メールマガジン
分権時代の自治体職員
第140回2016.11.30
インタビュー:堺市市長公室広報部シティプロモーション担当課 課長 浦部 喜行さん(上)
関西ローカルのテレビ番組、とりわけバラエティー番組に、「はにわ課長」というキャラクターがしばしば登場している。大阪府堺市にある百舌鳥(もず)・古市古墳群の世界文化遺産登録を目指す堺市のPRキャラクターだそうだ。(http://www.sankei.com/west/news/150727/wst1507270006-n1.html)堺市役所はどのようなシティプロモーションを行っているのか。担当の浦部さんにインタビューした。
浦部喜行氏
稲継 今日は堺市役所にお邪魔しまして、シティプロモーション担当課課長の浦部喜行さんにお話をお伺いします。どうぞよろしくお願いいたします。
浦部 お願いします。
稲継 私の目の前に埴輪(はにわ)があるんですけど、これはいったい何なのか、説明してもらえますでしょうか?
浦部 何なのかというのが非常に説明しづらいんですけど、話の発端は堺の魅力を発信したいということでした。具体的に申し上げますと、ライン株式会社の、ライブドアブログと何かできないか、というお話をしているときに、「自治体で面白いことをしてみる気はありますか?」というお話があって、「堺の名が売れるのなら何でもやります」ということで、遊び心でラインの方に作っていただきました。共同で自治体のPRをするのは、彼らにとっても今後開拓していきたい分野ということもあって、一緒にブログを作ろう、という前提でこういう素材を提供していただきました。そのブログ自体も非常にアクセス数が多かったんですけども、その後、使い道がなくなったので、「堺市さん、どうぞ」と、これをいただきました。その後、1年ぐらい眠っていたのです。
そんな中、在阪の民放テレビ局の関西テレビさんがそのブログをご覧になって、「これ、しゃべるんですか?」という話になり、「しゃべるもしゃべらないもいかようにも」みたいな話をしたところ、ブラックマヨネーズさんが司会をやっている関西で有名な番組に、はにわ課長が出演することになりました。
稲継 『ブラマヨ』でしたか?
浦部 はい、出してみたところ、「なんじゃ、こいつは」、みたいな反応で。その当時は固定もできなかったものですから、グラグラと動いて非常に不気味なこともあって、大変な話題になりました。その後、ご覧になった新聞記者さんからも問い合わせがあって、あれよあれよといううちに。元々は、堺の魅力全般を発信するためにちょっと面白いことを、というのが発端だったのですが、埴輪ということのつながりも含めて、せっかくなので、今、堺市が大阪府や羽曳野市、藤井寺市さんと一緒に取り組んでいる百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録の応援キャラクターという形にシフトしました。その後は、いろいろ啓発用のポスターをお店に貼らせていただいたりとか、テレビ取材とかに取り上げられたときに、「こういうことに取り組んでいます」ということでお話をさせていただいたりしています。この1年ばかり、関西では、「何や、こいつは?」ということで、話題にはしていただいていますね。
稲継 なるほど、最初にラインさんがお作りになったキャラですよね。で、最初のブログみたいなのをちょっと拝見させてもらったんですけれども、女性の方の、姫ですか、が訪ねてきていろいろ聞くと、最初は課長さんのお話をしていたのに、ちょっとしゃべり過ぎるからとこれをかぶせていたら、それでもまだ、しゃべり続けるというブログだったと思います。そういうやりとりも全部、ラインさんと考えて作られたということなのですかね。
浦部 行政なので、ということで、最初は割と堅い魅力発信のものが出てきたんですけども、「シティプロモーションというのは、むしろ民間以上に民間だと思っていただきたい」と。私も含めて職員一同も「やれと言われれば、堺のためなら何でもやります」と。「それだったら、やれるものならやってみろ」というような形で、突然これを持ってこられて、「これ、どうぞ」という話で、言った手前引き下がれず、やってみた、ということです。ライブドアブログはインターネット媒体で、このライターさんは非常に個性的な方だったのですが、そういう方でも行政というと身構えられるんです。そこは、何度か議論している中で、「本当にやってもいいのか?」とか、「われわれが、本気を出すと、たいがい無茶苦茶になりますよ」というような話もありながら、「行政体の悪口になるとか、ご覧になった方が不愉快に感じない限りは、われわれはやります」と。
堺市は大阪市の横にありながら、やっぱりベッドタウンという色が今現在は非常に強いんですね。ただ、町全体の成り立ちとか、街並み、街の空気を含めて、大阪市とはまったく違う。奈良とか京都みたいな歴史を感じる町のイメージ。住んでいる人も、非常に静かだから、ということで住んでおられる方は多い。その辺を広く知っていただきたい、そこが伝われば何でもいいです、みたいな話になりました。
稲継 今もお話が何回か出てきましたけれども、「役所の発想で言うと」とか、「役所の従来の慣例で言うと、これはちょっとやってはいけないのではないか」とか、普通に考えるとどうでもいいことなのに、自主規制がかかってしまうというか、どうしても臆病になってしまうところがあるんですけど、それはやはりシティプロモーション担当ということでいうと、突破するということですよね。
浦部 そうですね。
稲継 そういうことでやってこられたわけですかね。
浦部 このセクションができて、今4年です。以前意識調査をしたときに、全国的に見ると堺市の認知は政令市の中でも非常に下位にあると。たいがいの政令市さんは、県庁所在地であったりとかして、全国的に有名なんですけど、県庁所在地ではない堺市は知られてない。これを突破するために、こういうセクションを作ろうということになったので、とにかく名前を売っていけと、市長に言われました。いろんなことを臆せずやっていけ、と担当課ができたときに課長を拝命したので、最初に市長に「私はいったい何をしたらいいんですか?」と尋ねると、「何でもいいからとにかくやっていけ」と言われたので、「では本当に何でもいいから、やっていきますよ」ということに。今のところはお叱りを受けることもないです。
稲継 そうですか。なるほど。2012年の4月にできたときの初代の担当課長ということですね。まさに、浦部さんがやることが今後の最初の第一歩になるということでしたよね。
浦部 で、ちょっと変わったことをやっているぞ、ということで、市民さんの中にもシティプロモーションに一回相談を、とか4年たってくるとそういうことをおっしゃっていただくような方もいますね。議員の先生方の中にも、どこそこやったらアカンけど、ここだったらいけるかもしれないから行ってみたらどうか、と市民さんにご案内いただいたりするので、堺の名を売っていくため、ということでは評価をいただいているのかなと。
稲継 なるほど。このシティプロモーションで、派手目にというか、テレビに出たり、雑誌や新聞のインタビューを受けたりというイメージでいうと、浦部さんがそういう割と飛んだような、割と跳ねたようなところを歩いて来られたのかな、というふうに、たぶんテレビを見ている方などは思われがちなんですけども、実は、これまではそうでもなかった。入庁されてからのご経歴を振り返ってみたいと思います。入庁されたのは、1987年昭和62年ですよね。最初に配属された部署を教えてもらえますか?
浦部 最初は人権のセクションでして、当時は同和対策の措置法とかの期限が切れるというところでしたが、それでもいろいろな差別というのはなくなっていないという認識があると。それで、積極的に啓発をしていかないといけないということで人権啓発局啓発課というところに配属になったのですが、市民団体と一緒に人権啓発を考えていくということで、最初の仕事は企業さんの人権啓発でした。企業内での啓発をいかにやっていくかということで、企業研修とかのお世話をするようなお仕事を5年間やっていました。
そのときの窓口は、企業の人事部門の方が多かったのですが、企業の方々のお話をいろいろお聞きすることができたというのは、私にとって非常に大きな財産になったかなと思います。最初に入ったときに、行政色があまりなかったというか、実際に市の起案は、入って3年ぐらい作ったことがなかったんですよ、団体の起案ばかりで。大体が企業さんの催しであったりとか、研修であったりとかそういうことを企画するというお仕事を最初にさせていただきました。行政の根幹である福祉とか人権とかを最初に学べたのは大きかったなと思っています。
稲継 それをまずスタートしたと。先ほど5年とおっしゃいましたが、その後はどういう仕事につかれたのですか?
堺市役所
浦部 ちょうど、その当時に5年異動というルールを人事の方が作りまして、それで替わらないといけないと。替わったときに、住宅改良課という、今度は公営住宅を建設する仕事、ソフトからハードに一気に移りました。で、これは住宅部門ですので、建築とかの技術屋さんがいらっしゃる中で、私は人権のお仕事から急に経理の仕事になりました。平成4年に課の庶務という形で、経理と庶務の仕事を初めてやらせていただきました。模索しながらも4年ほどやらせていただいた後、局制度が作られまして、そこの経理部門に配属になりました。そこから、建築局と都市局の二つが機構改革の中で建築都市部になったときも、そのまま経理の仕事でした。その後、平成16年に財政課ということで、15年ぐらいずっと経理畑の仕事をしました。財政課で市全体の予算も組むということも含めまして、課から部、局も一緒になってくるので、冗談半分に町工場から新日鉄へ、みたいな話をしていました(笑)。もともと大学が文学部で数字が苦手だったのですけど、10年以上もやると、だいぶ予算編成とかも学びました。この時代は常に数字とにらめっこで、どちらかというと、お金を削るとか、必要、不必要でどちらかというと、不必要なことを切っていくというような仕事をずっとやっておりました。その当時を知っている人間は、僕は非常に堅い人間だとか、きつい人間に見えるという印象を持っていますね。
稲継 堺市は政令指定都市で組織の規模がとても大きく、一般の市、あるいは町の役場の方はなかなか想像がつかないと思うのですが、課の庶務担当と局の庶務担当とはかなり仕事が異なる。局の庶務担当は各課の庶務担当をまとめるというような意味ですから、一般の小規模な市役所、あるいは町役場の財政課に当たるようなことを局の庶務課がやっておられる。さらに、局をまとめるものとして全体の市の直轄の予算担当の財政課があるということで、今、おっしゃったように町工場から、新日鉄に、さらに大蔵省に異動していったという感じですね。ずっと経理をやっておられた中で、何か感じられたことはありますか。
浦部 お金全体のことは、最初はただ単にそろばんというか、電卓をたたいているという感じでしたが、だんだん年数を経るに従って、やっぱりこれは結局お金の足し算引き算というよりは、いろんな施策の優先順位というのが重要なポイントだなと思うようになりました。お金よりも施策というようなところをしっかりと考えないといけないということを学びました。経理という部門は、そこの仕事の上澄みではないですけど、どんな仕事をしていて、そのキモはどこにあるのかということを、財政折衝をしたり、もしくは市長に説明していかないといけない。そこで、まちづくり全般についてのいろいろな事業の概要を学んで、分かりやすくきちんと伝えていかないといけない。そこが実はポイントであって、お金とかは、最終的に優先順位の中でどこをとっていくかということで、企画的なセンスも非常に求められるということです。
稲継 ずっと経理をやって来られた中で、例えば、建築都市総務課などのときには、割と国のお金が入ってくる部分と市単の部分があって、それを組み合わせながら事業をしていく、ということもあったかと思います。その中で、国土交通省、あるいは他の省と地方自治体との関係で何か感じられたようなこと、あるいは学ばれたことがありましたら、お話ししていただけたらと。
浦部 ちょうど、私が都市系の経理をやり出したころというのは、まさに従来の区画整理事業や再開発事業といった土地を高度利用するとか、農地に道路を通すことによって資産価値を高めて、それによってWin-Winの関係をつくってきたというのが、まったく立ち行かなくなった時期でした。国土交通省へは、それぞれの事業課が交渉に行っていたのですが、区画整理事業や再開発事業は今後どうあるべきか、みたいな流れの中で市としてもまだまちづくりをしていかないといけないということで、いかにして従来型ではないような、再開発とか区画整理といったような展開、大店舗を誘致してくるとか、そういうことも含めて、検討していかないといけないというような状況でした。まさに民と一緒に進めていかないといけないということで。そのあたりは、従来は国の方だけ向いて動いていたら、自然と「この事業をやれます」、「要件を満たしたらお金をもらえます」という時代だったのが、きちんと民間との交流関係を持って、こういう建物の中にこういうものが入りますとか、区画整理の後にはこういう事業体が、というようなこともセットで考えていかないといけないような大きな時代のシフト、今なら公民連携とか官民協力とかは当たり前かもしれませんけど、ちょうどそういうふうな時期でした。
稲継 民との連携が始まったと。行政で普通にPPPだとかの言葉が出始めたころだと思います。その職業人生のスタートラインが、企業さんの研修、企業とのかかわりがほとんどだったということと、PPPみたいなことを進めなくてはいけない時期のことは、割と親和性があるように思うのですが、どうですか。
浦部 そうですね。企業を誘致するのは事業課がやるのですが、そのときの企業さんの感覚であったりとかは、ちょっと前の話ではありつつも、企業さんがこういうことでは乗ってこないだろうな、という感覚は自分なりに持っていたので、そういう中でいろいろ事業課と話をしながら、実際に実効性があるのか、というのは自分なりの感覚を持ってやりとりできたので、そういう意味で最初に企業の方々の感覚みたいなことを学べたのは大きかったかなと思います。
稲継 なるほど。12年ほど経理、財政をやってこられて、さらに市全体の財政課の方に異動されて、それを継続されるわけですけれども、市の財政局の財政課に異動されて、今までと違うように感じたこととか、新たに感じたことはありますか。
浦部 財政とは局の経理ということでいろいろとお付き合いはそれまでもあったとは言いつつも、どうしてもハード系のまちづくりを中心にものごとを考えていたので、最初係長時代に民生費、福祉関係と教育関係の費目を持たせていただいて、まるっきり逆みたいな部分もありました。
やはり、それまでは「財政憎し」みたいなところも時折あったのですが、全体最適みたいなことがあって、そういうことを考えると、一番初めに全体的な視点を持つということをガツンと学びました。そういう意味では、財政に行かせていただいたというのは大きかったなと思います。
稲継 先ほど、ちょっとお話の中で出てきた優先順位、プライオリティをつけるという話も、財政に行くと、それがより前に出てくるということですか。
浦部 そうですね、ハード系のまちづくりは、大多数の方が幸せになるように、というものなんですけど、民生、福祉系みたいなことは、たった一人の社会的弱者の優先順位が非常に高いということで、今までの考え方をいっぺん括弧に入れないといけない、保留して考えていかないといけない、というようなことをやっぱり財政にいるからこそ思いました。一方で局のいろいろな要求というのは、自分もやっていた立場であり、分かるので。その辺をちょっとこういうこともあってという中でのプライオリティを考えて、局ともそういう話をしていました。
稲継 財政課におられた時期は残業も多かったですか。
浦部 多かったですね。特に、平成16年、17年はちょうど堺市は美原町と市町村合併ということで、合併協議会の予算部門を主幹と私が窓口になって、美原町とやりとりをしていたりとかもありまして、ずっと時間外が多かったのですが、最終的には合併の際の予算書などで3日ぐらい徹夜したということもあります。ただ、なかなか合併というのは経験できないので、非常に重要な仕事をさせていただいたと思います。時間外はもちろん多かったですが、非常にやりがいのある仕事をその当時させていただいたと思います。
稲継 今、16年、17年とおっしゃったんですが、18年には、財政局の経営企画課の主幹に昇任されました。どういう仕事をやっておられたのですか。
浦部 これは通常で言うと、財政局の庶務経理の部門ですが、当時、財政局というのが企画部と行革セクション、それに財政という、いわゆる官房全てを持つようなところだったので、それら全体をコントロールできるようなセクションにしようと。つまり、従来、財政総務と呼んでいたセクションを経営企画として、もうちょっと官房色を強くしようということでした。そのときに局長に「財政に残る方がいい? こっちに行くほうがいい?」ということで、「どっちでもいいです」と言っていたら、こっち側に異動しました(笑)。
稲継 そうですか。官房的な仕事というのは、具体的にはどういうことをやっておられたんですか?
浦部 企画部と財政課と行革セクション、それぞれの意見を整理した上で、調整みたいなことを局長と相談しながらやっていくというようなことでした。当時それぞれの3セクションの部長と局長の話し合いみたいな会議を週1回やっていたんですけども、そこに一緒に入らせていただきました。係長が記録をしていて、私もいろいろ意見を求められたら、「こういう形で調整しましょうか」というようなことを言ったり、部長から出てくる案件とかを事前に局長にレクチャーをしたりとか、そういうことをやらせていただきました。
稲継 企画と行革と財政ということで、一般的に見ると行革と財政対企画になるようなイメージがあるのですが、そういう調整とかもあったのですか?
浦部 はい、企画が、「こういうまちにしたい」みたいな夢みたいなもの、理想を出してきて、実際にそのお金、資源はどこから出てくるのか、というような形ですね。 特にその当時の局長は、すごくアイデアマンで、国の動きだけでなく、民間企業のこともよく知っておられて、いろんなご提案をされてきたのを、企画部が整理します。財政規模とか、実際の各局が持ちこたえられるのかという中で、財政は非常にきびしい意見を出すので、ときには局長と対立ということもありました。ただ、その当時の先進的なアイデアは今やっている仕事には、すごく役立っていることです。非常に対立も多かったのですが、今考えると、市長からシティプロモーションをどんどんやっていけ、と言われている、今のための政策ストックみたいなものが形成された時期でした。まさに、3セクションの情報をいろいろ聞かせていただいたのが、今いろいろな発信をするというときに役だっていると思います。
稲継 当時携わっていた仕事で何か思い出に残っている仕事はありますか?
浦部 日本の伝統産業とデザインというのをくっつけようという企画がありました。「和モダン」と当時は言っていたのですが、それをニューヨークに売りこんで、ニューヨークで流行らせて逆輸入しようと。
財政局の経営企画課で和モダンをニューヨークで売り込む。殆どの職員は経験したことがないタスクだ。いったいどうなるのか。(以下次号)
このコーナーは、稲継氏が全国の自治体職員の方々にインタビューし、読者の皆様にご紹介するものです。
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