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第138回2016.09.28

インタビュー:水戸市市長公室交通政策課 課長 須藤 文彦さん(上)

 Jリーグはまちを活性化する。サポーターを増やす取り組みをしたり、サポーターに飲食などの割引をする協力店を増やしたり、さまざまな取り組みがなされている。
 しかし、対戦相手にターゲットを絞って集客に取り組んでいるところは珍しい。水戸市にはいまJ2に位置する「水戸ホーリーホック」があるが、2012年の年間集客は8万3千人だった。21試合で割ると1試合平均4千人を切る。どうするか?
 この課題について、対戦相手チームのサポーターが入場するゲート、アウェイゲートを何とかして、観客数を増やそうとしている人がいる。アウェイチームのサポーターに観光案内をボランティアで続けている水戸市の須藤さんにお話しをお聞きした。

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須藤文彦氏

稲継   今日は茨城県水戸市役所にお邪魔しまして、交通政策課長の須藤さんにお話をお伺いします。どうぞ、よろしくお願いします。

須藤   よろしくお願いいたします。

稲継   須藤さんは今は水戸市にお勤めですが、元々、この水戸に生まれ育った方なんですか?

須藤   それはよく聞かれるんですけれども、子どもの頃に私が水戸に住んでいた時期は非常に短くて、私の祖父が住んでいた場所が水戸でした。

稲継   そうですか。

須藤   つまり、私の父親が水戸の下市(しもいち)というところの出身でした。私の親は地方銀行に勤めていまして、要は転勤暮らしです。その転勤暮らしをしている中で、数年おきに引っ越していく。当時は、単身赴任という制度自体、言葉自体がなかった時代でした。親が転勤になったらそれに伴って自分も学校を転校しなければいけない、引っ越ししなければいけない。そんな子供時代でした。
 そういう生活の中で、心のよりどころになっていたのが、私の父親の出身地である水戸。私の祖父の家が、不動のものとしてあるわけですね。夏休み、春休み、冬休みのたびに、おじいちゃんのところに遊びに行くと、水戸のまちなか、上市(うわいち)というところに連れて行ってくれる。水戸は上市と下市という双子町の構造を持っていて、上市というのは、子供心に東京みたいな都会という感じでした。大通りにはデパートがずらっと連なっていて、私の祖父は孫を満足させようと、目当てのおもちゃが見つかるまでおもちゃ屋をはしごして歩いてくれました。水戸は自分が住んでいる町と違ってとても都会だなと思った。そんな経験から、水戸をふるさとと思うことにしようということを決めまして、実際に住んでいるところは引っ越ししてばかりなんですが、水戸という町自体に興味が芽生えてきました。

稲継   水戸の町に。

須藤   そうして、中学、高校になってくると、町をつくる仕事というのがどうやらあるらしいと。

稲継   町をつくる仕事。

須藤   というのがぼんやり分かり始めて、都市計画という言葉に出会った。
 ところで、私が通っていた中学、高校は中高一貫の学校ですが、変わった学校で、卒論があるんですよ。

稲継   ほう、高校で卒論ですか?

須藤   「個人課題研究」と言うのですが、自分が好きなテーマを選んで研究するというもの。高校2年のときに水戸市と宇都宮市の比較研究みたいな、そういう研究に取り組みました。水戸市役所に取材に行き、今思うと対応してくれたのは誰だったんだろうと思いますが、都市計画課へ行って都市計画図というのを買ってみたり。
 で、水戸市役所というところには都市計画課という部署があることがわかったので、水戸市役所に就職すれば水戸で都市計画という仕事ができるんだな、という単純な考えで就職先を決めました。

稲継   でも、高校を出てすぐに就職されたわけじゃないですよね?

須藤   そうです。で、大学を受けるにあたって、都市計画という学問はどこで学べばいいのかと。昔ながらの旺文社大学年鑑みたいな、分厚いのを立ち読みして、裏側に索引がついていて、「都市計画」で引くと、まったくの誤解だと思うんですけど、日本で学べる学校が3つだけあると。

稲継   3つだけですか。

須藤   それは、東大と東工大と筑波大学。今思うともちろんそんなことはなくて、たいていの大学では建築学科などで都市計画のコースがあるのですが、高校生でそういう知識しかなかったんです。その高2の時点で、理科は一つしか履修していなかったので、受験に理科が二つ必要な東大と東工大は全然駄目。筑波大であれば辛うじて受験できそうだということで、筑波大に進学して都市計画を学ぼうと。地元だし。ところが、私が現役で受けたときで最後となった共通一次試験では散々な点数で、二次試験すら受けられなかった。そして浪人生活に突入しました。筑波大は当時は7割位が現役で進学していたと記憶しています。つくば市にある私の母校からも筑波大に結構進学していたので、高校の一つ下の学年の連中と同じ学年になるのは嫌だなという見栄から筑波大はやめようということで......。浪人中に、都市を学ぶことに対して理系の学問以外にアプローチするものはないのか、ということを考えたときに社会学という学問があることを知りました。そして、都市社会学を勉強しようと浪人中に方針を変えました。社会学という学問が学べるところ、大抵は文学部でしたが、手当たり次第に受けてまして。三浪した末に、ようやく受かったのが慶応の文学部でした。非常に、挫折感いっぱいの青春時代でした。それでも大学はストレートで4年で卒業して、社会学という学問をベースにしながら、都市計画を独学で勉強して、都市とは何ぞやということを考えていました。卒業にあたり、水戸市役所を受けたところ、これは1回で受かりました。

稲継   なるほど。慶応の文学部社会学専攻ですよね。で、学ばれたことからいうと、市役所で都市計画をやるということに関して、何かこんなことができるとか、こんなことをしたいとか、大学のときに考えられたことはありますか?

須藤   学びながら、慶応という学校自体は実学志向ということがあったので、社会学という学問自体が、使われない学問、教養としての学問ということではなくて、使えるような形にしたいということは思っていたんですね。で、社会学という学問自体は、名前のわりには社会をどうこうするという、そういう学問ではなかったりする。そこで、学んだことを、実地にどのように落とし込んでいくかというときに、水戸というフィールドを選んだということです。フィールドを選んで、水戸という町で自分が学んできたこと、考えてきたこと、そういうことがどういうふうに落とし込めるだろうか、というところですね。
 都市を考えるときに、将来どういうふうにしていこうか、ということを構想してそれに近づけていくというプロセスが必要だと思うんですけども、それには、どうしても都市とは何か。都市は必要なのか、ということに解を出さなければいけない。ただ、技術的に、こういう道路を作ればいいということではなくて、何のためにそれを作るのか、何を目指しているのか、ということがないといけないと思うし、そういったことを形にはなってないですけれども、心がけながら仕事をしていければと思ってやってきたところです。

稲継   そして水戸市役所を受けられて合格しました。かなり自分のやりたいことができるのかなと思って入られたわけですね。

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水戸市役所(臨時庁舎)

須藤   そうです。夢と希望にあふれて、しかも最初、希望していたのは、当時は中心市街地活性化推進室というのがあって、そこを希望していたんですね。大学4年で卒論を書いているときに水戸市役所に取材に行き、応じてくれた人が「じゃあ、ここに机空けて待ってるからな」なんて言ってくれて、その気でいたんですけども、内示があったのは都市計画課。中心市街地活性化推進室ではありませんでしたが、まさに希望どおり。

稲継   希望どおりにいったんですね。希望に胸を膨らませて入られました。どうでした?

須藤   私の勝手な思い込みとしては、職員たちが水戸の町の将来を熱く語り合うという、そういった場面があるのかな、ということを楽しみにしたんです。昼は仕事に忙殺されながらも、夜の飲み会では水戸の将来を声高に議論するような・・・でも、実際はそんなことはありませんでした。
 ないのであれば、そういう場をつくりたいな、ということを思い始めました。自分が今、携わっている仕事、そういったことを抜きにして、水戸は、もうちょっとこういうことをやったらいいんじゃないか、そういうことを立場抜きで語り合えるような、実践するような、そういう場がほしいなということで、入って数年後、自主研究グループを作りました。

稲継   自主研究グループ。どういう取り組みをされていましたか?

須藤   最初は「ミレニアムクラブ」というへんてこな名前をつけまして。「ミレニアム」という言葉はすぐに死語になるだろうということでつけたのです。最初は読書会みたいなことをやりました。岩波新書の田村明さんの本を一章ずつ読むみたいな。ところが、読書することに対してはレベル差がありますよね。ある人にとっては「こんな本は1週間で読める本だろう」と感じる一方で、文字を読むこと自体苦痛でたまらないという人がいたり。そういう本を読むということに対してのレベル差を埋めるのも難しいので、徐々に実践活動みたいなことが中心になっていきました。格好よく言うとプロジェクトみたいな。そういう活動にシフトしていきました。

稲継   自主研究グループは読書会から始まって、、その後、実践に重心を置いた活動にしていったと。

須藤   そうですね。話をちょっとだけ遡りますと、平成8年に水戸市役所に入りまして、その2年後の平成10年に茨城県庁に出向する機会を得まして、県の都市計画課に実務研修生として出向したときに、かなり伸び伸びと仕事をさせていただきました。つまり、自分の職場である市役所と違って、まったくしがらみがない世界なんですよね。誰に気を遣う必要もないという状況の中で、企画調整担当の部署だったので、さまざまなイベント、セミナーとかシンポジウムとかに携わらせてもらいました。藤森照信さんという建築家に「景観セミナーをやるので講師をやってください」といきなり電話をかけて交渉してみたり(笑)。今度水戸芸術館で藤森さんが展覧会をやるという話を聞いて、そんな無謀な行動もちょっと懐かしく思い出します。
 県では高名な方を相手に折衝するような、結構重要な仕事をやらせていただいた一方、本格的に市民活動も始めました。羽を伸ばした状況の職場環境の中で、「水戸まちづくりの会」という市民団体を立ち上げました。

稲継   市民団体をつくった。どういうことですか?

須藤   平成10年度に水戸市が開催した市民講座がありまして、それを受講した人が集まって、サークルをつくった。それが水戸まちづくりの会で、現在も活動が続いています。この会を立ち上げた平成11年3月、地元紙に小さく載ったのですが、それを読んだ県庁の上司が心配してくれまして。「お前、こんなのつくって大丈夫か?」と。

稲継   どうして心配するんですか?

須藤   つまり行政職員が市民と一緒に活動するとか、そういった文化が水戸はなかったんです。市民が何かをやるというとそれは反対運動だとか、そういう感覚だったんです。市民活動をやるような職員は、当時水戸ではほとんどいなかった。そんなの立ち上げちゃって大丈夫か、ということを、心の底から心配してくれました。

稲継   そうですか。

須藤   その県庁の上司が。

稲継   なるほど、なるほど。

須藤   県庁で伸び伸びと仕事をさせていただいたことが大きかったと思うのですが、市民と一緒に何かをやっていくということを、ようやく徐々にやり始めました。ですから、市民活動デビューに関して、私はとても奥手でした。今なら多くいるような、学生のときから市民活動をバリバリやっていたというタイプでもないし。社会人になってから、たまたまそういうチャンスが転がってきて、県庁に出向する前の年、市役所に入って2年目のことでした。「『アートタワーみとスターライトファンタジー』というイベントの実行委員会があるから、お前好きそうだから来いよ」と。おまえも来いよと言ってくれたのは、実は、卒論を書いているときに、「ここに机空けて待ってるよ」言ってくれた先輩なんですね。その実行委員会に出席したときに、市民活動に奥手な私はまちの人たちとの活動を初めて一緒にやったんですが、単純にすごいと思いましたね。

稲継   すごい? どうすごいのですか?

須藤   商店街の人は何でもできると思いました。

稲継   何でもできる?

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水戸芸術館のタワー

須藤   スターライトファンタジーというイベントは、水戸芸術館のタワーを冬にライトアップさせよう、というイベントなんです。単にライトアップさせるだけだとつまらないので、毎週イベントをやっていこうとか、子どもを集めて楽しませるイベントをやろうとか、そういう話になったんですけれども、そのときに、「じゃ俺、綿菓子の機械があるから、それを持ってくよ」とか、「うちはテント屋だから。テントは何張り必要?」とか。映画の「七人の侍」を見ているような気分になりました。何かやろうというときに、「俺はこれができる、お前はこれができるだろう」と、さまざまな手腕を結集してイベントを作ってしまう、ということ自体が、市役所には無いなと思ったのです。そういうすごいまちの人がいるということに対して、行政職員があまりにも向き合ってないんじゃないかと。そういう人に対しても「市民」というくくり方で、行政とは敵対する関係でしか捉えられない。そういう受け止め方しかできないというのは、とてももったいないな、ということがあったので、自らそういった空間に飛び込んでいって、かなりかわいがられましたね。

稲継   そうですか。

須藤   おじさんたちに、かわいがられたといっても、すでに30歳手前ぐらいの、そこそこ歳のいった男が、そういうところに飛び込んで、「須藤君、市役所なのに偉いなぁ」などと言われました。

稲継   市役所なのに偉いと。さきほどあったように市役所の普通の人間は、その頃のこの辺の文化でいうと・・・、

須藤   市民に交わらないということですね。市役所の職員なのにこういうミーティングに参加している。それだけで偉い、みたいなことを言われて。最初のうちはそれでいいかなと思っていたんだけど、35歳ぐらいになってくると、さすがにその程度のことでちやほやされるのはよくないなと思って。行くだけで褒められるというのはそろそろ卒業しないといけないなという気持ちとがありまして、まちで力を発揮できるにはどうしたらいいか、ということを考えたりしているうちに、コミックマーケットを誘致するとか、そういう話に。

稲継   コミックマーケットの誘致?

須藤   コミックマーケットは、東京ビックサイトで夏と冬に3日間ずつ開催される漫画やアニメ、オタク文化の殿堂というようなイベントで、夏と冬、それぞれ50万人以上のお客さんを集める。まあ、お客様という言い方はしないで、コミケでは来る人も客ではなく参加者だという言い方をしています。毎回50万人もの人を集めるビッグプロジェクトであっても、何十回も続けているうちにルーティンワークになってしまうと主催者が考え、5年に一度は変わったことをやろうということで、「コミケットスペシャル」ということを始めました。で、5年に一度は普段できないことを、例えば24時間ぶっ通してコミケをやってみようとか、沖縄のリゾート地でコミケをやってみようとか。そういうことがいろいろあって、今度5回目のスペシャルでは、自分たちが得たイベントのノウハウを地域と社会に還元していこうということで、「コミケでまちおこし」ということをテーマに掲げました。それに当たっては場所を公募します、という話が出てきたときに、私たちはそれに手を挙げて、首尾良くそれに当選して、水戸で開催するという運びになりました。
 そういう大きい事業ができたということも、細々とですけれども、まちの人たちと付き合ってきたからだと思いますし、そういう付き合いの中でかなり助けられて、物事を成し遂げることができたのかなと思います。そこで築かれた関係というのは、今は様々な仕事をする上でもとても大きな財産になっていて、「お互いさま」の状態なんですね。「あのとき、お前のことを助けたから、今度は俺のことを手伝え」ということを言わなくても、口に出さなくてもそういうことがお互いにできるという存在が、まちのあちこちにいていただける状況が常にあるので、色々やりやすい部分があります。

稲継   コミケットスペシャルを呼んだと。これを呼ぶというのは、自主研究グループとか、まちづくりの会で呼んだんですよね。市役所が呼んだんですか?

須藤   最初「ミレニアムクラブ」と名乗っていた水戸市政策研究会という自主研究グループで呼びました。

稲継   市役所が公式に呼んだわけではなくて、自主研究グループがコミケを呼んだということなんですね。

須藤   それは、もともと主催者側は公的団体が必要だったということがあって、本来であれば、水戸市とか、あるいは商工会議所、青年会議所というような公的な団体から手が挙がってくるものと思っていたところ、どうもそういう団体ではなくて、市の職員が作っているただの任意団体のサークルで、それが申込に来て困惑していた感じでした。水戸市政策研究会という名義では公的な意味合いが弱かったので、それまでお付き合いのあった、それこそ、一番最初にスターライトファンタジーという行事をやったときにお世話になった方が代表を務めている団体の名義でエントリーして、私たちが郵送で提出しなきゃいけないところを「直接お持ちします」と相手方と面会をさせていただいて、企画内容を説明して。そのときに、水戸市役所の職員だということは説明しているわけですね。

稲継   え?

須藤   水戸市役所の職員であるということは相手方に説明しながら、企画を提案するわけです。ただ、水戸市役所から提出されたものではないと。そこでかなり混乱が...。「こいつら本当に信用できるのか」という話なんですけども、最終的には水戸市から提出するということができなかったのです。で、「結局そういうことはできなかったけれども、代わりに地元で実行委員会というものをきちんと立ち上げますので、それで許してください」と。「それなら、待ちましょう」と。
 公務としてできれば一番よかったんですけれども、公務としてはできなかった。誘致活動とか、実際のイベントの実現に向けては、基本的に5時以降にすべての調整をして、打ち合わせをする時も5時以降、または昼休みに連絡をとって事業を調整していくとか。どうしても日中に動かなければならない時は、年休を取るとかして進めていました。当時の手帳をみると結構、すごいスケジュールでしたね。小刻みに予定が入っていて。

稲継   でしょうね。普通に仕事をやって、それ以外の時間帯で、結構ビッグなのを呼んで、しかも準備して。当日は大混乱、ケイオスの状態でしょうけど、それまでの数ヶ月間も相当ですよね。

須藤   そうですね。で、そういったことをやりきることができたのも、まちの人たちとの地道な関係づくりができていたからだと思います。まちの人たちは、コミケがもたらした人の波を喜んでいました。この盛り上がりは40年前を見ているようだと。町全体が元気になったという感想を述べられていました。そういう大きい影響をもたらすことを自分たちの勤務時間外の力でもできた、ということ自体がとても自信になりましたし、そこで得た経験を自分達の次の活動につなげることができているメンバーも多いです。

稲継   平成11年ぐらいにできた自主研究グループが、今の水戸市政策研究会としてずっと続いてきて、今おっしゃった最近のコミケを呼ぶとか、そういうのがずっと延々続いてきたんですね。

138-04.jpg須藤   そうですね、今では続けることだけに意義を見出しているというか。とにかく「やめろ」と言われてもたぶんやめないかなと。そうこうしているうちに老舗の部類に入って来て、去年の1月に関東自主研サミットにお招きを受けて、「あんたのところは長寿グループだから、その秘けつとかをしゃべって」と言われて、そういうことになっているのかとびっくりしていました。自分が若い頃は、まちづくりといったら、世田谷とか、練馬とかの市民団体が有名で、市民レベルで活動している人たちがいて、当然区役所の人たちもそれに呼応するくらいの高いレベルにあったということだと思いますけれども。何をやっているのか分からないような、ただ続いているだけのところが、「あんたところは長寿の自主研グループですよね」と言われたというのが結構意外でした。続けているもんだなと思いますね。

稲継   続いた秘けつというのはどのようなものだとお答えになりました?

須藤   やめないことですね。

稲継   それはトートロジーになりますけども(笑)、どう続けたらいいんですか?

須藤   続けられる程度のことしかやらないということです。それが続けられる秘けつだと思っています。

稲継   続けられる程度のことしかやらない。

須藤   つまり、コミックマーケットの誘致ということで、良かったから来年もやろうとか言われることがあります。毎年やろう、年2回やろうと。それは能力的に絶対に無理。そういう、できないことはやらない。できる、続けられるということをやっているという状況です。
 今まで、築いてきたまちの人たちの関係の中で、例えば、納豆というものについて焦点を合わせた取り組みができるということになったとして、じゃあ、何をやろうかというときに、相当なお金をかけて大納豆イベントをやります、ということを、場合によっては1回はやれるのかもしれないんですけど、そうやるとたぶん続かないだろうなと。それよりも、愚直に一つのことを継続していって、たまたま支援者が現れたら大きくしていくとか、そういう感じで、続けられることしかやらない。無理はしない、というところですかね。

稲継   今、納豆の話が出てきたのですが、政策研究会の方で、納豆食堂を出したとか、そんな話をどこかで聞いたのですが、それはどういうものですか?

須藤   納豆食堂というのは、これは、勉強会、読書会的なことをやっていった中で、当時、地元の茨城大学が市役所に対して、何か出展しませんかという投げかけがあったという情報を察知して、「出展させてください」と言って実現したのが始まりでした。大学側は、もうちょっと固いことを想定していたようで、例えば、フォーラムとか、パネルディスカッションとか、そういう出し物を市役所が持ってくると思ったら、公的な団体でもない、ただの職員サークルが食堂を出すと。そういったところで脱力感を持ったみたいです。

稲継   そうですか。

須藤   水戸は納豆が有名だと言われていますけれども、実は水戸には納豆ごはんを食べることができるお店がない。宇都宮だったら、ぎょうざを食べに行くということができますが、納豆の場合、例えば納豆の天ぷらとか納豆の唐揚げとか納豆のオムレツとか、そういう形に加工されて、「茨城県の郷土料理です」という出し方をすることはあっても、日常的にわれわれが日ごろ食べている納豆というのは、納豆ごはんなんですね。炊きたてのごはんの上に、自分の好きなものをトッピングして好きなだけ混ぜて、好きなように載っけて食べる。実は地元の私たちはそれが一番おいしいと思っているはずなのに、納豆ごはんを食べさせるお店、それだけを売りにしている店というのは水戸には存在しないのではないかという問題意識があって、とてももったいないなと。

稲継   ないんですか?

須藤   ないですね。

稲継   意外ですね。たまごかけごはんを売りにしている岡山県美崎町には卵かけごはん専門の食堂もあるので、、水戸なら納豆ごはんを食べさせる店があって当然だとわれわれは思うんですけど。

須藤   そうですよね。飲み屋で裏メニュー的になじみの人に出す納豆ごはんはあるかもしれないですけど、例えば観光客や出張で来たお客さんに対して、それをメインに振る舞っているようなお店が基本的にはないんですね。そうしたときに、水戸駅......今日は、特急でいらっしゃったんですか?

稲継   はい。

須藤   常磐線の特急は結構な乗車率なんですよ、東京から日帰り圏ですから。東京から水戸に出張に来て、仕事をして会社に帰ると。で、ちょっと小腹が減った、何か食べておこうかというときに、駅の立ち食いそばの代わりに、納豆ごはんを食べるということがあってもいいと思うのです。「今日俺、水戸に出張だったんだよ」「何か食ってきた?」「納豆食ってきたよ」と言って「なんで?」と言う人はたぶんいないと思う。水戸に出張して納豆を食べて来たという同僚を不思議に思う人はいない。水戸に出張したなら納豆を食べてくるだろうなと思いますよね。

稲継   それは了解しますよね。

須藤   それで会社に戻ってから「おいしかったよ」とかいう会話がなされる。そういうことができないかなと。そんな状況を作り出すことを目指して、模擬店スタイルの納豆食堂を「ゼロ号店」と呼んで、不定期に開催しています。そうこうしているうちに、コミックマーケットの付き合いの中で、納豆メーカーさんとつながりができていましたので、県納豆組合さんも納豆をPRしていきたいという話が出てきた。単に納豆を無料で配付するイベントではもったいないので、納豆ごはんという形にして、屋外でその場で食べるスタイルにしてはどうかと提案しました。その方が取材とかでウケるでしょうし。そのうち、列車の中で納豆ごはんを食べるというイベントを始めたりして。車窓の田園風景を見ながら、風に吹かれて納豆ごはんをかき込む。非日常的な感じがしますけれども、そういうことができそうなローカル線(ひたちなか海浜鉄道湊線)が水戸のすぐ近くにありましたので、そこでやってみたりとか。
 そういったことも本来であれば、納豆を購入する必要があるのですが、今までの付き合いの中で、納豆業界でもPRになるというところから、納豆食堂や納豆列車のイベントを行う際は県納豆組合さんから納豆を提供していただいております。お金がかかりそうな事業でも、うまくお金をかけないで続けてこられた、ということがあります。

稲継   イベントで出展したり、列車の中で出したり、納豆は納豆業界が提供してくれる。皆さん方がボランティアで働いている。食べに来た人はお金を払うんですか?

須藤   いろんなやり方がありまして、無料ということだけですと、何回も並んでいる人がいたりということがあるので、募金をしてくれた方には無料で差し上げますというやり方で行うことが多いです。いただいた募金は地元の新聞社を通じて募金をするという形にすると、県納豆組合の活動実績にもなります。7月10日の「納豆の日」のイベントでは毎年そのような形にしています。

稲継   7月10日が納豆の日ですか?

須藤   語呂合わせですね。その前後の土曜日に例年「いばらきの納豆まつり」というイベントが行われ、納豆食堂の企画運営という形で参加させていただいています。

稲継   なるほど。今、水戸市政策研究会の活動をずっとお伺いしてきました。このほかにもたくさんあるとは思うんですけれども、こういう活動をしながら、他方で、正規の職員としてずっと勤務しておられますよね。最初は都市計画課に入って、2年後に県庁に1年間派遣されて、伸び伸びして帰ってきて、そこで市民団体を立ち上げたり、政策研究会の前身になるようなものを作ったりされました。その後、県庁から戻られてから、どういう仕事をやってこられたのでしょうか?

138-05.jpg須藤   最初1年目に志望する都市計画課に配属されて、周りの先輩方は面白そうな仕事をやっているな、という状況はあったんですけど、1年目なので、そういう仕事には携わらせてもらえず、それから県に出向して戻って来て、次に異動で財政課に行くことになりまして。都市計画課では都市計画マスタープランの策定作業にちょこっと携わらせてもらったんですけれども、その作業をやっているうちに、その上位計画である総合計画に携わってみたいなという気持ちが芽生えてきて、当時それを担当していた企画課というところを希望したのですが、そこはかなわず、なぜか財政課に配属になりました。

稲継   これは予算をつくるところ。

須藤   予算の要求を受けて査定したり。文学部出身なのに。

稲継   あんまりそれは関係ないことですけども(笑)。

須藤   電卓をたたいたりしたことすらない状態の中で、電卓を一生懸命たたけるようにして。8年間結局いました。

稲継   8年間財政におられた。8年もおられたらだいたい市の全体像ですとか、どういうふうにお金が流れているとか、相当仕組みが分かりますよね。

須藤   そうですね。さすがに8年もやるとそういうことは分かる。それは、今、仕事を進めていく上で非常に得している部分はあると思います。
 8年は長すぎたと思うのですが、一番良かったのは土木に関する予算に携わることができたということで、今まで大学とかで学んできた都市とはなんぞやとか、都市計画的な事だとか、そういったものがどういう財源で成り立っているか、そういった部分はなかなか学ぶチャンスがなかったので、そこを知ることができたのは、とても大きかったですね。

稲継   都市をつくるといっても、自主財源だけでできるものは非常に限られているから、起債をしたり、あるいは交付税措置をお願いしたり、あるいは補助金をもらったり、それをどう組み合わせて都市をつくっていくか。結構大きなネゴシエイションの過程もあるでしょうし、設計の段階もあるでしょうし。むしろ、土木関係、都市計画関係の部署よりも財政課の方がやりやすいことでもあると思うんですけど、実際にどうでしたか?

須藤   財政課ではそういう仕組みを知ったということが、あったんですけども、結局予算を査定していく中では、財源がつくからそれはできるとか、財源をつけないとできないとか、そういう議論になりがちだったので、本来やるべきことは何なのか、ということが抜け落ちがちな部分があったと思います。だから、特定財源をいかに多くもらうかとか、そういうことではなくて、何が必要なのかということで、市単独事業であっても、それをやるべきだということがあったら、そっちを優先するとか。そういった考えとかも本来は必要だなと感じながら、仕事をしていました。

稲継   なるほど、平成19年に財政係長に昇格されて、翌年異動されるわけですね、都市計画部の方に異動された。これはどういうお仕事ですか?

須藤   そこは不思議なのですが、財政課で係長になった翌年に異動することはないだろうと思っていたので、引き続き財政課なんだろうなと思っていました。そういうつもりでいたのですが、異動だっていうのでちょっとびっくりしました。まったく携わったことのない福祉や教育の部署への異動の可能性だってあったと思うのですが、異動先は都市計画部の市街地整備課。よくぞこういうところに配置してくれて、ありがたいなという気分でした。
 市街地整備課というのは、事業課です。都市計画課という部署はプランニングが中心の部署ですので、実際に土木工事とかそういったことをやらない部署です。市街地整備課というところは、土木工事を行ったりする部署ということになりますので、そこで、私は初めて工事現場というものに関われることなりまして、とても貴重な経験でした。事務職員でありながら、土木技師と一緒に夜間工事の現場に立ち会ってみたりとか、塗装工事をしていくときに、何回塗る必要があるとか、そういった基準書めいたもの読み込んでみたりとか、そういう経験が出来ましたので、自分の中でそれはいい経験だったと思います。

稲継   ここには何年ぐらいおられたのですか?

須藤   市街地整備課は2年ですね。

稲継   その2年間で何か思い出に残るような仕事とかありますか?

須藤   当時いろんな仕事がありまして、当時区画整理事業を廃止する手続きが必要だというときに、どのような手順で進めていくべきなのかということを考えたりする仕事もしていましたし、水戸駅の北口のペデストリアンデッキをバリアフリー仕様に改修していくときに、デッキに穴を開けてエスカレーターを通すという大工事をやりました。


 水戸市で「まちづくりの仕事」をしたい。高校生の頃からの市で働きたいという強い思いは入庁により実現した。「毎晩飲み会でまちづくりについて喧々諤々の議論をするんだ」と夢見ていたが、現実は違った。そこで自主研究グループを立ち上げ、また、まちづくりの市民団体を立ち上げた。活動をする中で、商店街の人は何でもできることに気づく。すごいまちの人がいることに対して行政職員は向き合っていないと感じた。もったいない。市民とのかかわりをいかせないか。それがコミックマーケットスペシャルの水戸への誘致につながった。政策研究会もまちづくりの会も自然体で臨んだことが長続きしている秘訣だという。続けられる程度のことしかやらない。
 財政課に8年いたあと、市街地整備課に異動する。水戸駅北口のペデストリアンデッキに穴をあけてエスカレーターを通す(?)仕事をした。(以下、次号)


このコーナーは、稲継氏が全国の自治体職員の方々にインタビューし、読者の皆様にご紹介するものです。
ご意見、ご感想をお待ちしています。(ご意見、ご感想はJIAMまで)