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分権時代の自治体職員
第126回2015.09.24
インタビュー:出雲市斐川支所産業建設課 主任 勝部 宏樹さん(上)
日本の成長戦略の一つに掲げられている「農家所得の向上」の鍵を握るのは、意欲的な農家(担い手)に農地を集めて農作業を効率化し、生産コストを下げる「農地集積」だといわれている。これは優良農地を確保し耕作放棄地を解消するものである。
2013年末に農地中間管理事業推進法等が成立し、国においても「農林水産業・地域の活力創造プラン」が策定されるなど,農地集積による生産性の向上を図るため「農地中間管理機構」の創設を含めた農地中間管理事業を推進することなどの施策が新たに打ち出された。
これよりもかなり早く積極的に取り組みを進めてきたのが出雲市斐川町地域であり、先進事例として紹介されることも多く視察も相次いでいる。
その具体的な取組等についてお話をお聞きする。
稲継 今日は出雲市斐川支所の産業建設課にお伺いして、勝部さんにお話をお伺いします。よろしくお願いいたします。
勝部 よろしくお願いいたします。
稲継 勝部さんは最初は民間企業に勤められたんですよね。どういう業種でしょうか?
勝部 銀行です。
稲継 銀行業。そこから斐川町役場に入庁して、最初に配属されたところが農林振興課と。最初に辞令を受けたときに、どういうふうに思われましたでしょうか?
勝部 正直、びっくりしたというか、そもそも、今まで経験したことない業務でして。農業という概念は分かっていましたけど、それを市町村としてどのように業務としてやっているんだろう、というところからだったので、まったく分からない状態で入りました。
稲継 ゼロスタートで携わり始めたという?
勝部 はい、ゼロスタートで、
稲継 当時の町の政策はどのようなものだったのでしょうか。
勝部 当時の斐川町ですけど、農業振興だけじゃなくて、工業振興、特に企業誘致というのもすごく力を入れてきた町でした。今でいう農・商・工連携を当時から推進し頑張っていたというのがすごく印象に残っていますし、それができるようなベースがある町だったというふうに思って、仕事はしていました。農業も盛んだし、工業も盛んだというイメージを持っていました。
稲継 主にその中でどういう仕事を担当しておられたんでしょうか?
勝部 今もですけど、農業政策の主軸は米の生産調整・需給調整ということなんですけども、国内では、米の消費量は年々減少し、米は余っているので、どうしても、皆さん農家がすべて米を作ると米価が暴落してしまう。それを何とか調整するということで、もともと国が始めた減反政策というのがあって、当時は、まだ行政側でこの生産調整をしている時期で、今はJA等の農業団体が中心になってやっているんですけど、当時は市町村で主体的にやっていたんです。それを担当させてもらったのがスタートですね。
稲継 なるほど、具体的には生産調整を町役場がやるっていう場合は、どういうプロセス、なんでしょうか?
勝部 町内の各農家が耕作している全ての水田において、そこで何を作られるかというのをすべて提出していただいていて、それを確認していくという業務でした。それをやることによって、町内の農業構造というか、ベースみたいなものがすごく分かることができた気がしますね。
稲継 じゃあ、どういう農家で何と何を...。
勝部 作っているとかですね。
稲継 全部把握?
勝部 町内のどの辺でどういったものが作られていることが特徴だとか、土地条件の違いによる栽培作物の違いとか。
稲継 なるほどね。
勝部 といったことが徐々にですが、分かったと思います。
稲継 じゃあ、町の地図というか、マッピングの中に自分の頭の中にあの辺はこうやっているけれども、というのが蓄積されていったわけですか。
勝部 まあ、徐々にですけれども。
稲継 なるほど。で、その後、集落営農組合の設立支援とかそういうことにも携われていたとお聞きしているのですが、これはどういった業務になりますでしょうか?
勝部 国内の農業情勢を考えるとなかなか個人の農家だけで農業はできてないので、今も全国的にも多いんですけど、自治会とか集落でまとまった農業をしようというのが、集落営農という形なんです。当時、やっぱり斐川地域でもこの集落営農が盛んに動き始めた時期でして、そういったものの立ち上げの支援をJAさんとやるということですね。
稲継 法人化というのは当時から?
勝部 そうですね。本当に当時、法人化を推進し始めた頃で、それまでは集落で固まって任意の営農組織で農業をやっていたんです。やっぱりきちんと法人格を持って農業経営をしていくという流れも当時からも始まりましたので、それも担当させていただきました。
稲継 そういった業務をやられるときには役所の机の上で何かいじっているだけでは全然話が進まない。実際に現場に行って地元の方と深く関わることが必要になりますよね。
勝部 本当に農家の方々と膝を交えて色々な話をする中で、一緒になって一つのものを作り上げていく喜びというか、やりがいをすごく感じ始めました。それは、住民との距離が近い市町村だからやれるのかなと。当時、一緒に県職員の方も県に農業普及部というのがあって、県とJAと市町村で一緒に法人化を推進したんですけど、その中で市町村は、やはり一番、住民と近くて毎日接するので、そういった意味ではすごく達成感があったと思っています。
稲継 市町村職員だからこそ。
勝部 得られるところじゃないかと思います。たまたま現場があるところにスタート時に配属していただいたので、そういう感覚になれたのかな、というところもあるんですけど。
稲継 なるほど、ありがとうございます。この部署に4年少しおられて、その次はどういう職場に?
勝部 次は商工観光課の企業振興室という部署で工業振興とか企業誘致を。
稲継 工業振興と企業誘致と。農業とはちょっと違うジャンルですね。
勝部 そうですね。もう一つの産業振興です。
稲継 当時の斐川町の工業の状況とか、企業の状況はどういう状況だったんでしょうか?
勝部 当時、町内には上場企業の工場3社の誘致に成功していました。出雲村田製作所、それと島津製作所、いずれも京都の企業です。それと富士通の関連会社である島根富士通。この3社がわずか人口3万人弱の小さい町の中に3つあるというのはすごく特徴的だと思っていました。それも過去、先人の方々が企業誘致を積極的にしていって、いずれ、雇用の場がないと地域が廃れるという意味でやってこられた成果ではないかと思います。
稲継 その上場企業3社の工場がで雇用としては何人ぐらい?
勝部 人口2万8,000人の町で、当時、派遣社員を含めて、村田だけで、5,000人ぐらい、あと富士通でも1,500人、島津でも400~500人とか、そのぐらいあったと記憶しています。当然、斐川の町だけから働きに来るわけじゃないですけど、身近にそれくらい雇用の場があるというのは一つ大きいのかなと。
稲継 大きいですね。その5,000人の職員の方がおられたら、家族の方を含めたら、1万人とかになりますよね。そのうちの何割かはこの町、町域に住んでおられるということは、相当人口の増要因ですね。
勝部 そうですね。この様々な分野への波及効果が、企業誘致の一つの成果だと言われています。その誘致企業に対しても固定資産税の減免とか、手厚い支援を全国の市町村でやっているんですけど、それだけ投資しても、その見返りが様々な部分で波及していくので、そこが、一番大きいかなと思って見ていました。
稲継 ああ、そうですか。その3社があって、そのほかの企業の誘致ということもやられておられたんでしょうか?
勝部 当時、今もですけど、全国的に企業誘致というのは、誘致合戦が激しくて...。我が町をというわけにはなかなかいかない時代でもありました。大手企業の工場を県外から誘致することも重要ですが、地域の工業、地元の産業をどうしていくかということを町として考え始めていました。当時、「内発型」の産業振興と言っていたんですけど、産学官連携とか、誘致企業がせっかくあるので、そこと地場企業をどうやって技術連携をさせていくとか。そういった、町全体の産業構造の底上げを支援していくという方向性を町として打ち出した時に異動してきました。
稲継 誘致企業と地場企業との連携など非常に重要なポイントだと思いますが、具体的にはどういうふうに町役場は関わっていくことになるんでしょうか?
勝部 当時、斐川町職員で企業誘致のカリスマと呼ばれた上司がおりまして、その方にいろんな教えを請うたんですけども、「とにかく御用聞きだ」と言われて。
稲継 御用聞き?
勝部 「とにかく地場企業を回れ」と言われて、とにかく現場に出ていました。で、町工場の社長さんたちと話をさせていただいて、その中からどういった支援が望まれているのかとか、ニーズ、業界動向、景気等を聞き出したりしていました。会話からは、直接、業務に関係のないお尋ねごともあるんですけれども、例えば、役所の手続き関係で、税金や土地の官民境界の関係とか、住民票の取得の関係をどうしたらいいかとか、そういったこともお手伝いをしながら。総合的な、言わば「御用聞き」をしてましたね(笑)
稲継 総合窓口ですね。
勝部 みたいな感じでやれ、と指導を受けたので。実際そういうふうにやっていましたけど。
稲継 縦割りで、企業振興室の仕事だけやっているんじゃないと。町役場の代表なんだから、何でも受けてこい、というそういう上司の方だったのですね。
勝部 そういう面白い上司がおりましてね。
役所の平社員が訪ねてきて、会社の第一線で働く経営者が、時間を作って話をして頂けることだけで楽しかったし、やりがいがありました。
稲継 産官学ですか、よく言われる言葉なんですけど、ここでいうと学でいうとどこの大学になるんでしょうか?
勝部 学だと島根大学とかですね。島根大学もですけど、当時は松江に高専があって、そこといろんな話もさせていただいたりもしていました。
稲継 そういうところにも出かけて行って?
勝部 そうですね。
稲継 町内の町工場にも御用聞きに行って、職場の机には・・・。
勝部 当時、やっぱり職場にはほとんどいなかったですね。
稲継 飛び回っておられた?
勝部 ええ。
稲継 営業マンみたいなもんですね。
勝部 そうですね。それもすごく面白かったですけど。
稲継 なるほど。
勝部 それも町役場だったからできたのかもしれないですが。市役所だと組織が大きくなると、当然いろんな面で難しいと思うんですけど。当時何かいろんなことができるような環境に役場自体があったような気がしますね。
稲継 町に工業団地を持っておられると思うんですけれども、そこへ企業に進出してもらう、経営してもらうというのも町役場なり、県としては非常に重要な業務ですよね?
勝部 そうですね、さっきの話で、町内に地場企業用の工業団地を造成しましたので、地場企業を回る中で、町内企業に向けて工場を移転されませんかとか営業をかけていました。あと、一気に工場を新設できない企業や起業を目指す方のために貸し工場というのを当時、町役場で持っていました。
稲継 え?
勝部 貸し工場です。アパートみたいなレンタル工場です。1室、80㎡~325㎡の工場を8棟所有し、それを月極めの賃料で貸していたんです。そこは、起業時の初期投資を軽減してもらうためや入居者間の技術連携を促す目的もありました。この貸工場に併設して地場企業用の工業団地を造成していましたので、最初に貸工場に入居してもらって、ステップアップとして最終的に隣接する工業団地に工場を建設してもらうのが狙いでした。実際に、配属中に4社の地場企業の工業団地誘致に成功しました。
稲継 結構いろんなことをやっておられましたね。
勝部 はい。それは、当然、僕だけでやっていたわけじゃなくて、そういった状況下にあったときに配属させてもらったので、すごく良い経験をさせていただきました。
稲継 当時、そういう人材育成とか重要だと言われていた時期なんですけれども、県としても何か取り組みをやられたように聞いているんですけど、どういうものでしょうか?
勝部 そうですね、やっぱり県もこれから産業振興というとそれを担う人材が重要ということで、なかなか市町村職員で現場を回るだとか、どういったスキルを持って産業振興に当たっていくのか、やり方からよく分からない、では、人材を育てようということで、県の方が企画を持ち上げていただいて、一橋大学の関教授を塾長とする「立志塾」という市町村職員向けの人材育成塾を立ち上げていただきました。
私も1期生としてぜひ参加しますということで、申し込ませていただきました。
その中で当然、県職員として同様の仕事をしている方々、あとほかの市町村の同様の仕事をしている方々と交流を図ったというのが、一つ、大きい経験にはなりましたね。
稲継 なるほど、外の組織の方々と交流する機会があったという。
勝部 そうですね。
稲継 今まではどちらかと言うと、町内の企業の方とか、工場の方々と接触があった。あるいは農業をやっておられる方と接触があった。その町域を越えて、別の組織の方々と接触する。
勝部 そうですね。同じ立場の支援機関の方々と交流の場が持てました。
稲継 その立志塾ではどういうことを勉強するんですか?
勝部 これは、本当にこう、島根県は横に長いんですけども、いろんな市町村から出て職員が参加していますけども、毎回開催場所が違うんですよ。今回は何々町でやりましょう。で、そこにある工場をみんなで見学に行く。そこで社長さんとお話をして、その後、戻って来て、みんなで学んだことを振り返ってディスカッションをしていました。その後、絶対に参加者皆でお酒を飲みましょうというのが必須でした。
必ず交流会付きでした(笑)
稲継 5時までの堅苦しい付き合いだけじゃなくて、アフター5でいろいろ腹を割って話をして、腹割って悩みを話し合う。
勝部 そうですね。同じ立場の県内市町村職員で語り合う。そこが一番大きいなと思っていますけどね。
稲継 この産業振興というか、工業振興をやっておられる中で、最初に携わられた農業のやり方、農業政策のやり方とちょっと違う、と感じられたんでしょうか?
出雲市斐川支所
勝部 そうですね。同じ産業のくくりの中に農業と工業等あるわけですけど、やっぱりそもそもの産業の成り立ちも違いますし、農業を工業的にやるのだけがすべてじゃないですし、その辺、大きな違いもあると思います。
ただ、本当は、農業振興と工業振興が連携できるところもあるはずなんですけれども、当時、それをなかなか分からなかった。でも、それはやっぱり大事なところなんだろうと思います。農業で例えば、悩んでいる農作業上の課題があって、こんな機械技術があったら解決すると言った場合に、それが町内にこういった機械加工ができる会社があるのなら、そこで多少相談に乗ってもらうとか。そういったことを農業分野の人は、町内の工場で何を作っているか分からないし。逆に、町工場の人はどんなことで農業が悩んでいるかも分からないので、そういったことが多少でもつなげられたら、橋渡しできたら本当はいいんですけど。
稲継 なるほど。ここに5年ぐらいおられて・・・。
勝部 その後は企画財政課というところに配属になりました。財政部門と企画部門に分かれていて、地域振興とか企画とか統計業務とかをする部分に配属されました。
稲継 地域振興。
勝部 地域振興というのは、広く浅くになってしまう部分もあるんですけど、東京斐川会とか、県外にある出身者の組織の事務だとか、そういった事務や国際交流の事務なんかもやりました。
稲継 ある意味シティープロモーション的なこともやっておられる?
勝部 当時、そんなにいなかったので、そこまでのことは。大半のことは統計業務の方です。
稲継 平成20年というと指定統計がいろいろある。
勝部 当時、僕がやったのは、住宅土地統計調査というものなんですけれども。それをやりました。すべてマニュアル化されていて、それをこなしていたというイメージしか残ってないですけど。
稲継 そうですか、マニュアルどおりやった。どちらかというと、それまで勝部さんがやっておられた現場に出かけていって、いろんな人と話をしてというタイプとは違う仕事。
勝部 そうですね。ただ、当然、これも大事な業務だと思っています。
稲継 なるほど。ここにはそれほど長くおられなかったんですね?
勝部 そうですね、1年ですね。
稲継 次はどちらに?
勝部 農林振興課です。
稲継 農林振興課にまた戻られたんですね。で、これは最初に平成11年から4年ほどおられたのと、平成21年、7年後になりますけども、何か変化とか農業の方にありましたか?
勝部 農業構造は残念なくらいまったく変わってなかったですね。
稲継 そのときにどういうことを考えていましたか?
勝部 最初農業を担当していた新規採用職員のときは、逆に工業のことが分からなくて、その後、工業をやって、また、農業に戻ると、産業という一つのくくりの中で農業を意識するようになっていて、自分の中で。産業としてなり得てない農業をどうすればいいんだろうなみたいなのを、強く感じました。工業関係の知識がちょっと増えて戻ったので、余計にそう思ったんだと思うんです。
稲継 産業として十分なり得ていない農業というものをどうしていけばいいのか、ということを感じられたと?
勝部 そうですね。
稲継 その後、どういうふうな取り組みをされることになるんでしょうか?
勝部 たまたま国の補助事業で、斐川町の農業産出額、地域内で生み出される農産物の販売額の増加目標というのと立てて、それを達成することを条件にやる事業が採択をされておりまして、それをちょうど担当させていただきました。
稲継 では、目標設定をして、ターゲットにできるだけ達成するように、取り組みを町役場としてサポートしていく、そういうやり方ですね?
勝部 そうですね。
稲継 工業出荷額と農業産出額というのはちょっと違いがある?
勝部 違いますね。工業出荷額はある程度、その工場が頑張れば、企業努力で増加していきます。当時は県内の製造品出荷額のどれくらいでしたか、半分以上は斐川で産出していました。村田とか富士通がありますので。一方で、農業産出額というと、当然そうはいかないところもありますし、難しいのは、農作物というのは、天候が悪かったら、一気に収穫量が落ちたり、外的要因で農業は変わっていくので、そこが一番大きく違うと思っていました。
稲継 最初、定められたターゲットというのも、目標期間内にはなかなか......
勝部 達成できませんでしたね。
稲継 それが平成21年からされた仕事で、斐川町役場は、出雲市と合併することになります。平成23年の10月ということですけれども、合併によって斐川町の農林振興課というものは、出雲市の農林振興課に統合されるというか、その中の一つになってしまうわけですか? それとも斐川支所みたいなものが置かれて、そこで、従来の形がそのまま維持されるということになるのでしょうか?
勝部 結果的に維持をすることになったんですけども。結局、斐川町自体も先ほどもお話ししましたが、かなり農業でも工業でもポテンシャルを持っていたので、住民投票も数回やられた結果として、合併を遅れて行ったという流れがあったんですね。合併時の約束として斐川町でとってきた特徴的な農業推進体制を維持するというのは、合併時の約束みたいな形になっていましたので、合併前の旧斐川町でやっていた体制は継続されることになって現在に至っています。
稲継 この農業推進体制の特徴はどういうものでしょうか?
勝部 これは、県外で農地集積をテーマに事例発表させていただくときに、お話しする斐川町農林事務局というのがありまして、「農業支援機関が一体となった農業政策の決定を行う」ということで、我々市町村とJAが個別に農業振興をやるんじゃなくて、一堂に会して一体的に農業推進方策を決定していこうというのをすごく前、昭和38年から継続してやっています。農家の皆さんからしても、この農林事務局体制を維持してくれ、というのがありまして。やっぱり全国的に見ると、私も最近、全国の方々とお話しする機会が多いんですが、農協と市町村が別々に農業振興にあたっておられるところが結構あって、うちは以前から一緒にともに歩んで来た、この体制があるんですが。
それともう一つ特徴的なのが、農業振興区制度というのがあります。先ほどの斐川町農林事務局からいろんな施策の方針とか提示するときに、町内が農業の振興区というのに分かれていまして、61の区に。
稲継 そんなに。
勝部 これが自治会の区ではなくて、農業専門の区で構成されています。その区長というのが区ごとに61人おります。区長の任期は3年あるんで、結構、専門的な農政知識も得ていただけます。その下に集落ごとに補助する区長補助員というのがいます。こういった体制は、たぶん全国的には少ないと思います。この振興区制度かあるおかげで、いろんな農業推進がやりやすくなっています。
斐川町地域で古くから行われてきた役所と農協が一体となった農業推進体制。斐川町農林事務局は農業支援機関が一体となって農業政策の決定を行ってきた。また、この農林事務局から各農家への方針を提示する際に町内が61の振興区に分かれていてそこで集落単位の管理が行われているという。