メールマガジン

第37回2008.04.23

インタビュー:愛知県豊田市東京事務所 伴 幸俊さん(上)

 豊田市は、「トータル人事システム」の開発など、自治体の人事システム改革については、最近、常にフロントランナーを走っており、全国の自治体からの視察も相次いでいる。豊田市の人事改革をそのまま、そっくりコピーする自治体すら出てきている状況である。
 公的部門の人事システムに関して、今や最先進地の一つになった豊田市であるが、10年前は、他の自治体同様、典型的な旧来型の人事システムをとっていた。
 その状態に大きなメスを入れ、現在の形の礎を築いた一人の職員がいる。当時は人事課の係長だった伴幸俊氏は、次々と改革を進め、豊田市の人事制度に大きな変革をもたらすことになる。
 今回から3回にわたり、豊田市のトータル人事システムの礎を築いた、伴氏から話を伺うこととする。


稲継 本日は、豊田市東京事務所にお邪魔しまして、伴幸俊さんにお話をお伺いすることにいたします。メルマガ読者皆さんもよくご存知のことと思いますが、伴さんは豊田市のトータル人事システム改革の火付け役です。人事課勤務の後、秘書課を経て現在、東京事務所長をしておられます。本日は、伴さんに人事課当時の改革の話などを中心にお話をお聞きしたいと思います。
 伴さん、どうぞよろしくお願いいたします。

 こちらこそよろしくお願いいたします。

稲継 まず、伴さんが豊田市役所に入庁されてから、現在までの簡単な経歴をご紹介いただけたらと思います。

 はい、わかりました。私は、昭和57年に豊田市役所に入り、最初に配属されましたのが、福祉課でした。仕事の内容は主に高齢者福祉で、この課に新規採用後、8年間在職しました。
 最近、豊田市では人事の仕組みとして、若い頃にいろいろな業務を経験させるためのジョブローテーションシステムを作りましたが、今振り返ってみると、私の場合、この8年間でジョブローテーションしていたなあと思うんですよ。8年間のうちの前・中・後期と分けると、入庁してすぐの前期2~3年は、窓口で寝たきりのお年寄りを抱えている家庭の相談にのったり、一人暮らしのお年寄りを訪問したりして、在宅福祉の最前線の仕事を担当していたものですから、直に市民の方と話せるような仕事をしていました。

稲継 直接接する仕事を前期はやっていたということですね。

 そうです。窓口系ですね。その当時の係は5人でしたが、現在に比べかなり幅広い分野を担当していたと思います。そして、数年で担当を変えていて、次に携わったのが事業系の仕事でした。

稲継 福祉の事業系というのは、どのようなお仕事ですか。

 例えば、福祉のイベント開催とか、福祉施設の建設や管理などで、用地買収もやりました。

稲継 福祉で用地買収ですか。

画像:伴幸俊さんの写真
伴幸俊さん

 はい、実際には土地開発公社からの買戻しなので、用地交渉まではしていないんですが、用地の選定や利用方法などは福祉課で担当しました。また、福祉は細かい補助金制度が多く、この申請や実績報告、社会福祉協議会など関係団体との連絡調整など事業畑の職員が行う仕事というのを中期の頃に経験させていただいたんですね。
 窓口系、事業系を経験し、最後は企画・管理系の仕事なんですけど、その当時、自治体の課題として高齢化対策が全国的に課題となりだしました。その頃、豊田市は高齢化率の低い、若者の多いまちだったんですが、将来を展望した時に必ず高齢化社会が到来しますので、全市あげて高齢化社会対策基本構想をつくろうという動きがあり、その仕事に携わっていました。市民アンケート調査から始まって、コンサルタントを活用し基本構想をつくり、審議会や委員会を運営するという、企画的な仕事を最後の時期にさせてもらいました。
 ジョブローテーションとは、多くの仕事を経験するため課を異動するのが基本的な考えなんでしょうけど、課の中で実際どんな仕事に携わったかが大切であって、一つの課でも窓口をやっていたり、事業をやっていたり、管理的な仕事をやっていたりしますので、仕事の内容できめ細かくジョブローテーションを考えていかないといけないと思います。現在、豊田市のやっているジョブローテーションは、自己申告書の中に経験した課の名前とどんな仕事をしてきたんだということ考えて、35歳くらいまでに窓口・事業・企画・管理といった経験をしてもらおうとしています。現在はシステム的に運用していますが、当時はそんな制度もなかったですし、私は偶然ジョブローテーションできたのかなと思いますね。

稲継 同じ福祉課の中でも180度違う仕事をやっておられたわけですね。
 福祉課の次は、どちらの課へ行かれたんですか。

 平成2年度から財政課に異動になりました。私にとって財政課は、自治体運営の基本的な知識の吸収の場で、非常に勉強になった時期だと思います。担当者がそれぞれ部局を分担し、予算編成や執行管理を行い、しかも1~2年でローテーションしていきますので、市のいろいろな部局の予算上の薄く広い情報が分かります。また、市全体の財政運営においても、予算・決算・起債・交付税・基金管理と、一通り経験させてもらえたので、財政の仕組みについては、浅く広く勉強させてもらえた時期だったと思います。

稲継 予算編成や決算をされる担当を平成8年3月までやっておられた。

 そうですね。6年間やっていました。財政課ではこうした知識も大切ですが、広く庁内の人と知り合えたことは、後の財産になっていると思います。

稲継 それで、その後人事課へ異動されたわけですね。

 そうです。人事課は平成8年4月から平成15年3月までの7年間いたわけですけど、はじめの1年は、人事課と言っても行政管理のような係がありまして、そこに1年だけいました。そこでは、豊田市は、4年に1度公共料金の一斉改定を行うのですが、その全庁的な調整をしたり、職員提案制度の取りまとめをやったりと、事務的な全庁管理の仕事を1年やっていました。

稲継 人事課というよりも、どちらかというと行政管理課のような仕事ですね。

 そうですね。この業務の中には、後にお話しする人事考課制度とリンクさせた組織目標の設定会議の運営なども担当しました。

稲継 それを1年やっておられた。

 いわゆる人事というのは平成9年度からです。人事係へ課内異動がありました。はじめの1年は担当職員で主に職員採用を担当していました。そういったルーチンワークをこなして人事全体の仕事のやり方を覚えた1年だったと思います。2年目からは人事担当の係長になり、このあたりから一連の人事システム改革に携わっていったという感じですね。

稲継  平成10年度くらいからですね。

 そうですね。

稲継 私が、いろいろな文献とか、あるいは、いろいろな自治体の方から「豊田市はすごいことを始めたよ」ということを聞きだしたのが、平成12年を過ぎた頃からですので、その頃は既に人事係長になられて何年かすぎた頃なんですね。今となっては伝説となっている豊田市の人事制度改革なんですけど、改革するということになったきっかけ、あるいは、原動力というようなものがありましたら教えていただけますか。

画像:インタビュー風景

 まず、その当時の自治体の人事制度を取り巻く状況なんですけど、これはご承知のとおり、平成9年に旧自治省から人材育成基本方針をつくりなさいという指針が出たと思うんですね。その頃から自治体自らが人事制度をなんとかしなければいけない、また、人材をどう育成していくべきかを真剣に考え出してきた時期かと思います。私も長く人事の仕事をしていて、いろいろな自治体の人事担当の方とお話するようになって感じたのは、その当時、国家公務員に不祥事があって、それを契機に地方にも公務員改革の必要性が叫ばれるようになってきたと記憶しています。
 実際の自治体の人事担当者は、本音で言えば、「人事課にも余剰人員はないし、日々のルーチンで仕事はいっぱいだ。予算もない。時間が取れない。」「そういった中で、なぜ国の動きに合わせ、またこんな改革をしなければいけないんだろう」と思っている方がたくさんいただろうと思うんです。私もそういう感覚を持っていた時期もありました。
 ただ、そういう時期の中で豊田市は平成10年4月に中核市に移行し、都市としては何か脱皮をして、新しい都市になるんだという雰囲気が全庁の中にあったというのが一つあります。また、豊田市は財政事情が他の市と比べるといいわけですけれど、バブル崩壊後はかなり財政調整基金を取り崩すなど、厳しい財政運営をしてきました。ただ、平成10年前後には持ち直しておりまして、潤沢な法人税をいかに市民に還元していくかという組織の命題はあったと思うんですね。

稲継 組織の命題ですか。

 そうです。それを職員がどううまく使っていけるかということを考えた時に、やはり組織がチャレンジングな風土になっていかないとダメだと感じていました。ですから、これからお話する人事システム改革というのは、一定の組織目標に向かって組織の状態を最適にすることが最終目的だと思っていますので、そうした時に組織の風土だとか、抱えている命題を的確に捉えていかないと、何のために制度を変えるのかがぶれてしまうと思います。豊田市はこういう状況でしたから、チャレンジングな風土に変えていこうという思いがあったわけです。
 もうひとつ感じていたこともあります。多くの職員からみれば、人事課というのは非常にベールに包まれた隠れた存在だということです。

稲継 人事課というのは、そういうイメージがありますよね。

 言葉は良くないかもしれませんが、「隠匿の信頼」みたいなものがあって、人事課に任しておけば最適な人事をやっていてくれているだろうというベールに包まれた信頼の中に人事課は存在していたように思います。実際、中に入ってみると、こんなことで職員を異動させているんだとか、昇任はこんなふうに決まっているんだと衝撃を受けた覚えがあります。

稲継 衝撃というのは、つまり割といいかげんにやっているというイメージですね。

 私のイメージは、もっとシステマチックにデータを活用し、多くの議論の中から公平な人事が行われているという思いがありましたので、わりと属人的・主観的人事に少し驚きました。
 また、以前から思っていたんですけど、仕事に対する報酬というのは、公務員というのは割と希薄というか、公共のために身を投じるということで入ってきた人たちですので、それはそれでいいのかもしれませんけど、やはり働いただけの報酬はあっていいと思うんですね。福祉課に入った若い頃に感じていたのは、新任の課長さんの基本給よりも定年前のヒラ職員の基本給の方が高かったんです。そういった逆転現象というのは、結構どの自治体にもあって、それはみんなおかしいと思いつつ、仕方がないかなというふうに思って誰もが仕事をしていた。そういうことをなぜだろうと...。課長という職を得て、組織のリーダーとしてやっている人が、庶務的な仕事しかしていない人の給与と逆転現象が起きていていいんだろうかということはずっと思っていたんですね。
 だから昇任や異動の仕組みというのをきっちり作っていかないといけないだろうというふうに感じましたし、今は、予算査定を市民に公開している市があると思いますが、極論すれば、人事でも本当にシステマチックにやれれば、公開で人事の作業をやってもいいような気がします。まあこれは現実には不可能でしょうけど。そのくらい誰がみても人事の昇任・異動作業が納得できるやり方はないかという理想を求めたのかもしれません。

稲継 従来の人事課の考え方からすると、やや衝撃的な発言をお聞きしたように思うんですけど、伴さんにそのように感じさせる何か人とか本とかあったんでしょうか。

 福祉課にいた若い頃、自主研究グループを作って、横浜市の自主研究グループであるまちづくり研究会に参加していた時期があります。そのときグループの顧問をしてみえた田村明先生の話は、今の自分の改革を是とする考え方のスタートだったような気がします。田村氏は地域政策プランナーで法政大学の名誉教授をしてみえますが、以前は、横浜市技監として飛鳥田市長を支えた方です。
 とても気さくで、懇親会のとき、当時若かった私を隣に招き入れ、まちづくりや自治体のあり方など熱心にお話しいただけたことがあります。まだ、協働とか分権がさほど騒がれていない時期に自治体の方向性を教えていただいたように思います。どこを見て仕事をすべきか、型にはまったお役所仕事では進歩がないということ、そして自治体は永遠であり進歩していかなければならないということを教わったような気がします。また、その宴席で「私は地域プランの仕事をしているが、本当は主体的な地域を実現するための自治体組織や人事のことをやってみたかったし、それが最も大切だ。」といわれた言葉は印象的でした。
 その後、よく書店で売っている組織改革のような本は、興味本位で結構読みましたが、そういう本を読むと現状でいいと書いてある本は1冊もなくて、まあ、そうでないと売れないからですけど、そういったところで洗脳されてきたようなところもあるかもしれませんね。

稲継 「人との出会い」と、その後、蓄積された読書の中で培われた自分自身の「内から湧き出てきた」ようなイメージですかね。それが様々な改革を推し進める一つの原動力になった。
 あとで具体的な改革のお話はお聞きしたいと思うんですけど、改革をしていかれるに際して、いろいろな方々がおられますよね。上司もおられますし、組織のトップである市長さんもおられますし、いろいろな方々の反応はどのようなものだったでしょうか。

 平成10年度くらいから行った一連の改革は、豊田市の場合、トップダウンではなくボトムアップだったんですね。従って私と係員が協力して、いろいろな制度設計をし、それをその当時の課長がトップと交渉してもらうというようなやり方をしていました。そういうやり方でしたから、いきなり市長から改革の指示があったわけではないですね。でも、市長も総務部長経験者で人事のことはよく知っていましたし、何か改革したいという感覚は日々の話の中から伝わってきました。
 よく聞く話で、市長が民間出身の方に代わったりすると、人事制度を変えて、市の行革をやりたいんだみたいな指示が出ることがあります。そうすると人事担当の方が困って、豊田市にも何人か視察に来られた方がいるんですけど、そういう人に、私は、「すごくラッキーじゃないですか」と言うんですよ。人事はトップダウンでやる方がスピーディーなんですよね。ボトムアップでやると、内部の抵抗勢力だとか、いろいろなところでつまづくことがあるんですけど、そういう意味でトップがはっきりと意思表示をした場合、やりやすいということは感じていましたね。豊田市にも、はじめの頃は抵抗勢力も多かったように思います。私が抵抗勢力だと感じたのは、内部の旧態的な考え方を持った職員と、これはどの自治体でもそうでしょうけど職員組合でしたね。

稲継 内部の旧態的な考え方というのは、つまり従来の管理職とか非管理職も含めてということですか。

 主に管理職の方が多かったんですけど、「なぜこんな改革をやる必要があるんだ」とか、「給与を査定するなんて、そんなことが納得されるのか」とか、そういうことはよく言われましたね。ただ、何か改革をしなければいけないと自分を励ましながらやっていました。中には、詰め寄られるようなこともあったんですけど、「あなたは数年で定年だから黙っていてくれ。この改革は十年後の豊田市のためにやっているんだ。」と言ったこともあります。まあ、そのくらいの勢いでやっていた時もあったということです。


 次号に続く。