メールマガジン
分権時代の自治体職員
第143回2017.02.22
インタビュー:中野区地域包括ケア推進担当 副参事 酒井 直人さん(下)
自治体の枠を超えた職員のネットワークの一つNASは中野区職員の自主勉強会から発展して、いまでは多くの自治体職員、市民を巻き込んだネットワークになっている。その仕掛け人である酒井さんは中野区に就職してすぐに区議会事務局における事務カイゼンを進めた。中野区のおもてなし改善運動などにも参加し、その後、全国レベルのカイゼンサミットにもつながっていく源流がそこにあった。2つ目の職場は総務課で、文書管理システムの導入にコミットすることになる。自治体の文書ルールをどう改善していくのか。
酒井 当時、文書管理システムというものは日本の自治体の中ではほとんど入っていなかったものだったのですが、中野区としてはかなり早い時期から検討を始めました。紙の文書を電子化するだけではなくて、今までの文書事務を大きく見直すということで事務改善に携われると思い、私は、志願して担当になりました。自治体の文書のルールはガチガチに決まっていて、新人のときから上司に結構うるさく指導されるじゃないですか。文書事務をちゃんとするのももちろん必要なのですけども、このルールは要らないのではないかとか、何人も決裁しているけど本当に要るのかとか、無駄と思われるルールがいっぱいあったので、そういったルールを一つ一つ検証するというところから取り組みました。先ほど議会のときに効率化で仕事が楽しくなったと申しましたが、それと同じで、まさに文書管理システムを入れることによる効率化で、仕事を大きく変えることができたということですね。私の中では、この経験は現在までの役所の仕事の原点という感じでしたね。
稲継 その文書管理システムを入れていく中で、ぶつかった壁とかはありますか。
酒井 各部署から総スカン食らいました。後ろから石投げられるような感じで。ちょうど2ちゃんねるのインターネットの掲示板が流行っていた時期で、私も当時実名で結構悪口書かれて、本当に辛かったですね。でもそれだけ反応があって、皆さんに注目していただいているということなので、「きちんと文書管理システムを入れて、軌道に乗れば絶対仕事は楽になるし、皆さんの仕事が今までよりも楽になりますから」って、ずっと言い続けていました。その文書管理システムを導入して10年以上経過した今も何不自由なく使っているのですけども、当時はものすごく反発がありましたね。
稲継 やっぱり変わることに対する抵抗っていうのは必ずありますよね。
酒井 そうですね。
稲継 最初に議会事務局で改善に目覚めたとおっしゃったのですけど、何か改善したいという気持ちは常にあるということですね。
酒井 そうですね。
稲継 そこに3年おられて、このときに法規担当もやっておられますね。
酒井 そうです。そのときに訴訟担当とかやっていますね。
稲継 それはもう自分の得意分野ということですかね。
酒井 そうですね。もともと司法試験の勉強をやっていたので、例規文とかは強い方だったと思います。やっぱり法規の世界って文言に非常にうるさいじゃないですか。そこのところで、当時しっかり基礎をたたき込まれたということは大きかったですよね。そこに2年間いたわけですが、正確に言うと訴訟をやったり、条例案をつくったり、例規検索システムを導入したりという法規担当を2年間、そして3年目に文書管理システムを入れるから法規担当から1人出しなさいということになり、私が手を挙げてそこに行ったということで、1年間文書管理システムをやりました。
稲継 なるほど。トータル3年間総務課で仕事をされたと。そして次に動かれたところが、どちらですか。
酒井 次が、財務会計システムです。文書管理システムを入れるときに、中野区としては、本当は財務会計システムを先に入れた方がいいという議論もあったのですけども、財務会計システムがいわゆる会計室とか、経理や監査だとか、いろんな部署が多岐にわたって関わるので、導入の検討がなかなか進まなかったのですよ。そのときに財務会計システムを検討するグループといろいろ意見交換をしたのですが、これはなかなか進まないだろうなと思ったのです。文書管理システムは1年で入ったので、「じゃあ私、次そこに行きます」と言いました(笑)。
稲継 (笑)手を挙げて。
酒井 ええ。部長、課長に相談して、動かしてもらいました。だから、財務会計システムに乗り込んでいったという感じですね。びっくりしていましたよ、財務会計の人達。「あいつ来たのか」みたいな感じで(笑)。
稲継 その人たちにとっては、ある意味、招かれざる客だったかもしれないですけども、区全体のことを考えると非常に大事な仕事をやられたと思うのです。財務会計システムを導入する過程での、ぶつかった壁というのもありましたら。
酒井 これも本当に文書管理のとき以上にありましたね。なるべく紙を電子にしていくというのがこのシステム導入の趣旨なのですけど、会計室がやっぱり、「紙じゃないと審査なんかできません」とか、「紙じゃないと見づらいです」とか、変えられない理由ばかり言うわけですよ。でもそこで譲って、会計室の仕様で全部やったら、システムを入れる意味はほとんどないですからね。だから我々としては、どこまでは電子化できるけれど、どこまでは紙だよね、ということを議論、交渉しながら、少しずつやっていったのですね。それが本当に大変で。もう時効だと思うので言いますが、当時の会計室の人に、「おまえはそんなに電子化、電子化って言うけど、じゃあやってみろ。私たちがどんなに大変な仕事やっているか、やってみなさい」って言われて、1日会計室に行って、審査をやらされたのですよ。私はそのときヒラだったから、「お前の次は係長が来い。二人で2日間来い。」と言われまして、私が1日目に行って、一つずつ審査が回ってくるのをチェックする仕事なのですが、どこをチェックするのかとか、教えてもらいながらだったのですけど、そんなに言うほど大変ではなかったのですよね。「これ、できるんじゃないの」とか思いながら。でもそんなことを言ったら怒られちゃうので、「皆さん、大変な仕事していますよね。なんとなく分かりました。でも大変だけども、何とか電子化できる部分をお互い話し合っていきましょう。」と話して帰ってきたら、会計室の皆さんもなんかちょっと気分が晴れたみたいで、次の日は「もう係長は来なくていい」って言われて、私1人で1日犠牲になっただけだったのですけどね。そんなこともありました。
稲継 なるほど(笑)。
酒井 まあ本当に庁内から色々言われましたけど、文書管理のときよりは、皆さん電子化に慣れていましたので、そんなに職員から攻撃を受けたという感じは、当時はなかったですね。文書管理のときはすごかったです。いろんな職員から言われましたから。
稲継 文書管理システムを入れて、財務会計システムを入れたことによって、中野区の電子決裁率というのは?
酒井 当時、日本一だったと思いますよ。それはベンダーの富士通がそういうことを言っていましたので、当時は電子決裁率日本一だったと思います。ただ、今は山形市が1位と、確かこの前伺いました。
稲継 なるほど。この財務会計システムの担当の情報システム課におられて、そしてこれは入庁10年目になりますか。2006年に広報担当に配属されます。こちらも希望して動かれたのですか。
酒井 これは職員がちょっと体調を崩したとかで、11月17日に異動したのですよ。ちょうど財務会計システムの導入が終わっていまして、暇そうにしていたのを見られていたのですかね(笑)。11月になって急に呼ばれて、「明後日から行ってくれ」みたいな感じで言われて広報に動きました。当時は広報課もホームページのシステムを入れたばかりの頃です。そして、そこの人が体調崩して休んでいたので、人が足りないということだったのですね。で、行ったら、そこの職場が、何ていうのですかね、すごく人間関係が悪くて、職場環境が最悪だったんですよ。
稲継 そうですか。
酒井 そこに私が1人放り込まれて、ホームページ作成システムを入れたばかりだったので、それを軌道に乗せるという仕事を11月から3月までやらせていただいたのですけども、4月になった時点で、私以外の3人の職員全員が異動していなくなっちゃいました。
稲継 そうなのですか。
酒井 4月になったときには私以外全員いなくなってしまったから、11月に来た私1人しか残っていなかった(笑)。すごい状況でしたね。
稲継 広報担当として取り組まれたことというのは、どういうことがありましたか。
酒井 広報としてやらなければいけない仕事というのは、区内の情報を収集し、内外に分かりやすく、効果的、効率的に発信して、区民に理解していただくということだと思っていましたし、一方で、職員にも地元への愛着をもってもらい、同時に広報マインドをもってほしいと思っていました。ですから私が力を入れたのは、発信するために地域に出て精力的に取材をするということと同時に職員向けの職員報、インナー広報ですね。読んでもらい、職員が地元のことを知ってもらうことに力を入れました。私は、職員が中野区のことをもっと知るべきだと思いますし、それこそ中野区検定を全職員が受ければいいと思っています。当時からそういう考えでしたので、当時は珍しかったと思うのですが職員報には結構力を入れましたね。私はお酒が結構好きなので、中野の居酒屋で有名なところはほぼ知っているのですよ。で、職員報で居酒屋特集をやったのですね(笑)。居酒屋特集といっても、居酒屋だけだと単に自分の行っている居酒屋を紹介するだけだと思いましたので、当時少しずつ増えてきた立ち飲み屋の特集をやったのですね。「中野の立ち飲み屋知っていますか?」みたいな特集をやって、毎号立ち飲み屋を1軒ずつ取り上げていって(笑)。これが好評で、廊下で会った人から、「行ってみたよ」とか言われたり(笑)。そんなふうに職員に中野を知ってもらうということに力を入れたのが、広報の4年間ですね。
稲継 ちょうどこの頃、特別区の人事委員会の方でフォーラムがあって、ここにややふくよかな酒井さんの写真があるのですけども。
酒井 出ました、出ました。
稲継 これはどういうきっかけで呼ばれたのですか。
酒井 これは、今は管理職をやっている石橋君というウチの職員が、特別区の人事委員会のフォーラムの担当で、中野区役所で元気な人といったらコイツかな、ということで私を呼んでくれたのですね。で、その中に杉並区の職員で、土田麻紀子という女性がいるでしょう。
稲継 はいはい、いらっしゃいます。
酒井 彼女は私の大学のサークルの後輩で、当時から元気だったのですけど、なんか杉並区の元気な人ということで推薦されて出てきていて、私と会場でばったり会ったのですよ(笑)。元気な人を探していたのですね。
稲継 それはサークルが元気なサークルだったのですか。
酒井 吹奏楽部だったのです。吹奏楽のサークルの後輩だったのですけど。理工学部で活動している団体なのですけど、インカレで、結構他の大学からもいっぱい学生が来ていました。
稲継 そうなのですか。酒井さんは何を吹いておられた?
酒井 私はトロンボーンという楽器ですね。
稲継 すごく難しいやつですね。
酒井 いやいや(笑)。
稲継 そうですか。そういうところに引っ張り出されたりして、いろいろ活躍しておられたと思います。4年間ということでしたから、その次に動かれたのが2010年ですね。これはどちらに動かれたのですか。
酒井 国民健康保険ですね。国保運営担当ということで、全体の庶務係長みたいなものですね。管理職試験に受かりまして、管理職に受かると係長1年と、総括係長1年で、2年間、どこかの部署で経験することになっていまして、それまで行ったことのない大部屋のところにいかせていただきました。当時中野区は国民健康保険料の収納率がすごく悪かったのです。23区中20位とか19位とか、すごく下の方だったのですね。
稲継 そうなのですか。
酒井 私のそのときのミッションが、収納率を上げること、ということで2年間やらせていただいたのですね。このときはもう職員勉強会NASを始めていた頃でして、東京都税事務所の所長だった人で、Yahoo!インターネット公売というのを始めた堀博晴さんという方がいらっしゃるのですが、堀さんがYahoo!に転職した後に、NASの勉強会に講師で来てくれたのですね。堀さんは「収納率が低いのは、まず職員のマインドがおかしいのだ」とか、「払わない人をこれだけ放っておいておかしくないか」とか、「マインドの部分から立て直さないと、徴収率なんて上がるわけがない」とか言うような人で、何人かウチの職員にも聴かせたのですけど、職員がそこで勇気づけられたというか、本当にマインドが変わりました。そこで、「ウチの職員全員に聴かせたいから、もう一度、2回に分けて講義をしてくれ」と言ってお願いしたら、来てくださいました。そのときに税の職員にも国保の職員にも聴かせて、そこで皆さんにマインドを持ってもらったということですね。で、その後に業務の分析をして、どこをどう変えれば収納率が上がっていくのかということをいろいろ分析して、様々な対策に取り組みました。その中の一つが、口座振替の原則化でして、国保って皆さん入れ替わりも激しかったり、すぐいなくなったりするから、保険料を払わなくても捕捉できないのですよ。それはおかしいだろうということで、まず転入手続き、加入手続きをしたときに銀行のキャッシュカードで口座振替の手続きをやってもらおうという話になりまして、規則を変えて、中野区は原則口座振替ですよ、としました。多分全国でも早い方だったと思います。窓口で「皆さんすみません。規則はこうなっていますから、キャッシュカードで手続きをお願いします。」と言って、どんどん口座振替の手続きをしてもらうようにしたのですね。あとはやっぱり徴収の職員が疲弊していたということがありまして、それはチームで動くのではなくて、全部個人に管理が任されていたからなのですね。「あなた、そこの担当をやってください」と言われたら、そこの地域をやるのですけども、他の誰も意見も言わないし、すべて個人に任されていたので、それを全部チーム制というか、進行管理を係長が全部するように流れを変えたのですね。差押え中心主義で職員の年間差し押さえ件数の目標も設定しました。お金の無い人に「1,000円ずつ払ってね」と言うのは分納というのですけど、分納は意味がないじゃないですか。1,000円ずつ払っても、何年かかるんだという話じゃないですか。
稲継 もうずっとかかりますね。
酒井 そういうことはもうやめて、基本的には差押えをしていきましょうということで、職員が件数の目標を立てました。堀さんも言っていたけど、とにかく差押えするのだというマインドでやりました。で、「電話がかかってきたり、窓口にいっぱい人が来るから、忙しくて差し押さえに専念できない」と職員が言うから、窓口委託をしたのですよ。電話と窓口に来る人は全部委託業者にお願いして、差押さえをする専門の人たちをつくったのです。窓口も「待たせてもいいからとにかく窓口は1人しか置かない。1人ずつ応対すればいいから」と言って、番号札の発券機を導入しました。そうして差押えを中心にやっていたら、差押え件数が倍ぐらいになりまして。中野区の収納率といったら本当に下の方だったのが、この前速報値で8位だったのです。本当に感動的に上がったのですね。
稲継 すごい上昇ですね。
酒井 2年間で一応種は蒔いたという感じですかね。私がいたときにはちょっと上がったぐらいで、それほど一気には上がらなかったのですけど、その後、体制が安定してきて、さっきの口座振替の手続きも蓄積がどんどん進んできて、恐らく今の口座振替率は、千代田区に次いで2番目ぐらいだと思うのですよ。4割ぐらいの人はもう口座振替なのですね。引き落としは収納率95%以上と高いので、要は口座振替にしておけば、基本的に払ってもらえると。それを今まで全然やってなかったということですね。今は中野区といったら、真ん中よりはかなり上にいっているという状況です。本当に面白かったですね、その2年間。
稲継 そうですか。いろんな改善をされたのですね。口座振替を原則化したり、いろんなことがありました。先ほどおっしゃっていたように管理職試験に合格したことでの係長で回る2年間が終わって、2年後に広報担当の副参事として広報にまた戻ってこられますね。このときは一担当者ではなく、課をまとめてという立場に変わったわけですけども、何か前にいたときに比べて変わったようなことはありました?
酒井 前の4年間は、ホームページであったり、取材をしたりだとかのパブリシティの担当だったのですが、我が身を振り返ると、自分のところさえ良ければいいみたいなことでやっていまして、部分最適だったなと思いましたね。例えば隣に区報の担当がいて、区報は紙の媒体を出しているわけじゃないですか。で、もう一つ隣には、区のお知らせ版とか、掲示板とかを管理している係があるのですが、そこら辺の仕事は、そのときはあまり見ていなかったなと、すごく思いましたね。やっぱり横の連携ができていなかったし、区報の記事があったら、ホームページの記事も当然連携するべきだし、全体としてどういう広報をしていくかということが視点としてなければいけなかったのに、当時は無かったなと思いました。広報課長で戻って、そこに気付かせてもらって良かったなと思いますよね。いろんな媒体を持っていても戦略的にどう広報するかという視点を持たずにバラバラにやっていたら、効果が薄れると本当に思いましたね。
稲継 なるほど。最近の広報は、もちろん紙媒体も重要ですけども、若者に対する広報でいうとやっぱりSNSを使ってということになってきますよね。
酒井 そうですね。
稲継 中野区さんの方では、SNSはどういうふうに活用するようになってきているのでしょうか。
酒井 私が広報に戻って最初に始めようと思ったのは、Facebookでした。中野区役所のFacebookページを立ち上げたのですけども、ああいうものは、固い言葉で書くと普通の広報誌とあまり変わらなくなってしまうので、親しみやすい写真を載せて、文章も親しみやすくするということで、当時私が提案したのは、職員の皆さんにペンネームを持ってもらうということですね。私のペンネームはハッピーホッピーだったのですけどね(笑)。意外と怒られなかったですよ。大丈夫かな、そんなペンネームで怒られないかな、とは思っていたのですよ。そうしたら区役所の中からはちょっと言われますけど、外からは全く言われなくて。
※注)中野区役所フェイスブックページ(法人のアカウント)における書き込みで、投稿者自体は「中野区役所」と表示され、本文内でペンネームを用いています。
稲継 区民からは言われない。そうですか。
酒井 「いい名前ですね」くらいにしか言われなくて、「なんだ、心配していたけど、区民はそんなに厳しくないのだな」と思って、ハッピーホッピーさんで、いつも記事を書いてました。「ハッピーホッピーさん、次の記事、楽しみにしています」とかコメントを書かれると、うれしいわけですよ。自分の顔が半分見えている感じとでも言いますか、自分が書いていることに対して反応がもらえるというのは、SNSの良さですよね。区報だとなかなか反応が返ってこなかったりしますけど、Facebookだとその場で反応が見られるし、「いいね」の数で記事の良さが測れますからね。また、リーチ数といって、コンテンツを見た人の数が後から分かるのですけど、「皆さん、取りあえずリーチ数1,000を目標にしましょう」と言っていまして、その数に全然届かなかったときは、職員が一緒に「ここが固いから駄目なのかな」とか、「何を言いたいのか分からない写真を使っているから駄目なんじゃないの」とか、ノウハウをみんなで話し合いながら、評価していくということをやりましたね。
稲継 昔の感覚でいうと、紙の広報を発行するときはもちろんですけども、ホームページのリニューアルとか、メールマガジンを発行する際には、順番にハンコをもらっていって、ある程度上のハンコがないと出してはいけないということになっていたと思うのですね。でもSNSを出す際に、上のハンコなんか、取っている時間はないですよね。
酒井 ないですよ。
稲継 基本的にはハッピーホッピーさんとか、それぞれの名前でもう出さざるを得ないということですね。
酒井 そうです。一応原稿は係長級までは見てもらっていまして、私も後で見て何か変なものがあったら言いますけど、取りあえず出していいよというやり方をしていました。
稲継 スピードが昔の広報とは変わってきましたよね。
酒井 そうですね。あと圧倒的に拡散力が違います。例えば中野区では、あれが面白かったです。自衛隊が訓練をやるときに、区役所が休憩地だったかで依頼を受けたのを、区役所が断ったみたいな記事をある新聞が書いたのですよ。Twitterなどインターネットでは、すごく荒れまして、「中野区役所ふざけるな」とかいっぱい書かれたのです。でも事実ではないのですよ。中野区としては本当に全面的に協力していたのに、事実と違うことを書いてしまったのですね。で、区で対策を検討して、Twitterで○○新聞のあの記事は事実と異なります。という趣旨のことを流したら、バーッと拡散して。あれは面白いぐらいに広がるのですよね。「『○○新聞は違っているよ』と中野区が言っている」と、みんなバーッとリツイートして、一気にオセロが黒から白に変わる感じで、一気に広がりました。SNSは、すごいなと思いましたね。
稲継 なるほど。ありがとうございます。今年の4月まで4年間、広報課長でおられたのですけど、このときに経験されたことで、他に何か印象深いことがありましたら。
酒井 この4年間、広報の課長になってから、もうとにかく中野区に対する愛というか、中野区を何とかしたいなとか、中野区をもっと知りたいとかという思いが強くなったということがありますね。なぜかというと、やっぱり人なのですよね。飲み屋をいっぱい知っていたりだとか、さっきの神社のことを知っていたりとか、郷土のことを知るということも大事なのかもしれないですけども、やっぱりそこに住む人の知り合いがどんどん増えていくのですよね。例えば観光協会では、普段は会社に勤めている人たちも、スタッフになって入ってきたりして、そこで一緒にマップを作ってみたりだとか、学生さんもボランティアで入ってくれて、一緒にイベントを作り上げたりします。いろんな知り合いがどんどん増えていきました。どんどん自分の周りに知り合いが増えていくことによって、まちがどんどん面白くなっていく。もっともっとこの人たちと一緒に街を良くしていきたいなと思うように、好転していきました。本当にこの4年間は自分の中でも変わりましたね。
稲継 それが冒頭にいろいろおっしゃった、社会貢献活動というのですかね。
酒井 そうですね。
稲継 その思いが、本来の仕事時間以外のときに、ストリートデザイン研究機構の理事長をやりながら、実はまちの活性化をやっていたり、あるいはオープンデータのイベントをやったりとか、そういったことに取り組むきっかけにもなったということですかね。
酒井 そうですね。中野区が盛り上がるためにとか、もっと施策が進むようにとか、区民がもっとつながって、新しい価値が生み出せるようにとか、できることはなんでもやろうと思っています。
稲継 さすが中野区検定1位の方。
酒井 そうです(笑)。自治体改善マネジメント研究会も、全国の自治体で改善運動が広がればいいかなともちろん思ってやっているのですけども、返せば中野区の組織にどう還元できるかということを考えていまして、それも中野区のためにやっています。
稲継 4年、広報課長をやられて、今年の4月に新設部署に着任されるわけですね。 簡単にここの仕事を教えてもらえますでしょうか。
酒井 地域包括ケアというところなのですが、団塊の世代の皆さんが、2025年に後期高齢者になるわけですけども、人口ピラミッドが自治体によって大分違っていて、特に中野区も含めて都市部においては、2025年問題は始まりなのですよね。2025年から後期高齢者の割合がどんどん増えていくので、どんどんきつくなっていくのです。地方では2025年はもうピークだというところもあります。そこでは、どんどん高齢者が減っていって、後期高齢者も減っていくのですよ。だから全然捉え方が違っていまして、都市部についてはこれから地域包括ケアに力を入れていかなければならないのです。労働人口も減っていきますので、介護の担い手だとか、医療関係者も足りなくなるといわれていますし、その中で地域の高齢者、子ども、障害者など要援護者をどう支えていくかが課題です。特に都市部は近隣関係が希薄なので、そこをどうやってうまくコミュニティとしてつくっていくのかということが、中野区の課題だと思っています。今まで全然お互いを知らなくて、区外でみんな自由に活動してきたのが、ある日外出が困難になって、地域で医療とか介護とかを受けるとなったときに、知り合いなんかほとんどいないですよね。やっぱりその地域の人たちがどう支えていくかということを、今から2025年に向けてつくっていかないと、中野区はそのとき回らなくなると思います
稲継 今の主たるカウンターパート、交渉相手はどういうところにありますか。
酒井 医療関係ということで医師会、歯科医師会、薬剤師会、あとは今、介護予防の基盤をつくっているところで、地域のボランティア団体とか、NPOとかに、今後中野区の介護保険のサービスを一緒に立ち上げませんか、やってみませんかということをお願いしているところです。だから市民ですよね。市民の方を相手に、今、毎日打ち合わせをやったりしています。
稲継 なるほど。ありがとうございます。酒井さんの今関わっておられる活動、そして入庁されてから今までの、20年ちょっとの仕事人生について振り返ってきていただきました。
このメルマガは、自治体の職員の方がたくさん読んでくださっています。もし何かメッセージがありましたら、一言お願いしたいなと思います。
酒井 東京にいらしたときは、声を掛けていただければ、中野の居酒屋を案内しますので、ぜひ皆さん、遊びに来てください。実際によく全国から来るんですよ。「今度中野に行くけど、空いてる?」とかって。よくご案内しています。ぜひ興味を持っていただいて、来ていただけたらと思います。
稲継 今日はどうもありがとうございました。
酒井 ありがとうございました。
取材の間中屈託のない笑顔で応対してくださった酒井さん。新鮮なアイデアが駆け巡ぐり、記憶力も非凡である。この笑顔と実力に多くの人がついてきてネットワークが広がっているようにも感じた。
2025年に向けての地域包括ケアを形作っていく仕事も考えるよりも大変そうだ。酒井さんの今後のご活躍を心から応援したい。
このコーナーは、稲継氏が全国の自治体職員の方々にインタビューし、読者の皆様にご紹介するものです。
ご意見、ご感想をお待ちしています。(ご意見、ご感想はJIAMまで)