴さんに今までの経歴と、特に人事課当時に取り組まれた改革についてお話をお伺いしてきたわけですけど、最後に「人事」というものを総括する形で何かコメントをいただけたらと思います。
伴 人事改革はどこの自治体でも大きな課題になっているんだろうと思います。また、終わりのないものですし、日々メンテナンスしていかないと、すぐに陳腐化していくと思います。人事改革の手法を人事戦略というふうに呼ぶことがあると思いますが、個々の職員の処遇にこだわり過ぎず、この戦略で組織をまとめあげて、最高のサービスを市民に提供する体制を作り上げることが大切だと思います。そして、現在の組織の命題を十分把握する中で、それを解決して行く独自の戦略を持つことが必要だと思うんです。
これは余談ですけれど、昨年、松山市へ行く機会がありまして、今、松山市は司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説をキーワードにまちを再生しているところなんですが、私はまだ読んだことがなかったものですから、松山市の東京事務所の方に本を借りて読んだんです。その登場人物の中に、秋山兄弟の弟さんの真之という人がいるんですが、この人は日露戦争の時にバルチック艦隊を破った東郷平八郎の作戦参謀だったんですが、その司馬遼太郎の本の中に、こういう言葉が出てきます。「兵理というのは、自ら会得すべきもので、筆舌をもって先人や先輩から教わるものではない」ということを秋山真之は海軍大学校で講義したと言っているんです。真之は、バルチック艦隊を破った時に彼独自の発想でどの国の戦術書にもない戦略を立て、日本を勝利に導いたと言われています。人事も戦略だと言うのであれば、他市の人事制度をマネして人事制度を組み立てるという発想を持つんではなくて、自らが自治体の状況を見ながら、本当に必要と思われる制度改革を行うということが大切なことじゃないかなと思います。
改革となると、現実にはいろいろ抵抗勢力もあるでしょうし、どこの自治体もなかなかご苦労されると思うんですけど、本当に必要な改革をまず一歩踏み出してやるということが大切だと思っています。トータル人事システムをまとめたのは平成14年12月ですから、はじめからきちっと設計されていたシステムではなく、歩きながら改革し、まとめ上げたシステムなんです。
稲継 考えながら、進みながら、改革をしながらということですね。
伴 そうですね。ですから、まず必要と思われるところ、やれると思われるところから改革をしてきたわけなんですけど、一歩踏み出して、何かをやってみるというのは、改革する時には非常に大切なことかなと思いますね。歩きながら一歩ずつ改革していくということも必要なのではないでしょうか。
稲継 なるほど。今歩きながらとおっしゃいましたが、この歩みを見ると、走りながら考えていたような、それほどのスピード感を感じますね。
本日は豊田市の伴さんにお話をお伺いいたしました。どうもありがとうございました。
伴 どうもありがとうございました。
先日、伴氏を含む、数名の自治体(別の所属)のメンバーと飲みにいく機会があった。いつの間にか、伴氏と某自治体の若い職員との間で、激論が始まっていた。人事や人の育て方に関する本質的な課題についてであった。伴氏は、相手が自分より若くても年配でも関係なく、対等の立場で意見を交換しあう。その姿勢には大変好感が持てる。自由闊達な意見の交換の中で、よりよいアイデアが生まれてくるのだろう。
改革の必要性を語る伴氏の鋭い目線は、数歩先を常にみている。やる気に満ち溢れた、分権時代の自治体職員がここにも一人確かにいる。