メールマガジン

第19回2006.10.25

職員研修―4

3つのこと
 先月号の続きである。
 伊丹敬之・加護野忠男は、よく考えられた研修体系・カリキュラムであれば、「重要な3つの意義のあること」が可能である、と指摘する。それは、研修を受けたらいきなり意思決定能力が開発できてしまう、とか、いきなり課題解決能力が開発できてしまう、などということではなく、もっと微妙でかつ意味のあることである。
 3つのこととは、何だろうか。
 彼らはそれを、抽象的に、「芽が出る」「種をまく」「畑をきれいにする」と表現している。

芽が出る
 まず第1に、研修参加者がすでに持っていた種が、研修によって刺激され、芽を出すことの意義である。彼らはいう。

 研修の参加者は現場での経験からさまざまな能力をもち、意識をもっている。その中には、現場では必ずしも花が開いていないものも多いだろう。そういう潜在的な能力や意識の種を人々は持っている。その、すでにその人が持っていた種から、研修の場での刺激によって芽が出始める、ということはありうる。研修の場での刺激が意義深いものであるなら、であるが。その芽が、実際に仕事に意味のある植物にまで育つかは、研修後の職場の状態で決まるだろう。
 だからといって、この芽が出始めるという効果を過小評価してはならない。現場を離れて研修の刺激を受けなければ芽は出なかったかも知れない。芽が出なければ、花が咲きようがない。

 自治体現場で日々業務を遂行する職員が、すでに「種」を持っていたとしても、研修における刺激がなければ芽が出ない場合がある。
 例えば、現在の仕事の進め方に、何らかの疑問を小さく抱いていたとしよう。しかし日々の業務に追われてばかりで、その抜本的な改善には手をつけられないでいる。そのような時に、業務の改善事例を学びまた考える機会があったとしよう。自らが小さく抱いていた疑問は研修中に少しずつ成長する「モヤモヤ感」となり、その解決策を見いだそうと思考をめぐらすきっかけとなるだろう。研修が終わってからも、そのモヤモヤ感はついてまわり、それを解消しようとさらに疑問がかきまわされる。そしてついには、職場において、改善につながる次のアクションを起こすこともあるだろう。

種を蒔く
 第2に、研修に参加することによって、何らかの種が蒔かれることの意義である。彼らはいう。

 参加者が研修の場で受ける刺激から、あるいは、そこで読み、知り、議論することから、なにかしらの種が彼の中に蒔かれることがある。参加者は自分ではその時は意識もしないかも知れない。その種がその後どこかで突然芽を出すことがある。
 研修で読んだ事例の中に登場したある経営者の面白い経営行動や意思決定を、自分が似たような問題に直面したとき突然思い出す。その事例ではなにが大切だったか、成功あるいは失敗の原因はなにだったか、それが頭に浮かんでくる。その種をもとに、現場で彼は能力開発に乗り出し、あるいは自分の意識を反省したりする。それが現場で芽が出始める、とういことである。そのための種が研修で蒔かれている。

 研修において読んだもの、聞いたことが記憶に刻まれ、それがその後、職場において芽を出すきっかけとなるものである。刺激の強い体験型の研修には、種が蒔かれるチャンスが多いと考えられる。

畑をきれいにする
 第3に、研修に参加することによって、自分の中でごちゃ混ぜになっている職場体験・経験を整理することの意義である。

 研修のプログラムが、参加者の経験に何らかの意味でつながっている場合には、研修の刺激と研修の場での思考によって、自分がそれまで経験してきたことの整理ができて大きなフレームワークの中に位置づけられたり、あるいは自分の経験の中で意味が薄いもの、将来には役立たないものを「薄い」「役立たない」と意識できることがある。そうしたことを「畑をきれいにする」と表現している。つまり、経験の整理をしたり、雑草を抜いたりする機会を研修が与えているのである。
 きれいになった畑には、種がつきやすいし、芽も出やすい。出た芽も育ちやすいだろう。現場主義でのOJT中心の日本の企業にとっては、現場での経験の整理としての「畑をきれいにする」という効果は、研修の効果として意義のとくに大きなものであろう。

 第10号で紹介した、静岡県のCDP(キャリア・デベロップメント・プログラム)は、そのようなものとして位置づけることが可能である。
 また、各自治体で比較的多く取り入れられている階層別研修も、このような位置づけをして、いわゆる振り返りの機会という位置づけを強めれば、一定の効果が期待できるだろう。
 最近の研修の流れとして、階層別研修のスリム化と選択型研修の拡大があげられる。これは、一定の階層への昇任毎に、あるいは、一定の勤続年数ごとに、一斉に受講していたいわゆる階層別研修が、あまり意味がないとの批判に対応しようとしているものである。確かに、係長研修として、法律の各科目を大学の講義と同じように受けさせるカリキュラムでは、上の批判もあながち的はずれではなかろう。
 しかし、普段、日々の業務に追われて、自分自身の経験や知識を振り返る機会がなかった職員に対して、あるまとまった期間、それを振り返る機会を持つことは十分意味がある。それが畑をきれいにする機会としての研修である。
 定評のある、人事管理のテキストも同様のことを指摘する。

 われわれは、職業能力を詰め込むひとつの大きな袋を持っていて、日々経験したことをそのなかに放り込んでいく。働いていると、毎日、いろいろなことにぶつかる。3年から5年経つと、その間蓄えてきた経験で袋がいっぱいになってくる。経験から得られた知識やノウハウは、ゴチャゴチャの状態で袋の中に入っていたのでは、有効に使えない。ちゃんと整理され、関係するものはひとまとめにすることによって、徐々に使いやすくなる。経験を整理し、いつでも引き出せるかたちにまとめ直す作業がOff-JTである。それゆえ、同じようなOff-JTを毎年受けてもあまり効果がない。ある程度、経験がたまった段階で受けるのが理想的である。(佐藤・藤村・八代『新しい人事労務管理』有斐閣アルマ)

 伊丹・加護野は最後に次のように締めくくる。

 こうした3つの意義を生めるような研修のプログラムを立案し実行するのは決してやさしいことではないし、時間とエネルギーの投入を参加者がしなければそうした効果も生まれない。とくに、参加者が考えさせられなければ、こうした効果は期待できないだろう。
 しかし、もしそれが可能だとしたら、こうした効果が企業の能力開発や意識変革に持つ意味は大きい。芽が出るだけでも大変なものである。種が蒔かれ、畑がきれいになることの長期的影響も大きい。それは「3つの効果しかない」と表現すべきことではないだろう。

 「参加者が考えさせられなければ、こうした効果は期待できない」と書かれているところを強調しておきたい。考えることを強いる研修が、重要な研修だと思う。

お薦めの参考文献:伊丹敬之・加護野忠男『ゼミナール経営学入門』日本経済新聞社。