メールマガジン
分権時代の自治体職員
第35回2008.02.27
インタビュー:大阪府高槻市人事室長 西岡博史さん(上)
今月号から2号にわたって、高槻市の人事室長の西岡さんのインタビューを紹介する。
筆者(稲継)自身、西岡さんとは、もう8年近くのつきあいになる。私自身もかかわりを持たせていただいたマッセOSAKAの「分権時代の人材育成研究会」のメンバーの一人として活躍されてきた。筆者と同年代ということもあり、気安く話ができ、飲む機会も多く持ててきたことをありがたく感じている。
出会ったときは人事課の係長さんだった西岡さんは、いつの間にか、人事課長を飛び越して人事室長になっておられた。
西岡さんもまた、前回まで登場していただいた山口市の伊藤さん同様、従来の人事課長・職員課長のタイプとは異なるタイプの人である。
根っからの関西弁で繰り出すねばり強い話し方は、時に人の笑いを誘い、また、時に人の共感を得る。実務の様々な問題点をどう乗り越えるか、国で(勝手に)決めてしまったことに現場でどう対処するか、次から次にアイデアを出して、それを実行に移す、その実行力には脱帽するばかりである。
稲継 本日は高槻市にお邪魔して、人事室長の西岡さんにヒアリングをしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
西岡 よろしくお願いします。
稲継 はじめに、西岡さんの自己紹介、これまでの職務経歴とかを、簡単に教えていただきたいと思います。
西岡 私は、昭和56年3月に大学を卒業しまして、翌4月に高槻市役所に奉職しました。最初の配属先は、福祉事務所の厚生課に勤務しまして、そこで生活保護のケースワーカーとして勤めておりました。10年間ケースワーカーでしたが、次の異動が人事課ということになりますので、市役所に入って26年になるんですが、2つしか経験していないということになります。
稲継 そうですか。入庁されてから、「2つ」ということですね。ではまず、ケースワーカーの頃の話を聞かせてください。
西岡 学生から急に生活保護のケースワーカーとなりまして、我が家も特に裕福ではないですけれど、生活には困らずに大学まで出してもらって、親のスネをかじってきた人間がですね、いきなり、生活困窮者といいますか、いろいろな社会経験、人生経験をしてこられた方と対面して、その方々の生活の指導であったり、いろいろな実地調査をした上で必要なものを決定していくというような仕事をしました。
そのことが社会人になったなというか、社会を教えてもらったというと変ですけど、いろいろな人生経験をお持ちですから、その中で生活の厳しさもそうですし、社会の厳しさというものを教えてもらったという感じがしますね。ですから、今、振り返って10年間の経験でしたが、私としては、振り出しとしては、いい職場に配属されたなと、今にしては思いますね。
当時は、大きな声で怒鳴られることもありましたし、いろいろありましたけど、学生時代とかに経験できないことを仕事上で経験させてもらったということで良かったですね。人との接触、人との折衝という面でも、ある意味自信を持ってできるようになりました。今、人事課にいますが、若い職員、精神的にタフそうな職員には、生活保護という職場は経験した方がいいと思いますね。
また、当時生活保護事務は、保護費の計算や保護決定が手作業、マニュアル作業だったんですが、終わりの2、3年はちょうど、オンラインシステムを構築するということになりまして、その担当者ということで、電算知識のある先輩と私と委託業者の方と1年半ですかね、別の会議室を借り切って開発業務を経験しました。そこでもいい経験をさせてもらいました。民間企業のSEさんが2人来られてまして、あとそれ以外のプログラマーが最大で20名ほどおられたんですけど、当時、代表SEが2人とも私と同じ年だったんですが、やはり顔つきが違うんですね、役所にいる人間とは。
稲継 顔つきが違うというと。
西岡 やはり厳しいですね。その時のプロジェクトリーダーの方は、私どもと契約した金額で、すべて人の采配、事務量から計算して、人をどの時期に投入して行うかというようなことを責任を負わされて来られてるんですね。その中で、生活保護システム構築の委託費用よりも超えるような、当初の予算以上にボリュームのあることをやられて、それで、結果的に赤字を出されたんです。そのことで私どもとの打ち合わせやその会社の上司の方と折衝しておられるのを目の当たりに見ていましたから、それまで役所に入って7、8年しかおりませんでしたが責任の負い方が違うなと。
我々と会議をしましても、当たり前なんですが、結論を必ず出す会議をされます。それも短時間の間に。「今日はこれを決める」という会議の仕方をされていましたし、それとコンピューターシステムを組むわけですから、物事の整理の仕方とか、考え方を論理的に整理区分していき、ものを作っていくというようなことをされていました。役所の仕事というのは、漠然と、まして生活保護のケースワーカーですから、ある意味受け身な仕事ですけど、今問題となっている物事について、どういう整理の仕方をするのか、どういう考え方でやっていくのかを、システムを組むに当たって、現状を分析しなければならないわけですね。そういうことを教えてもらったというか、身についた気がしますね。
稲継 外部の方との長期にわたる接触、一緒に仕事をした経験というのが、その後の仕事のやり方に影響があったというわけですね。
西岡 民間の方が持って来られる資料も、当時まだパソコンが出るか出ないかの時代ですけど、わかりやすい資料を作られたりされていましたので、かなり刺激になりましたね。当時29歳くらいでしたけど。
いい経験をさせてもらった生活保護の10年間でしたね。
稲継 10年間ケースワーカーという仕事をしておられたわけですが、その後、人事課へ移られるわけですね。人事課に移られて16年になられるわけですが、その間、どういう担当をしてこられたんでしょうか。
西岡 平成3年4月に人事課に異動しまして、最初の3年間は、職員の福利厚生に関する事務ですね。健保、共済、互助会、公務災害等の事務を担当しまして、平成6年からは、給与担当、人件費担当、人事制度の担当ということで、一般職の仕事をその当時はしていました。
稲継 一般職の仕事というのは。
西岡 給与の支給処理であったり、人事制度と言いましても、制度の根幹を考えるのではなく、職員宛の通知文の作成であったり、運用面の相談をうけるなどですね。
稲継 人事制度設計というよりも、むしろ定型的な事務をやっておられたというわけですね。
西岡 そうです。それで、平成11年7月に主査、私どもでは係長級の試験がありますので、それに合格して、主査に昇格しまして、平成13年4月に人事係長になりました。主査級と係長級は同じですので、横滑りで役職が変わりました。そして、平成14年4月に課長補佐に昇格しましたが、主査から係長級の時は特に採用試験の担当をやっていまして、より良い人を取りたいという観点から試験制度を改変していた時代ですね。
稲継 それで、平成14年4月に、課長補佐に昇進されるわけですね。ということは係長級は3年弱ですね。
西岡 そうです。その後、平成18年4月に人事課主幹、これは課長級なんですけど、課長補佐を4年やって、それから、平成19年4月に人事室長ということで、これは次長級なので、人事課長を全然していないことになりますね。
稲継 人事課長を飛び越えて、いきなり人事室長に。人事室長というのは、人事課と職員研修所を統括している次長級のポジションということですね。
西岡 そうです。
稲継 じゃ、課長級1年で次長級に上がられた。係長は3年弱で、課長補佐4年で、課長級1年で次長級になられた。係員時代はものすごく長くて、上がり始めるとものすごい勢いになったと。
もちろん、西岡さんの優秀さを買われてのことだとは思いますが、あまりにも急な昇進には、その背景には職員の年齢構成とかもあるんでしょうか。
西岡 はい、本市の特徴なんですけど、昭和40年から50年にかけて、市の人口が約20万人増加しています。
稲継 昭和40年から50年にかけて約20万人の増加。それまでは何人だったんですか。
西岡 現在36万人くらいですから、14万人くらいの市でしたね。
稲継 じゃ、10年間で倍以上になったんですね。
西岡 ですから、単純に考えて年々2万ずつ増えますので、たぶん隣りの島本町さんが3万人くらいですから、毎年一つの町が増えていくことになります。
稲継 それは、大阪都心部のベッドタウンとして、宅地開発が進んでそこへ人がどんどん住み始めたということですね。
西岡 当時の市長さんが、「人口規模=都市のステータス」ということで、府営住宅をかなり誘致されまして、高槻市は市バスがございますので、そういう市民の交通手段がありますよということで、府営住宅を持ってきたと、それにつれてまた住宅も増え、人が増えたと。そのことによって、学校を作らなければならない。道路を整備しなければならない。等々で、職員を当時の府下の中でもかなりの勢いで採用したんですね。
そうこうしているうちに例のオイルショックが起こりまして、昭和51年以降ですかね、採用を抑制して、たぶん昭和51年は採用してないと思うんですね。それから昭和58年までの間ほとんど採用していません。私は昭和56年に採用されたんですけど、当時の事務職で、8、9人でしたね。
稲継 かなり絞ったということですね。先程おっしゃった昭和40年から50年くらいまでは、毎年何人くらいの採用があったんですか。
西岡 一番多い時で、保育士さんとか、全職種入れて300人くらい採っていましたね。
稲継 1年に300人採用していた。それが1年に9人になってしまった。
西岡 すごいことですね。そのことが今、先程の私の昇格の話にもありましたけど、いわゆる上にかなり分厚い層がありまして、下が細くなっています。そして近年団塊の世代の退職が始まり、以前に比べて採用数が増えていますので、職員構成は瓢箪みたいな形になっていますね。そういうこともあって、これは組織の課題ですけど、いわゆる団塊の世代の部長さんや管理職に就かれている方が、ここ数年で退職していき、それに対して、組織の管理体制も含めて、いろいろな事務の継承も含めて、どうやっていくのかと。特にその下の我々の世代は少ないので、例えば、今年だけでも、部長さん10名、次長さん17名、課長さん15名の合計42名が退職されるんですけど、それを受けるだけの数がない状態です。
稲継 ポジションに見合う人材が十分にいないと。
西岡 年齢的にもふさわしいといいますか、それなりの経験をしている職員がかなり少ないということもあってですね、自分自身が次長級に上がっているのも一つの現れだと思っています。たぶんこれからそういう人事施策になるよという一種の象徴的にやられている部分もあるんじゃないかと(笑)。若い層に管理職をやってもらわなければならない時代だということの現れだと思いますね。
ちなみに平成19年4月時点で職員は2,486名いるんですけど、50歳以上の職員が1,212名です。48.7%ですね。その内の管理職、私どもの管理職は係長級以上なんですが583名が管理職なんですけど、管理職全体が783名ですので、74.4%が50歳以上です。特に幹部職員となりますと、課長級以上は、ここ3年で全部で139名がお辞めになります。部長級で言いますと、平成19年4月で35名おられるんですが、3年間で28名がお辞めになると。
稲継 35名中28名がいなくなると。そしてそれを補充しなければならない。
西岡 そうですね。
稲継 補充するはずの部次長級もどんどん辞めていかれると。そして、部次長級に補充するはずの課長級もどんどん辞めていかれると。どうすればいいんですかね。
西岡 そこなんですね。もちろん、組織自体が今までの組織のままでどこまでいいのかということもあるんですけど、ポストや機構の縮小は一定避けられない。逆に言えば、ある課長さん、ある次長さんは広い範囲を見なければならないだろうと。そして、若手職員を引き上げていく。少し促成栽培的なところもあるかもしれませんけど、人材育成を急いで、そういう職に就けていくこと。同時に、先程も言いましたが、年齢構成が歪でしたので、それを埋めるために、ここ5年間で社会人採用を管理職も含めてやっています。そういったもので年齢等も含めて、経験を活用するなどというようなことを行いながら、組織体制を市民生活に影響を与えないように、維持していかなければならないのが、ここ3~4年の一番大きな課題かなと思っています。
稲継 かなり、管理職の総入れ替えがここ3年ないし4年に起こるということは、ある意味正念場ですね。
西岡 本当に正念場です。その間、お辞めになる方にも、再任用制度がございますから、再任用である程度残っていただけるものと思っています。ラインには就けにくいですけど、スタッフ的に横についてもらって、若手の管理職のサポートをやってもらおうと。例えば、議会の議員さんを回るについても、やはり、フェイスtoフェイスでありますから、議員さんとの関係や市民団体なども含めて、そういう時のサポート役で入ってもらうなりしながら若手の管理職が育っていくような作りをしていかなければならないと思っています。
稲継 実際に管理職に若手を育成していくという非常に大きな課題があるわけですけど、具体的にどのように育成していくことが大事だと思いますか。
西岡 やはり、仕事をどれだけ経験させられるのかということだと思いますね。仕事の中で積んでいくものが力になるだろうということで、平成12、13年の採用の頃からできるだけ10年間に3つの部署を経験させるという方針でやってきたんですね。私どもの市は30歳くらいで係長級の昇任試験が受けられますので、係長級の試験を受けるまでには、ジョブローテーションの中でなんらかの経験をいろいろしていると。管理部門であったり、事業部門であったり、窓口部門などを経験した上で昇任していくということを目指して人事異動も含めてやってきました。その中で今度は、上がった時に、いわゆる管理職になりましたら部下指導もありますけど、対外的な仕事、対議会、対団体がありますので、やはりそういう場に行って、実際に説明をしたり、聴いたりということをしていかない限り、育成できないと思っています。理屈の世界ではないですから。昨年の人事異動もそうなんですけど、まだ課長さんがいるところでも、来年、あるいはその次に退職することになりますので、若い職員を課長級に上げて、本来主幹という形では必要ないんでしょうけど、主幹という形に上げて、一緒に行動してもらうということを目指して人事異動を行いました。ですから、場面を経験することによって当然能力が開発されるだろうというのが一番大きいですね。
稲継 そういう意味では、オン・ザ・ジョブ・トレーニングを管理職についてやっておられる。
西岡 そうですね。
稲継 今おっしゃったように、まさに管理職の仕事の(一部は内部管理的な仕事もありますが)大部分は外部交渉と言いますか、対外的な関係でどれだけ相手の意を汲み、それを体現していくことができるかという調整の仕事が非常に大きいと思います。それはやはり経験しないと身につかないと今おっしゃったように、課長に主幹が一緒について同じように行動され、オン・ザ・ジョブ・トレーニングでやっておられるということですね。
西岡 そういうことを今行っていますね。
それと、大量退職に関する数を申しますと、平成19年度末の定年が128名おられます。平成20年度末が158名、平成21年度末が184名、平成22年度末が139名と、トータル609名がこの4年でお辞めになります。2,486名の609名ですから、4分の1がお辞めになる。ただ、その後どれだけ採用するのかということですが、同じ数だけは当然採れないですし、逆にそんなに一度に採っては、また団塊を作ってしまいます。
団塊の世代の人事対策として昭和63年に、人事問題プロジェクトを立ち上げ、人事課を中心に種々検討しましたが、ポストレスの時代ですから、そのモチベーションを失わせないようなものをやってきた経緯もあり、そういうことを繰り返すことはできませんので、採用を抑制しています。ですから、100名辞められて40~50名くらいしか採らないということですね。
稲継 半分弱しか採用していない。
西岡 そうですね。
稲継 そうすると仕事が回らなくなりますよね。その部分はどのようにされていますか。
西岡 そういうことがありますので、本市では、非常勤職員を平成3年以降徐々に採用してきまして、かなりの数が市全体でご活躍いただいています。交通部のバスの運転手さんとか給食調理員さん、いわゆる現業職というものもすべて含みまして823名です。
稲継 823名の非常勤職員がおられる。
西岡 はい。職員が2,486名ですから、3分の1に相当する数が非常勤職員として市の仕事に携わってもらっているということです。それで特に市民課とか支所の窓口業務であるとか、国保、医療給付の窓口業務をそういった非常勤の方々にやっていただいていて、職員数を抑制しています。市内にお住まいの方がほとんどなんですけど、最近高学歴の時代ですし、会社に勤めておられて、結婚・出産等で退職された女性の方が市内におられ、そういう方が試験を受けて入ってこられますので、高い事務能力、窓口で笑顔で応対できる能力もお持ちです。
次号に続く