メールマガジン

第131回2016.02.24

インタビュー:高山市 ブランド・海外戦略部長 田中 明さん(下)

 人口9万1千人の高山市が市のブランド海外戦略にかける意気込みはすごい。観光誘客のために12か国語による観光マップや多言語によるブロック道案内をつくり、また、市内中心部には旅行者向け無料Wi-Fiをめぐらしている。Wi-Fiも旅行者の通信手段というだけでなく、それを利用した旅行情報や緊急情報の発信にも活用し、また、次の観光誘客に向けた情報収集にも利用している。高山市という点ではなく、周辺の各市や県を超えた他の観光地との連携も次々に進め、面としての観光を進めている。


稲継  ブランド海外戦略部長として、今後の海外戦略、今後高山をどういうふうに目指しておられるんでしょうか?

田中  国も今一生懸命やっていますし、他の自治体もやり始めていらっしゃいます。私どもとしては、競争するのではなく、できたら連携してやりたい。こんな言い方をすると、ものすごく生意気に聞こえるかもしれないのですけれども、競争する以前の立ち位置に立ちたいと思っています。「高山と競争?ちょっと勘弁してくださいよ」というくらいの立ち位置に立って、「できたら、一緒にやりましょうよ」と言っていただけるような、そういった施策をしたいですね。今やっていることは当然進めますし、連携は他の自治体の方とどんどんしていきたいです。


名刺(外面)


名刺(内面)

稲継  なるほど。 田中さんの名刺は、見開きというか、名刺2枚分のものを見開くような名刺があって、普通、首長さんとかの名刺をいただくと、ここに我が市の数字が並んでいたり、我が市の誇れるものとか、三大祭りとかが載っていたりすることが多いのですが、田中さんの名刺は、これを見ますと、高山はごく点でしかなくて、他が下呂温泉、名古屋、岐阜、兼六園は金沢ですよね。白川郷とか松本城とか、全然違う市のことをいっぱい宣伝しているんですよね。これは先ほどおっしゃった連携と絡むようなものですかね?

田中  兼六園もいいですが、ひがし茶屋街、ここもいいですよね。何回も行っているんですけど五箇山も素敵ですし、1回行ったことがあるんですけどアルペンルートも見応えがあります。やっぱり、先ほど言ったように高山だけにいらっしゃるわけではないので、いろんな所にも行っていただきたい。
 私たちは、金沢市さんや松本市さん、白川さんとはいつも連携していて、本当にコミュニケーションも結構とっています。暗黙の了解の中で、自分たちだけじゃなくて、それぞれをPRしますよという、そういう立ち位置でやっているんです。

稲継  なるほど、なるほど。

田中  それと、市町村レベルだけだと県境を超えるのは割と楽なんですよ。県同士だと難しいと思うんですけど。松本は長野県、高山と白川は岐阜県ですよね。五箇山は南砺市で富山県です。金沢は石川県です。長野、岐阜、富山、石川と4県にまたがっています。
 どこか行くときに、たまたまナビで「富山県に入りました」と言うので、「ああ、ここから富山県か」と思いますけど、普通だと、県境とか意識しませんよね?

稲継  意識しないですね、普通の市民にとっては。

田中  多分、外国人は特にそうだと思うのです。そう考えるとこういう連携したPRをしなければ、最終的には自分たちにメリットがもたらされないのではという気がしています。市長もいつも言っておりますが、「高山は通過点でいい」と。本当は泊まってもらいたいというのが、本音にあると思うんです。魅力があれば泊まっていただけるし、ここを拠点にして周辺を回っていただく、ということをやりたいなと思っていますが、それには率先してPRしないと。

稲継  なるほど、なるほど。
 おっしゃることは、自分が旅行者の立場になるとすごく分かります。海外のどこかに旅行をしようという時に、○○市のホームページに入るとその市のことしか分からなくて、その前後どう動いたらよいかよくわからない。結局、旅行計画を立てる時は出版社や旅行会社が出している本やパンフレットに頼らざるを得ないことが多いんですよね。それは、各自治体が自分の市の宣伝に熱心なあまりゆえのことであるのですが旅行者にとってはありがたくない。市の境を超えて連携を取ってもらうと、旅行者にとっては、とてもありがたいことですよね。

田中  本当にそれぞれ魅力がありますし、金沢は私は何回も行っているんですけど、いい所ですね。五箇山、菅沼、相倉も結構いい所ですし、白川も、みんないい所です。

稲継  いいところですよね。

田中  ロープウェイもいいですし、下呂温泉も本当にいいです。

稲継  田中さんからすれば、市の観光地図みたいなのを作って、市の境を超えたら真っ白にするのは、もってのほか ですよね?

田中  もう、言語道断ですね。自分のところに来てもらいたいんだったら、一生懸命に連携してやっていくということをしないとダメだと思います。なかなか難しいですが。でもそれはいつも肝に銘じています。
 ミシュランの三つ星になっているのが金沢の兼六園、五箇山もそうです。白川もそうです。高山もそうです。松本城も三つ星なんですよ。この前、それぞれの首長がみんな集まって、三ツ星を活かして、これからもっと広域的な連携をしていこうという会議があったんです。国内も国外もみんな連携しようということで、その第1回目の会合がありました。
 そこで首長のパネルディスカッションがあったんです。松本市からは副市長さんがいらして、あとは市長、村長がいたんですね。正直言って、パネルディスカッションで何を話したのか憶えていないんですけど、首長同士は仲が良かったということだけは良く伝わって来ました。分かり易く言うと、それぞれの首長さん方が、絶妙な掛け合い漫才みたいなことをやっていましたから。

稲継  そうなんですか。

田中  それだけ仲が良かったということなんでしょ うが、そういうのも珍しいなと。首長があれだけ仲が良ければ、私たちも仲良く、究極は市民の方も仲良くなりますね。実は松本は高山の姉妹都市なんです。

稲継  そうなんですか。

田中  そういうのは、大切だなと思いましたね。

稲継  なるほど。

田中  例えば、近くにある白川郷は世界遺産、金沢市さんも今は北陸新幹線も通って集客の原動力になっています。市長が言っているのは、高山はコバンザメ商法をしていると。「白川と金沢に私はくっついていくんだ」。そういう冗談を言いながらシンポジウムをやっていたわけです。象徴的に言っていますが、こうした関係がもっと日本中に広がっていけば、本当にきらっと輝く地域が、日本中に出てくるのではないかと思いますね。

稲継  なるほど、ありがとうございました。 田中さんが今、携わっておられる仕事を中心にお話をお伺いしてきたんですけれども、振り返りまして、もともと田中さんは、高山市内にお生まれ、お育ちということで、大学ぐらいから外に出て?

田中  そうですね、大学で外に。

稲継  大学から外に出て行かれて、すぐに戻ってこられたわけではないんですね?

田中  大学を卒業して戻る...ご多分に漏れず、高山には働くところがないんですね。若い方が魅力を感じるようなところが少ないので、自分もそうだったのですが、大学を卒業してからは、高山に戻らず、東京の商社、といっても本当に小さい会社だったんですけど、そこで働かせていただきました。

稲継  最初は商社に勤めておられて、小さな商社と先ほどおっしゃったんですが、大きな商社だと全部、あなたは繊維ですよ、あなたはゴムですよと配属される。その後は、一生繊維だけやるとか、繊維の中のバックオフィスだけをやるとか、細かく分かれてずっとそのルートでいくというのが普通なんですけど、小さな商社なら、いろんなことをやりますよね?

田中  やりました。社長は大きい企業のベアリングの会社に勤めていまして、そこを辞められて自分で立ち上げた小さい商社です。基本的にはベアリングだったのですけれども、つま楊枝からプラントの一部まで、他に綿菓子を作る機械とか、キューバにパラシュートとか、ほとんどが輸出中心でした。
 貿易実務も、銀行の決済、貿易の独特な決済や、船荷証券の申請とかいろいろやらせていただきましたし、お客さんが見えた時の接待もしました。
 今でも憶えているんですけど、お客さんを牛丼屋さんに連れて行って、怒られたことがあります。若かったので、「ここはうまいから」と言って吉野屋の牛丼に連れて行ったんですね。そしたら「何でそんな所へ連れて行ったんだ」と後で怒られたことがあります。いろいろと勉強になりました。

稲継  非常に幅広くいろいろやっておられたと。そして、たぶん、そのときに英語もだいぶ勉強されたのでは?

田中  英語圏の会社とは取引がなかったのですけれど、どうしても取引では英語を使いました。社長に、「おまえ英語を勉強してちゃんとやらなかったら、給料減らすぞ」と言われて。

稲継  怖いですね。

田中  社長に言われるとやっぱり神様みたいで、入ってまだ若かった純粋な若者だったものですから、本当に毎日30分、2年間は続けましたね。

稲継  毎日続けるって結構大変ですよね。

田中  そうですね。お金もなかったので、NHKの英会話や、意外と役に立ったのが、大学受験の時に使った長文の問題集とかあるじゃないですか、そういうものをテキストにして、毎日やらせていただきました。

稲継  そうですか、それが今につながっている。

田中  そうですね、あのときに勉強したのが基礎になっていますね。

稲継  先ほどのお話では高山市が募集していたので、Uターン受験したということなんですね?

田中  そうです。

稲継  受験されて受かって入られました。最初の配属は?

田中  たまたま統一地方選挙があった年で、最初の2カ月は選挙管理委員会にいたんです。そして、ちょうど選挙が終わった月に高山で初めて国際部署を専門に行う部署を立ち上げたんですね。これは岐阜県の中でも初めてでした。国際係だったんですが、ある日仕事場に帰ったら、職場に島が一つできていまして、

稲継  ほうほう。

田中  田中君の席は「明日からここだから」と。

稲継  ほうほう。


高山市役所

田中  「はい?」と言うと「国際係ができたから、そこだ」と。ちょうどその時に、高山市内の短期大学で教えることになった方の旦那さんが、大学を通じて「市役所で働かせてくれ」と頼んだら、ちょうどいいということで一緒に働くことになりました。私と2人だけで、それで国際係と。

稲継  2人だけの係で。

田中  高山は1960年にアメリカのコロラド州デンバー市と姉妹都市になりました。デンバー市からの高校生や使節団の受け入れといった国際交流、昭和61年に国際観光都市宣言をして、62年から本格的に多言語化などにとりかかり始めたんです。それで、市内のいろんな看板の英語表記であるとか、海外からお客さんが来られた際のアテンドとか、そういったことをやらせていただきました。

稲継  国際係ができたのは、宣言の次の年?

田中  そうです。昭和62年の7月です。

稲継  ちょうど今からやっていくという時に、田中さんが関わられたのですね。多言語化は、今では当たり前になっていますけども、当時はなかなかしんどいことじゃなかったんですか?

田中  そうですね。観光課が中心に取り組んでいたのですが、観光課の職員といろいろやらせていただきました。例えば、宮川はどうやって訳すか、「朝市のおばちゃんに、Miya riverと言っても分からんやろう。宮川やろうな」ということで「Miyagawa river」とか。例えば、神社も、日枝神社と言えば分かるのですが、「Hie Shrine」と言ってもピンとこないので、「やっぱり、Hiejinjya Shrineやろう」とか。「Kokubunji Temple」とか。「Naka Bridgeじゃなくて、Nakabashi Bridgeだろう」と言いながらやっていましたね。

稲継  そういうふうに作っていったわけですね。面白いですね。

田中  結構楽しかったです。それが多分、基礎になっていると思います。私が基礎をつくったという意味ではなくて、そういうやりとりの中で、「日本人にも外国人にも何なのか分かるというような表現を使おう」といったことをいろいろ話しながらやったのは、今でも憶えています。楽しかったです。

稲継  それまでは、高山も多言語化は全然してなかったのを、一からそれをやっていったということですね。なるほど、ありがとうございます。
 ここで、どれくらいの間務められました?

田中  16年です。

稲継  え!16年おられた。Uターンで入庁されて、2カ月間、選挙管理委員会の後に?

田中  そうですね。

稲継  そのあと16年おられた。16年、先ほど冒頭に、ずっとお話をしていただいたようなことをやってこられたんですね。
 16年おられた後、どちらに?

田中  その後、教育委員会に配属になりました。

稲継  教育委員会、どういう仕事でしたか?

田中  教育委員会でも教育総務課という部署で、学校のIT化や学校建設、教育委員会組織などの担当でした。そこでもいろいろ学びましたし、ちょうど教育委員会に入ったくらいに合併の話が本格的になってきました。
 合併にも新設合併と編入合併の二通りありまして、高山市は編入合併にこだわったんですね。高山市は飛騨地方で中心的な役割を果たしていましたし、財政的にも割と健全だったので、最終的に高山の行政運営に合わせてもいいという9つの町村と合併しました。
 合併に伴って様々な調整がある中で、条例であるとかスクールバスの運行規則、使用料であるとか教育委員会が主管する施設運営の調整などを担当しました。
 細かく、しかもそれぞれの自治体で制度なども異なっていたので結構大変でした。例えば、スクールバスの運行も高山の基準に合わせるものですから、「今まで部活にも使っていたのに何で使えなくなるの?」など住民の皆さんから結構抵抗がありました。
 平成17年の2月1日、大雪が降った日ですけど、うまく合併の日を迎えられて良かったと思いました。

稲継  10市町村の合併で非常に面積の広い市になりましたね。どれぐらいですか?

田中  東京都と同じです。

稲継  東京都と同じ、これは、大阪府や香川県よりも大きい一つの市ですよね。この一つの市の中での教育全体の統括は、なかなか大変なことだと思います。

田中  そうですね。学校を回るだけでも1日では足りなかったです。

稲継  そこに3年ぐらい?

田中  そうですね、3年おりました。

稲継  その次に動かれたのが?

田中  合併して旧町村の役場が支所になりまして、久々野支所への配属になり、そこで地域振興を担当させていただきました。

稲継  合併した相手の地域振興課長をやっておられた、総合支所方式ですか?

田中  そうです。

稲継  総合支所の地域振興課長をやられていたということで、具体的にはどういうことをやっておられたのですか?

田中  合併の調整がまだ経年で残っているものがありましたので、その調整と合併した後の地域活性化ですね。合併前の町村では、高山市ではやっていないような手厚い行政サービスも行っておられました。それを高山市の基準に合わせるという調整を行いました。
 また、そこにある資源をどう生かして今後の地域振興に生かしていくか。加えて、支所単位だけではなくて、周辺の支所とも連携した地域振興を進めることを担当していました。最初はやはり、私が課長であってもこっちを向いて話をしてもらえませんでした。「何しに来たんだ」とか言われて。「誰に言われて来たんだ」とも言われました。「また高山市が来たのか」と、同じ高山市ですけど。

稲継  やっぱりよそ者扱い?

田中  そうですね。ただ、そこで一番感じたのは、高山の中心地 、少なくとも今私が住んでいる地域に比べて、住民の方たちは、自分たちで地域を維持しようという思いが強いなと思いましたね。
 例えば、時期になると列ができてしまうほど人気があるアップルパイがあるんですが、アップルパイを作って、それを売って、今でいうブランド化のようなことを地域のおばちゃんたちがやるんですね。
 ある時、そこのアップルパイを作っておられるおばさんが、「今日は本当に充実した1日だったな。今度息子も帰ってくるし...」という話をしていらっしゃるんですね。そのとき地域振興って「これしかないな」と実感しました。
 地域振興のためにいろいろアドバイザーを招いた中に早稲田大学の先生がおられて、その先生に「地域振興って何ですか?」とお伺いしたことがあるんです。先生は「まず最初に、君がここに住まなければいけない。アパートを借りて。」と言われました。半分冗談だったのですが、続けて言われたのが「住んでいる場所で、生業ができることだよ。そこで生活ができることだよ。」と。
 それを聞いた時に、その話とアップルパイのおばさんの言葉がつながって、行政がブランド化とか、地域の何か一品を作るとか、地域のためと思ってやっていることが、そこの人たちの生活や暮らしに必ずしもつながっていないのではないか、ということに気づいたんですね。それが一番大きかったですね。
 また久々野では、いろんな方とお話をする機会があったんですが、やはりその地域の方の話を聴かなければいけないなと実感しました。
 もっと言えば、合併する前の町村の職員の方というのは、職員でもあるし、地域住民でもある、本当に境がないくらいの活動をしていらっしゃるんですね。仕事がどうこうの前に、消防団員で活躍していらっしゃるとか、自治会で大切な役割を担っていらっしゃるとか、地域に密着した活動をしておられるんですね。
 それを目の当たりにして、自分が行政の職員として、今までやってきたことについての意識が変わりましたね。地域の方々には本当にいろいろと教えていただきました。
 私は、全ての職員が、地域の方と近い関係を持つことができる部署に行く機会を、絶対に持つべきだと思います。

稲継  なるほど。ありがとうございました。
 その久々野に2年おられて、それから、本庁に戻られて?

田中  そうですね、それから本庁の地域振興室長になりました。実は、今の仕事内容より、地域振興の方がいいなと思っているんです。
 合併前の町村地域の地域振興の施策を取りまとめる役割だったんですが「こうしたらどうですか?」とか「ああしたらどうですか?」とかアドバイスをしたり、地域と行政の繋ぎ役をやったりしました。
 高山には高根という地域があるんですが、本当に山を越えると長野です。ちょうど、朝日という地域から高根に行くときに細い道があるんですよ。忘れもしない10月23日です。そこに車で行ったんです。そこにはカラマツ林があって黄金に色づいていたんです。要するに、カラマツが紅葉していただけなんですけど、すごくきれいで、鳥肌が立つどころではなくて、ハイジが「山が燃えている」というのがあるではないですか、本当に山が黄金に染まっていたんです。それに、散ったカラマツの葉が、まるで道に黄金の絨毯を敷き詰めたように広がっていたんです。それを見てとても感動して、こういう地域に実際に住んでいらっしゃる方々がいるということを実感し、以来、地域をくまなく回らせていただきました。
 ある時、白川の手前の荘川という地域の観光協会長さんに高山地域振興予算を説明する中で「これからこの予算も10年経つとなくなるし、それまでには、どうのこうの」と行政の理論を話したんです。そうしたら、その方が突然怒鳴り出したんですね。「おまえは何しに来たんだ」、「これまでこうやってきて、云々」と言って。その方は、自分の言ったことに対して、アドレナリン値が上がって、だんだんと興奮してこられて。70歳を過ぎておられるんですけど、私のようなこの若造に向かって真剣に怒鳴ったんですね。それを見て、私は感激しました。この方は、ここまで真剣に怒鳴るだけのことをこれまでやって来られたんだなと。こういう方々に支えられて地域が今まで存続したんだろうし、おそらく合併した後も、やっぱりそういった方々が地域を支える存在になるんだろうなと漠然と実感しました。
 その方はたまたま70歳を過ぎておられたのですが、必ず核になる方が、合併前の地域には何人かいらっしゃるんですね。そうした方々は、やっぱり自分の職業も持っていらっしゃる。地域のことに関わらなければ自分の仕事ができるわけですよね。仕事ができる時間を割いてでも、地域のことを考えて一生懸命やっていらっしゃる方はいらっしゃる。行政は、そうした方々や地域に、真摯に相対する必要が絶対にある、と思ったのですね。
 行政の理論でものを言うのではなくて、そういった方々の思いを受け止めて、人間関係を構築した上で対話をすれば、必ず話は聴いていただける。このことは今も職員と共有してやっています。信頼関係を築いた上で、本当にベタな言い方ですけど「おまえがそこまで言うのならいい、分かった」という関係。個人的なベタベタした関係を築くのではなくて、行政という立場を残しながらも住民の方たちから信頼を得るように努力する。それには話を聴いて、真摯に聴いて、足を運んで、対話をする。こういう姿勢は基本中の基本だなということを、久々野の地域振興課や地域振興室にいて学んだことですね。
 一生懸命ですもの、地域の方って。良い悪いは別にしても一生懸命です。その一生懸命さには、一生懸命に応える必要があります。

稲継  Uターンで入庁されて16年間、海外、国際関係をやっておられました。その後、教育総務、あるいは久々野支所、そして、地域振興室ということで、8年ぐらい国際関係を離れ、地域現場にどっぷり漬かっておられた。それが、平成23年の4月に海外戦略室というのが新設されて、そこで室長になられます。8年ぶりに国際、海外の方に戻ってこられたわけですね。 どういう意図で海外戦略室というものが作られたんでしょうか?

田中  平成23年の4月1日にできたんですけども、今の市長の思いの中で、それまで、誘客のインバウンドは観光課、物販は商工課、国際交流は別の部署が担当していたのですが、それに横串を通して一体的に海外への取り組みを戦略的に行う部署として立ち上がったのが海外戦略室だったのです。物販する時も誘客したり、誘客する時も交流したり、交流する時も物販をしたりと、平たく言うとそういうことなんですけど、それに初めて取り組んだのが23年4月からでした。

稲継  その時に室長となられたということで、その横串にするために、どういうことをやっていかれましたでしょうか?

田中  実は観光や物販はそれまでやったことがなかったんです。最初は、ちょうど震災が23年3月11日にあり、ガタッと外国人の観光客が減ってしまいました。最初の1年は無我夢中で、とにかく高山始まって以来の危機だということで、そこら中、走り廻りました。その過程の中で、これまで観光に携わってこられた民間の方々、農政や、商工、交流ですと、当然、市民活動とか、教育委員会とかいろいろありますので、あちこちへ走り回って、やれることをやってきました。
 そんなことをしているうちに1年間は過ぎていきました。もったいないといえばもったいなかったのでしょうが、その中でいろんな葛藤もありましたし、学びました。そのおかげで、2年目から腰を据えてやれるようなったのか、という気はしました。

稲継  なるほどね。その後、海外戦略室の担当部長になられ、今年の4月には、ブランド海外戦略部というのが創設されて、そこの部長になられる。まあ、16年やられて8年間地域現場を経験されて、また、国際関係でここ4~5年やってこられていますよね。今、取り組んでおられる話については、冒頭にいろいろお聞きしたんですけれども、今の仕事で、8年間の地域現場勤務、市民に近いところで勤務されていたことは、どういうふうに生かされているのでしょうか?

田中  実際に地域振興に携わる前に持っていた市役所の職員としてのいろんな思いとか価値観が、やっぱり違うんだと思いました。

稲継  違う?

田中  要するに、実際に市民の方とお話しすると、いろんな価値観や思いがある。私たちだけの思いを通そうと思っても、絶対に無理だなというのが分かりました。学んだのは、一番最初に早稲田大学の先生に言われたことです。住民の皆さんが、日々の生活、充実した暮らしを過ごすというのが、一番ですね。
 今の取り組み、例えば海外へ物を売るとか、海外からの誘客、海外との交流というものを、一見結びついていない事柄、例えば丹生川で一生懸命子育てしているお母さん、一人暮らしで水道が止まっても山水で暮らしているおばあさん、日々の仕事に精を出しているお父さんといった方々との生活にも結びついていかなければいけないと思っています。そういった方々のための仕事にしていかなければいけなんだ、ということを私の価値観にしています。
 もちろん、実績として観光客が増えて、集客率が上がって、観光自体そのものが経済的な波及効果を上げていくというのは当然ありますが、それが、住民の皆さんの日々の生活につながっていなければ意味がないと思います。それを、今の職員の皆さんと共有して、住民の方々の生活を常に想像しながら仕事をすることを大切にしています。
 頭にあるのは、おばちゃんとかおじいちゃんとか、怒鳴っていただいた観光協会の会長とか、久々野でお世話になった方々、そういった方々が常に頭の中に浮かんでいますね。それがなかったら、やる意味はないと思います。
 市の職員はどこの職場にいても、そうした思いをもって仕事をすれば、やりがいを持った仕事ができるのではないかと思います。「ああ、こういった方々のために私は仕事をやっているんだ」という思いで、やっていくことが一番だという気がしますね。

稲継  なるほど、ありがとうございます。今日は高山市のブランド海外戦略部長の田中さんにお話をお伺いしたのですが、最後にこのメルマガは全国の市町村職員、それから、都道府県の職員もたくさん読んでおられると聞いています。何かメッセージがありましたら。

田中  たまたま私は高山市の職員で、たまたまインバウンドといった海外戦略を担当していますが、地域について同じ悩みを抱えている自治体は沢山あると思います。是非、そういった悩みを共有して、自分の所だけでなく、他の地域と連携をして、良いところをさらに伸ばして、足りないところを補うような、そういったことをお互いにやっていきたいです。むやみに他地域と競争するのではなく、「連携してやっていきましょう」と、そういうことをぜひお願いしたいですね。

稲継  ありがとうございました。田中さんにお話を伺いました。どうもありがとうございました。お世話になりました。

田中  どうもありがとうございました。


 地域の観光協会長さんに予算説明をした時に「お前は何しに来たんだ」と怒鳴られたことに反発するでもなく、落ち込むでもなく、「感激した」という田中さん。こういう真剣な方に支えられて地域が存続していることを実感したという。
 仕事の時間を割いてでも地域のために尽くす人々に支えられて地域が存続している。そういった方々の思いを受け止めて、行政の理論でものを言うのではなく人間関係を構築することが大切だと力説する。個人的なベタベタした関係を築くのではなくて、行政という立場を残しながらも住民の方たちから信頼を得るように努力する。話を聴いて、真摯に聴いて、足を運んで、対話をする。こういう姿勢は基本中の基本だ、と学び、ブランド海外戦略においてもそれを実践している。単なるインバウンドを増やすというだけでなく、それによりいかに高山市という地域がより良いものになるか、地域の人が幸せになるか、常に考えておられることが話のはしばしに出ている。


【取材後記】
 昭和52年に訪問して以来実に38年ぶりに高山を訪れました。古い町並みは昔のまま保存されていますが、以前訪問したときはもっと人も少なく、また外国人はほとんどいなかったように思います。しかし、この日はおそらく6、7割が外国人という感じです。変わりようにたいそう驚きました。次のサイトの口コミも同様の驚きが書かれています。
 http://4travel.jp/domestic/area/toukai/gifu/hida/takayama/hotplace/11286758/
 ホテルに戻り、(「Happy Hour 500円/drink」という看板にひかれて)少し早めのビールをレストランで飲んでいると、次々に観光客が戻ってきてビールやワインを飲んでいます。英語だけでなく、スペイン語やらフランス語やら(おそらく)東欧の言語やら、いったいどこの国のバールにはいったかと勘違いするほどでした。唯一ウエイトレスさんだけが日本人でした。
 翌朝、宮川の朝市に出かけました。
 http://www.asaichi.net/hida/ex.html
 やはりお客さんの半分が外国人という感じです。これも38年前にはなかった光景です。佃煮屋さんの店先で試食品の中身が何なのかよくわからずにいた方に説明してあげたことがきっかけで年配のご婦人たちと10分間ほど数店を一緒に回ったのですが、道々彼女たちがどこから来たか聞いたら「ウクライナ」との答えがありたいそう驚きました。単なる爆買いブームに乗ったわけではない地道な観光誘客がたくさんの国からのインバウンドに成功していることを実感しました。

 高山市で見聞きしたことや田中さんのことを学部3年生のゼミで話したら、学生たちが「ぜひ訪れたい」と主張します。結局、2015年の春合宿は高山市において行うことになりました。合宿担当幹事が2か月ほど前に宿を予約しようとしたのですが、学生14人が泊まる、あまり高くない宿がなかなかとれません。なんとか2か所に分かれて宿泊することになりました。このメルマガが掲載されている頃には合宿が終わっているはずなのですが。。。さてどうなっていることやら。