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第133回2016.04.27

インタビュー:福岡市財政局財政部 財政調整課長 今村 寛さん(下)

 福岡市で禁酒令が出た。財政課長をしていた今村さんは、イントラネットで悶々としていても始まらないから、一度オフ会で皆で会いませんか、と職員に呼びかけた。会議室は今村さんが抑えた。そこからはじまった「あした晴れるかな」。異なる職場の話したこともない職員同士で顔を突き合わせて話すうちになんとなく答えが出てきた。会って話をする。出かけて行って財政出前講座で話をする。これが今村さんの仕事スタイルの基本となっていった。
 でも、このようなスタイルは急にできたものではない。入庁してからのさまざまな経験が今の今村さんを作っている。


稲継  24年前に入庁されて、最初はどういうポジション、どういう仕事をされていましたか?


福岡市役所

今村  最初は、環境局の産業廃棄物指導課というところで、いわゆる業者の許可を担当しました。それと、当時足りなくなっていた処分場をどうやって確保するかといった計画を立てることもしていましたね。

稲継  どちらも大変な仕事ですね。

今村  当時は、不法投棄が多かったり、産業廃棄物の業者対応に苦慮することもあったりして勉強させられました。

稲継  産廃の処理場所の選定についても、やはりNIMBY(Not In My Back Yard: うちの近くは勘弁して)ということで、地元の反対運動が起こるとか、いろいろと大変なことをたくさん経験されたのではないでしょうか?

今村  そうですね。当時、県と一緒になって、県と一緒に設立した新しい財団法人が産業廃棄物の処分場を整備するという仕事、その財団の設立とか、事業計画の作成をやっていました。その時はうまくいくと思って描いたものが、翌年度以降、全くうまくいかないことを見せつけられて、廃棄物行政というのはなかなか大変だなと思いましたね。

稲継  それが、3年間。その次は、どういうところですか?

今村  その次は、当時、都市整備局というのがありましたが、そこの中で都市計画課でしたね。そこは、ほとんど建築屋さんと土木屋さん、技術屋さんの世界なんですけれども、手続きを行うための事務屋が何人か入っていまして、私はその事務手続きラインにいました。都市計画決定の手続き、審議会、あとは、図面の作成ですね、航空写真図や都市計画総括図とか、そういったものをつくっていました。当時、技術屋さんのエリートが都市計画課に来ていたので、あそこで一緒だった人は、今、みんな技術部門の部長や局長になっています。私、それまで都市計画の勉強を全然しておりませんでしたが、そういうエリートさんの下で、門前の小僧ではないですけれども、4年間で勉強させていただき、事務屋の中では、都市計画法や建築基準法、土地利用や用途規制の話には、かなり詳しくなったと思います。

稲継  そうですか。ここに、4年間いらっしゃって。

今村  4年間です。まちづくりの基礎ですね。どうやって計画をつくり、それが事業になっていくのか、全体を眺めさせていただきました。

稲継  産業廃棄物指導課に3年おられて、都市計画に4年おられて、産廃の指導から都市計画というのも全然違う職場なんですけれども、次の異動先はどういうところですか?

今村  次は、保護課です。区役所の保護課で、ケースワーカーをやりました。

稲継  ケースワーカーですか。

今村  はい。私が平成3年に入った当時は、事務職の半分ぐらいは、入庁した年に、区役所の税部門かケースワーカーになっていて、私の同期もほとんど税部門かケースワーカーになっていたのですけれども、私は本庁だったので「今村、本庁いいな」と言われ、最初の異動も本庁だったので「本庁ばかりでいいな」と言われていました。けれども、私は逆に「区役所、知らないんだけど」という気持ちで「区にも行きたいな、みんながやった税の仕事や、ケースワーカーも1回ぐらいやってみたいな」と思っていましたので、そこはちょうどよく、みんながこっちに戻ってきたタイミングで向こうに行けました。

稲継  ローテーションですね?

今村  それは、それで良かったです。

稲継  ただ、ケースワーカーのお仕事というのは、昔も今もかなり大変なお仕事だと思いますけれども、実際にケースを担当しておられたのですか?

今村  そうですね、まだ担当者でしたので、いわゆるケースワーク、被保護世帯の処遇をしていました。担当する地区の被保護世帯を担当して、自立を指導したり、あるいは必要な支援をしたり、家庭訪問と面談が仕事ですよね。

稲継  何十軒か持っておられて?

今村  当時、100軒ぐらい持っていました。まだ今ほどの状態、増加がある時期ではなかったですけれども、私がいたのは保護率がかなり高い区でしたので、割とたくさん持っていました。

稲継  定期的に世帯訪問をしなきゃならないし、世帯訪問をした際に、自立支援に協力してくださるご家庭もあるけれども「全然、俺は働く気はない」みたいな方もいらっしゃって、法の求めることと、実際に現場で対応しなきゃならないことに、相当ギャップのあることとか、自分なりにいろいろ思うこととかおありになったと思うんですけれども、差し支えない範囲でお話しいただけたら。

今村  これは、今でも若いケースワーカーの職員に言うんですけれども、ケースワーカーは役所の業務の基本だということを私は本当に感じました。それは、多分、20代で行っていたら、思わなかったかもしれないですね。周りに、新人ですぐにケースワーカーになった職員がいっぱいいましたけれども、みんなケースワークを甘く見ていました。みんなというか、多くの人間が、毎月、同じような訪問をして、同じような記録を書いて、同じように保護費を払っていれば、自分の給料も出るし、その被保護世帯からもありがたがられるので「お互い楽しくて、いいじゃん」という感じなのですが、私はそれが嫌だったので、自分で生活保護手帳に書いてある実施要領の勉強をしたりして「これは、こういけるんじゃないか」、「こうやったら自立させられるんじゃないか」ということを、いろいろ考えてやっていました。
 これは、すべての業務に当てはまるんですよね。法と制度が与えられ、現実の事象が与えられ、法・制度と現実の事象を照らし合わせて適合させていく。これが、すべての公務員の仕事の基本だということに気が付いて、飲み会とかで「おまえ、ケースワークの仕事をなめおったら、本庁に行ったら、仕事できんぜ」って。「本庁は、現場がなくて法と制度の仕事をやっているけれども、ここは法・制度と現場の両方がある。しかも、係長や課長に相談しないで、自分で第一次的な判断がほとんどできる。ここで仕事ができても本庁で係長になれる保証はないけれども、ここで仕事ができなかったら絶対に本庁の係長にはなれん」ということを、当時、言っていましたね。それは、今でも言います。やはり、ケースワークが面白くない若手の職員が多いので、最近、出前講座やオフサイトミーティングで会う職員は「そんなふうに言ってもらって、今の仕事に意味があるんだって分かった」と言っていますね。

稲継  なるほど。2年間、ケースワーカーをしていました。次の異動先というのは、どういうところでしたか?

今村  これがちょっと特殊なんですけれども、当時コンベンション課という職場がありました。福岡市は、平成15年に日本医学会総会がありまして、このメーン会場として国際会議場を整備しました。コンベンション課のメイン業務は、この国際会議場を整備することでした。私は平成12年にこの職場に異動したのですが、ちょうどその年、平成12年が国際会議場の整備計画を決めて着工していく年でした。私は2年しかいませんでしたけれども、15年春までに国際会議場をつくるという短いスケジュールの中で、一番安い方法で、一番良いものをつくるというプロジェクトの取りまとめ担当をさせていただきました。道路は道路部門に、建物は建物をつくる部門で整備してもらい、それぞれの予算をどうするか、サインなどの周辺整備をどうするか、施設の運営をどういう体制でやるか、そういったプロジェクト全体の各項目を、全部、私が取りまとめをし、当時は予算要求で財政にこんな分厚い資料を持っていって、6時間とか7時間説明していました。

稲継  その建設担当ですか。私は、平成18年に日本政治学会の常務理事をやっていたときに、世界政治学会・IPSAの3年に一度の大会が日本で開催され、その際、福岡でやることになり、新設の国際会議場を使わせていただきました。当時の日本政治学会の理事の中でメインになっておられたのが蒲島郁夫さんという方で、今、熊本県知事をやっておられるんですけれども、福岡でやることが決まった後、蒲島先生や当時の理事長と一緒に会議場も何回か見せてもらって、すごくいい施設で驚きました。学会をやったときも、他の国からお見えになった参加者の方々も「これは、使いやすい施設ですね」とおっしゃっておられました。当時はまだ2年か3年ぐらいですよね?

今村  そうですね、平成15年の春にできましたので、政治学会の時は、まだ2年ぐらいでしたね。

稲継  そうですよね。とてもいい大会を開催させていただきましたので、この場を借りて、お礼させていただきます。ありがとうございます。

今村  ありがとうございます。当時は市が施設運営の赤字を補填しないといけないという試算をしていました。もう10年ぐらい経ちますけれども、今は利用料金制で施設利用者からの収入で運営経費が全部まかなえるぐらいまで稼働率が高くなり、おかげさまで、みんなに使われている本当にいい施設になりました。

稲継  福岡は、空港も近いし、アクセスという点では、国際会議をするのに非常にふさわしいというか、やりやすい土地ですよね。それは、来ている人はみんな感じているところです。東京でやっても、大阪でやっても、いったん空港についてから会議場というか、近所のホテルに行くまでのアクセスに、相当時間がかかります。アクセスのよさは福岡の強みだと思います。

今村  ありがとうございます。

稲継  コンベンション課に2年おられて、次に、財政課に異動されるわけですね?

今村  そこからが財政です。ちょうど係長に昇任させていただいた最初の職場が、今の財政課で、5年間いました。うちの財政課は、市債や交付税といった財源の仕事が別の課にあるので、基本的に歳出査定ラインなんですね。他局の事業を担当して、それがいい・悪い、経費をいくらでやるみたいなことをずっと精査していく担当です。なかでも5年間で一番印象が強いのは港湾局です。港湾局というのは、当時、埋め立ての事業をやっていて、一番勢いがあり、でも、結構、危なっかしいところがありました。私は港湾局を最初に担当させられて、3年間、港湾局を持っていました。他には、経済振興局や農林水産局、市民局、総務企画局などもありましたけれども、港湾局を持っていた3年間が一番思い出深いですね。

稲継  どういう思い出がありますか?

今村  福岡市の東区に400haの「アイランドシティ」という埋め立てをやっているんですけれども、この埋め立てを市の特別会計が半分、残り半分を博多港開発という第三セクターが埋め立てをしておりました。400haという広大な埋め立てを特別会計と民間資金で、200haずつ埋め立てて港湾関連用地と住宅などの市街地をつくって分譲する、総事業費が4000億円を超える大きな事業でしたが、バブル期に計画されたこともあって結構、事業が大風呂敷になっていて「絵に描いた餅なんじゃないか」みたいな感じでした。当時、「シーサイドももち」という、今、福岡タワーがあるところも港湾局が埋め立てたのですが、そこの土地がうまく売れたので、アイランドシティはその3倍ぐらいの大きさなのですが、全部やりきる、やれるという方針決定の下で進めていました。しかし、平成14年に、それがうまくいかないんじゃないかということで、博多港開発が民間金融機関からの貸しはがしにあっていたのです。貸しはがしをされると事業が進まないので、どうやって金融機関の信用力を高めていくかを港湾局が一生懸命考えていて、市が資金を貸し付けるとか、市が公共施設用地として土地を買うといったことも考えました。私が担当した平成16年には、博多港開発が埋め立てていた200haのうちの、まだ埋め立てていない100ha分の埋め立てる権利を市の特別会計が買うことをやりました。博多港開発の仕事をすでに埋め立てている部分だけでいいという事業の縮小を、私が担当していたときに港湾局と一緒になってやりました。マスコミや議会ではものすごく議論になりましたけれども、それしか事業を継続する道はないということで、16年度の1年間はそれに明け暮れました。

稲継  そうなんですか。5年間のうち、港湾局が3年、ほかの部局も担当されていたことで、5年間、財政係長をずっとやっておられた。忙しい職場ですよね。当時は、どういうふうに感じておられましたでしょうか?

今村  そうですね。財政課に来た当初は、市の全体のことが分かるから楽しく、自分が判断していることが市全体の判断をコントロールすることもあるので、やりがいがあったりしましたけれども、二つほど大きな壁にぶち当たりました。一つが、さっきの博多港開発に代表されるように事業がうまくいかないというケース。この博多港開発と同じ年に、私は市の行うPFI事業を総括して所管するという仕事もしておりました。当時、タラソ福岡事業という、平成14年にオープンにした施設が16年にSPC(特定目的会社)が倒産してしまったというPFI業界では有名な事業がありました。タラソ福岡は、市の清掃工場の余熱利用施設として市民にサービスを提供している施設なので、施設を担当している環境局では後継の事業者を選ぶということで大変だったのですが、私の方では、「どうして破綻したのか」、「PFIという方法は、うまくいかない方法なのか」、要は「PFIというのを新しい物好きで飛びついたけれども、駄目な方法だったのかを検証しろ」というミッションが下りてきて、なぜうまくいかなかったのかを1年くらいかけて、有識者の先生と一緒にレポートを書いたのです。これは、PFI業界ではすごい価値のあるものらしくて、つい先日も、業界の人から褒められたんですけれども。その中で、リスクを見抜けなかった行政が悪かったんだということを幾つかレポートに書きました。
 その時に、たまたま財政局で私と一緒に仕事をしていた部下が、私と同級生、同い年だったんですけど、彼は民間の銀行に採用されて、10年間銀行で仕事をして、いわゆる民間採用枠で公務員に転職してきたんですね。だから、生い立ちが全然違うけれども、同い年。ただ、先ほどの博多港開発の話でも、タラソ福岡の話でも彼は「何でこんな事業計画で、稟議書に判がつけるんですかね」と話していました。銀行に10年いた人間からしたら、明らかにおかしいと。ところが私が見ても、それが明らかにおかしいとは全然分からない。役所の外の世界って、これが明らかにおかしいと思える人の世界なんですね。そうすると、私が財政の係長で切った貼ったして「俺が決めたことが市の方針になったんだ」と喜んでいたけれども、役所の外から見たら何の能力もない、能力の足りない人間が、いい気になっているだけじゃないかとすごく思うようになったんですよ。
 これが一点と、もう一つ、あのクソ忙しさですね。予算編成になったら、毎日職場から帰るのは午前2時、3時が当たり前。時間中も時間外もヒアリングして、みんなが帰った後に査定調書をまとめるみたいな仕事を、毎年10月から2月まで、何日も何日もやっていました。しかも、何でそんなにヒアリングに時間がかかるかというと、お互いがかみ合わないからで、こちらはお金がないから少しでも安く収めてほしいと思っているのに、向こうは少しでもお金をもらおうとするから「これ、もう少し下がりませんか?」、「いや、下がりません」この繰り返しですよね。「要るものは要る」、「ないものはない」の繰り返しです。全く同じ方向を向いていない人間と2カ月も3カ月も議論することに、ほとほと疲れて、何でこんなに方向性がかみ合わないんだろうと思いました。無駄な議論を少しでもなくすためには、最初から同じ方向を向いていないといけないのに、財政は「お金がない」と言いながら、どのぐらいお金がないかを説明していないし、現場は現場で「どうせ財政は8掛けでくるに決まっているから、1.2倍にして要求しておけ」みたいな世界なんですよね。化かし合いしているだけなので、生産性が低いんですよ。
 その二つのことに気が付いて、財政が嫌になりました。忙しいだけで、やっていることは茶番かもしれない。しかも、やっていることのほとんどは、無駄な議論に時間を費やしている。ほとほと嫌になって、出たい、市役所を辞めたいという時期もありました。
 そんなとき、東京財団の市区町村職員向け研修プログラムで、早稲田大学で勉強をし、アメリカにも行ける、半年間学生でいられますといったものがあり、「これ、いい!」と、「外から福岡市役所を見てみたい」と思ったんです。私は大学を卒業してすぐ福岡市役所に入り、民間の経験が全然ないので、「外から福岡市を見たい」と強く思っていました。福岡市の職員として福岡市の外から見るんじゃなくて、市の職員の身分も、それから福岡市に住むということも含めて、全部、外から見れたらいいなと思い、その研修がぴったりでした。東京とアメリカに行ける、学生になれる、そして福岡市役所のことを考えるプロジェクトを半年間勉強することなので、「これは、いいや」と思って、2008年に参加させていただきました。もやもやしているものがその半年間でだいぶ解決しました。

稲継  どういうふうに解決しましたか?

今村  外から見て、自分が今まで「対話」という言葉を、語彙として、ボキャブラリーとしてほとんど使ってなかったことに本当に気が付きました。「対話」が、すごく大事だということ。それから、「巻き込み」です。オーナーシップを持ってもらうことがプロジェクトの成功要因なので、自分だけで考えているのでは駄目で、みんなを巻き込んでいかないといけない。みんなに自分事として思い、「それ、私のことだよね」と思ってもらうことが大事だということが、そこで得た大きな気付きですね。

稲継  なるほど。それは、半年行かれて、戻られて、どういうふうに実践しようとされたんですか?

今村  その半年間のもともとのプログラムが「何か一つ持って帰って、自分の自治体に提案できるプロジェクトを作れ」という研修メニューだったので、研修を一緒に受けた仲間たちはみんな、「コミュニティ形成」とか「子育て支援」とかいったいろいろな施策のプロジェクトの提案書をつくりましたが、私は結局、「予算編成手法改革」という、すごくマニアックなプロジェクトにしてしまったのです。研修受講当時は財政を卒業してすぐだったので、どうやったら財政の無駄な作業を減らせるか、みんなが幸せな予算編成に携われるかということに、一番関心がありました。それをプロジェクトとして提案書をつくったのです。しかし、研修が終わり市役所に帰ったら、市民局のスポーツ振興課の係長になったので、とりあえず予算編成の話は置いておくことになりました。提案書には「査定をしない財政課」のイメージをつくっていました。これは私が財政を卒業するときにみんなに言っていたことですが、「俺がもし、もう1回、財政に戻ってきたら、絶対、査定をしない財政課にするからな」と、夢物語ですけれども、いわゆる完全枠予算主義ですね。そう言っていたのを、プロジェクトで実現するためには、こんなプロセスが必要だというのをまとめていたのです。その提案書ははとりあえず寝かせておいて、しばらくはスポーツ振興課の、これもまたすごく大変な仕事がいっぱいありましたので、1年半ぐらいは対話も巻き込みもなく、スポーツ振興の仕事ばかりしていました。

稲継  スポーツ振興課では、どういう仕事を?

今村  スポーツ振興は、当時、福岡市にはスポーツ振興の基本的な計画というのがなかったので、スポーツ振興の基本計画をつくれというのがありました。それから、その基本計画に基づいて実施するものが大きく三つありました。一つ目は体育館が老朽化していて建て替えなければならず、その建て替えの方針、道筋を立てること。二つ目は、体育に関する外郭団体が二つあったので、その外郭団体を統合するというミッション。三つ目は、地域でスポーツを指導するみなし公務員の一つで、「体育指導委員」という制度があり、この人たちの報酬が地域で活動する他の役職に比べて高いので、それを下げる見直しをするという、三つの問題がありました。「スポーツ振興計画、全然関係ないじゃん」と思いましたけれども、計画の中にそれを位置づけて、実践していけという話になっており、1年半でそれを全部やれと。

稲継  これ、1個だけでもすごく大変な仕事ですよね?

今村  大変でした。おかげさまで、財団統合は無事に済みましたし、体育指導委員の報酬見直しも道筋をつけました。体育館の建て替えも、平成30年オープンを目指して、今、新しい体育館をつくっています。一応、全部やりました。

稲継  短期間で、いろいろ成果を出しておられますね。その後は...

今村  スポーツ振興の後は、平成22年4月に企画課長になりました。そこは、市政運営会議という、市の意思決定の最後の関所、それを担当する総合調整担当の課長をやりました。市長が今何を考えているかとか、各局長は今どんなふうに動いているかとか、今何かコンフリクトになっているかということを探し、調整して、意思決定がちゃんとできるようにするという裏方の仕事に2年間携わりました。

稲継  市政運営会議というのは、福岡市ではどういうものになりますでしょうか?

今村  市長、三副市長と、総務企画局長、財政局長が固定メンバーで、市政の重要なことはその場で決定するというものです。不定期で開催されるのですが、その開催の案件を調査して、「これは、この市政運営会議にかけましょう」というスケジュール管理と、内容の調整をするのが私の仕事でした。

稲継  イメージとしては、国で言う経済財政諮問会議に近いようなイメージですかね?

今村  そうですね。外部がいないので、内部だけの会議ではあるのですけれども。要は、縦決裁ではなくて、役員クラスがみんなでそろって議論して決めようということなんです。ただ、基本は、決定するよりも、市長、三副市長、総務企画局長、財政局長の全員がそろう場を作り、いろいろな市政の難しい案件をどんなふうに処理するかという、処理方法を検討する場所でしたね。決定することよりも、議論、調整することが中心でした。

稲継  その一番重要な会議を、ずっと間近で見られる機会......

今村  ええ、2年間、ずっとやっていました。

稲継  大変だけれども、すごく貴重な機会ですよね?

今村  はい。

稲継  何か感じられたことはありますか?

今村  平成22年と23年の2年間、企画課長をやったのですけれども、そのときに今の市長に変わったんですよ。平成22年11月の選挙で、当時の現職の市長が負けられて、新しい市長、今の高島市長になったんですね。だから、そのときに、市長が変わる、市政が変わる、その時の変わっていくスピードと中身をずっとリアルタイムで追い掛けられましたので、それはものすごく生きていますね。この2年間の間に決まったいろいろな市政の転換について、どうしてそれがそうなったのかということを、多分、誰よりもよく分かっていると思います。

稲継  なるほど。

今村  私は、今、財政調整課長ですけれども、財政調整課長は市政運営会議のオブザーバーメンバーなのです。だから、企画に2年間いたけれども、財政になってからも、ずっとその会議には参加しているので、この市政運営会議室の常駐メンバー、都合6年目ですよね。

稲継  なるほど。一番詳しく、福岡市の中身を知っている立場ですね?

今村  そうですね、知っています。

稲継  ありがとうございます。財政調整課長になられてからは、冒頭にお話しいただいたような、もちろん、財政調整課長の仕事もたくさんやっておられますけれども、それ以外に、三つ、いろいろなものを立ち上げて、頑張ってこられたということです。何が今村さんをそこまで駆り立てるんですかね。

今村  そうですね。エンジンが一度かかったら、なかなか自分が止まれない性分なので、エンジンがかかっちゃったから、今、止められないんだと思うんです。私がさっきお話ししました財政の時に気が付いた二つのこと、一つは自分が市の職員としての能力がない、市の職員に能力がないという公務員としての能力不足を強く感じたことと、それからもう一つは、役所の中で対話がないことで、無駄な仕事、無駄な時間が山ほどあること、その二つのことを強烈に思っておりました。外とつながって対話をしながら、みんなで同じ方向を向いて、餅は餅屋で、みんなでいいものを出し合って物事を進めていくのが一番いいと、そのときに思ったんですよね。それがいいと思っても、実現する方策がなかなかないので、勉強したり、帰ってきて悶々したりしていたんですけれども。それが、ある日突然、オフサイトミーティングという、自分でも全然思ってもみなかったことを始めて、動かしているうちに「これって、昔、財政のときにもやもやしていたことの解決策になるんじゃないの?」と感じたり、つながることの楽しさというのがオフサイトミーティングで分かったり。あるいは、外とつながることもそうですよね。それから、みんなで同じ方向を向こうというのは、「財政出前講座」ですよね。昔、悶々としていたことが「俺、今、これやってるじゃん」みたいな感じになってきたのです。
 昔、それをやらなきゃと思ったわけではないのです。ただ、昔思っていた、ある意味、怨念に近いような、財政課をつぶしてやろうというような気持ちがふつふつと残っていたので、その残り火みたいなものにオフサイトミーティングで火が付いて「これをずっとやっていけば、きっと自分みたいな不幸な人間が出てこないんじゃないか、みんなが幸せになれるんじゃないか」と思ったのです。幸いなことに、今、財政調整課長という役職を頂いているので、今だったら責任を持って、私の権限で予算編成の方法を決められたりするわけじゃないですか。今の間にやれるところまで、いわゆる局区の自律経営をやって、「みんなで課題を共有し、みんなが自分のやれることを、やれるところでやろう」という福岡市役所をつくるのが、今、楽しくてしょうがないです。

稲継  なるほど。お話を聞いていても、すごく楽しそうにお話をされるので、インタビューをする側もとても楽しい気持ちになってくるんですよね。

今村  私は、3年ぐらい前から急にこのスピードが高まっているのですが、スピードが高まっている一つの原因は、みんながそれを「いいね!」と言ってくれるからなんです。そのために私が心掛けているのは、情報発信です。自分が、今、こんなことをしていますということを人に言わないと、人はそれに気が付いてくれないので「こんなことを発信しても、誰も見てくれないだろう」と思わないで発信する。特に、今は、Facebookもあります。私は職員専用の掲示板をよく使っています。市の職員向けには専用掲示板、外向けにはFacebookを使っていますけれども、発信をすると誰かしら何か反応してくれるんですよ。反応してくれると、反応があるからうれしくなり、また出そうとするんですよね。この連鎖というのが、すごく大事です。
 私、この話をするときに、いつも「思いを言葉に、言葉を形に」というフレーズを使うんですよ。自分が思っているだけでは、それは誰も気が付いてくれないけれども、言葉にした瞬間に、まず自分自身の気付きとして「これは言葉にしたこの意味なんだ」と気が付く。それに加えて、発した言葉は人が必ず存在を認めてくれるものになるのです。「思い」だけでは存在じゃないんですよ、心の中にあるだけなので。言葉としてみんなに存在が意識されて、自分も意識し、人も意識したものは、必ず形になる可能性を秘めているんですよね。思いは言葉にしないと形にならない。言葉にすると、言葉はいつの間にかちゃんと人に伝わり、形になっていく。だから、自分が思っていることは必ず表現をして、発信をして、みんなに気が付いてもらう。今、私、Facebookでは2,000人近い友だちがいますけれども、そういう人たちがみんな福岡市の「財政出前講座」のことを知っているし、「明日晴れるかな」のことも知っているし、こうやって取材にも来てもらっているので、これに価値があることはみんなが認めている。だから、私は安心して3年でも5年でも続けていけると思っている。そういういい連鎖につながっていくので、最初は思いを言葉にすることだろうなと思います。

稲継  ありがとうございます。いいキーワードを頂きました。今日、こちらに来させてもらって、あちらこちらで耳にする幾つかの話が、ようやく私の中でつながってきた気がします。
 今日は、今村さんにお話をお伺いしました。長時間、ありがとうございました。

今村  ありがとうございました。


 産廃、都市計画を経験した後、区役所のケースワーカーとなった。100軒の生活保護世帯を回り、現場の裁量を委ねられる。そこで、法・制度と現実の事象を照らし合わせて適合させていくことが、すべての公務員の仕事の基本だと身をもって体験した。その後、財政課で外の世界から見た場合の公務員の甘さも実感した。財政係長で切った貼ったして「俺が決めたことが市の方針になったんだ」と喜んでいたけれども、役所の外から見たら何の能力もない、能力の足りない人間が、いい気になっているだけじゃないかとすごく思うようになったという。恒常的な2時、3時までの残業も異常に思えた。要求部局と査定部局に分かれて不毛な交渉を続ける意味はあるのだろうか。
 この2つの気づき、一つは自分が市の職員としての能力がない、市の職員に能力がないという公務員としての能力不足を強く感じたこと、もう一つは、役所の中で対話がないことで、無駄な仕事、無駄な時間が山ほどあるということの気づき。これらが、今日の今村さんの様々な活動につながっている。外とつながって対話をしながら、みんなで同じ方向を向いて、餅は餅屋で、みんなでいいものを出し合って物事を進めていくのが一番いい。
 機関銃のように話し続ける今村さんは笑顔をいつも絶やさない。その人柄にぐいぐいひきこまれてロングインタビューとなってしまった。予算編成の山場、一番忙しい時期にである(申し訳ありません)。
 今村さんの笑顔の向こうに、確かな自信と今後の財政担当者の進むべき方向を垣間見た気がする。


【取材後記】
 筆者は福岡にはかれこれ20回以上訪れていますが、特にここ数年活気に満ちているように感じます。10年ほど前には、今、道頓堀や銀座で見られるようなインバウンドの賑わいがすでに始まっており、大阪と東京を生活圏としていた身には珍しく映りました。今では当たり前の光景になっていますが。さらに2011年の九州新幹線の開業は、九州内各県からの吸引力を高める方向に働きました。九州だけでベルギー1国に匹敵するGDPがあります。その中心地福岡を支える様々な戦略の一端を福岡市が担っていますが、従来は司令塔と考えられてきた財政課が、実は内や外とのつながりを大切にし、皆で知恵を出し合って戦略を練り上げているということを知り、合点がいった気がします。
 今回の取材は、筆者のスケジュールの関係で、予算編成期の一番忙しい時に取材させていただくことになり今村さんには大変申し訳ないことをしました。にもかかわらず、時間をとって真摯に取材に対応していただいたことを心から感謝します。次の福岡訪問は、今村さんの時間の余裕のある時期を狙って行き、是非、ゆっくり一献酌み交わしたいものです。