メールマガジン

第106回2014.01.22

インタビュー:一関市企画振興部市政情報課 広聴広報係長 畠山 浩さん(下)

 全国コンクールでいつも上位に入って広報担当者の間では極めて有名な広報誌Fujisawa。藤沢町役場の畠山さんは、あるきっかけから広報誌づくりにのめりこんでいった。特集記事は人気の的となり、毎号売り切れ(品切れ)になってしまう広報誌Fujisawa。紙面は倍増し、カラー印刷になったけれども、予算はむしろ減っている。その秘密はなんだろうか。


畠山   実は、みんなから「いくらかかっているの」と必ず聞かれるので、予算額と発行部数を全部書いたものがあります。私が始めた頃に440万円あった予算が、やめるときには230万円に減っているんです。それで、ボリューム的には倍以上でクオリティーもここまで上がったものを作っている。

稲継   2色刷りから4色カラーになって、16ページから32ページになったのに。その秘密を教えてください。どうしてこんなことが可能になるんですか。

畠山   当時は、割り付け表に鉛筆でレイアウトをしてフロッピーにテキストデータを入れて、写真はプリントしたものを印刷屋さんに提出して、向こうで版を組んでもらったんです。予算は毎年このように削られていきますから、その中で良いものを作るために、印刷屋さんに手間をかけさせない方法というのがありまして、デスクトップパブリッシング(DTP)を導入しまして、自分ですべて編集をして、完成データを印刷業者に持ち込んで、そのかわり紙代とインク代だけで印刷する。

稲継   版下も全部こちらで作ってしまう。

畠山   そうです。ですから、すべて PDF 入稿ですね。

稲継   そうですか。そんなことをやっている広報って全国の自治体であるんですか。

畠山   結構あります。結構ありますけど、ただ、一関と藤沢が究極なのは、画像の補正とか処理というのですが、撮ってきたデジタルカメラのデータを印刷できる状態まで全部フォトショップとかを使って加工しなきゃいけないんです。そこの工程まですべて職員がやっているということです。

稲継   全部職員で?

畠山   ですから、結局 PDF で入稿するわけです。あとは刷るだけなんですね。そこまでをやるとこういうふうになります。

稲継   これはすごいですね。

畠山   はい、半額です。

稲継   半額って、たぶんこの32ページのカラー刷りで、これを業者に年間12回出していれば、毎回、結構かかりますよね。

畠山   かかります、かかります。

稲継   1回20数万円でやってしまうという。

畠山   発行部数も少ないですよね、3,000部ぐらいなんで。結局、特集したからその分、簡単に予算がつくかというと、それはまた別問題なんで、じゃ特集分のページ数をどうやって生み出すかというところで、もうこういう方法しかなかったんですね。

稲継   じゃあ、これはもう本当にプロとして、文章だけ、写真だけじゃなく、DTPまで全部やっちゃうという本当の広報のプロとしての畠山さんがいらっしゃるから、この広報誌ができて、しかもこの低予算でできるということなんですよね。

畠山   そうですね。

稲継   素晴らしいですね。これは畠山さんとしては別にコンクールで入賞することが目的じゃなくて、町民に、市民に喜んでもらうことが究極の目的だとおっしゃっていて、私もそのとおりだと思うんですが、付随的にといいますか、たまたま付随的にいろんなコンクールとかで入賞されていますよね。どこに入賞されているんですか。

画像:取材の様子
取材の様子

畠山   まず、全国広報コンクールは今年も入選したので、13回目なんですが、あと岩手県はちょっと数えられないですね、30回ぐらいになるんじゃないでしょうか。やっているのは14年ぐらいなんですが、広報と写真に入選すると、それで入選回数が2回になりますから、ダブル、トリプルで入選したのを数えるとたぶん30回ぐらいになるかもしれないですね。コンクールというのは、県のコンクールがあって、県審査で1番になったところが全国に行くという仕組みになっています。もちろん、県審査で負けたこともあります。ただ、あまりコンクールで1番をとることに目標をおいてなくて、私はただ、コンクールで1番になると、藤沢の人たちがものすごく喜んでくれたんです。結局、自分が載ったものが日本一になったということでですね。

稲継   嬉しいでしょうね。

畠山   すごく喜んでくれたので、それがうれしくて出していましたけど、ただ、やっぱりどうしてもコンクールとなると、どんな人でも必ずどっかに色気が入るんですよ。やっぱり出す以上、負けたくないですから。それは私ももちろん持っていますし、そうするとどこかやっぱり色気が入るんですよ。それで、内閣総理大臣賞を2回もらっているんですが、2回目の内閣総理大臣賞をもらったのが2008年の12月号なんですけれども、その時に2011年9月に合併するまで、その時点からコンクールに出すのをやめたんです。
 なぜかというと、合併もある程度見えて来て、自分があと何回書けるか分からないところで、最後ぐらいは100%ふるさとと住民だけを見て書きたいと思ったんです。コンクールに出さないということを決めると、完全に地元だけ見て書けるんですよ。

稲継   色気は出さなくていいということですね。

畠山   はい。このことを自分で言うのもあれですけど、出した以上、負けるわけにはいかないんですね、こうなっちゃうと。当然、住民は今年も1番になるだろうと思って待っているわけですよ。そうすると、やっぱり勝つためには傾向と対策もありますし、そういうことやると、本当にその時に必要な行政課題だったり地域の話題だったり、やっぱりかみ合わないものが中には出てきます。例えば、社会的な背景を横軸としてとらえて、地域の動きを縦軸としてとらえて、そのリンクするもので勝負していくんです。コンクールに出すと、どうしても色気が入ってしまうので、最後ぐらいは本当に住民が求めるもので、ふるさとに必要とされるもの、そこだけを見て作りたいなと思って、2008年以降はもうコンクールは一切出していないんです。ただ、一関市に来てからは、一関市がずっと出していましたので、私がそういうやり方をしているから出さないというわけにはいかないので、出していますけど(笑)。

稲継   なるほど。ずっと畠山さんの広報への取り組みということについてお伺いして来ました。驚くような低予算で驚くべき高品質な広報誌を作られて、それも住民の方にも非常に評判が良く、また全国的にも非常に評判が良い。私はこの前、岡山に行って、ある市の職員の人とお話をしていて、「私、今度、一関市に行くんですよ」みたいな話をしたら、「あそこ、広報の有名な誰それさんがいるでしょう」と岡山の人が知っていることに驚いたんです。こういう全国的にも畠山さんの名前がとどろいている、というか、藤沢町、それから今では一関市の名前がとどろいているというのは、畠山さんご本人にとってもそれは嬉しいことかもしれないけれども、藤沢町民、それから一関市民にとってもやはりこれは嬉しいことですよね。

畠山   そうですね。

稲継   市民にとって、あるいは町民にとって胸張って、私たちの町で作ってくれている広報誌、私も写っているこの広報誌はみんな認めてくれているんだというのは、これはすごく嬉しいことだなと思いますよね。最終的な意味での地方自治体の存在意義は、住民サービスの向上や、地方自治法には住民福祉の増進と書かれています。住民サービスの向上でいうと、住民をどう喜ばせてあげるかということがとても大事な課題だと思うのですが、そういう意味では広報という素材を使って、畠山さんは、町民の方を喜ばせてあげている。あるいは、実際に市民の方々を喜ばせてあげているという、私たちとしては、非常に嬉しい職員がここにいらっしゃるなと思います。
 今、ずっと広報の話をお伺いして来たんですけれども、畠山さんが入庁されてから今までのことを簡単にお伺いしたいんですが、まず生まれ育ったのは藤沢町ですか。

畠山   そうです。大学に入学する時、東京に出まして、その後4年間ほど、東京でサラリーマンをやっていました。

稲継   どういう系統のサラリーマンですか。

畠山   営業です。実は私の父も役場職員で父が定年退職する時に、たまたま町に温水プールを造る計画がありまして、ちょうど私は学校が体育大だったので、「温水プールのインストラクターを探している。だから帰ってこないか」と言われました。
 最初の3年間は社会体育とか生涯スポーツですが、それとあとプールがオープンしたので水泳インストラクターとか、そういう仕事をやっていました。スポーツ振興課というところですね。その時に、たまたま当時、松食い虫というのがものすごくピークの時期で、それで農林担当が一年中、山に上がって降りての繰り返しで、過労で倒れて入院したんですよ。そこで、その後をやる人間は、役場で最も体力がある人間じゃないと駄目だという判断になって、私が急遽プールから抜擢されて、松食い虫担当になったんですね。1年間毎日山登りをさせられました。

画像:一関市役所
一関市役所

稲継   その異動理由が面白いですね。

畠山   そこで1年間農林を担当しました。その後に、結構長かったんですが、企画室に行きまして、町の企画調整とか、それからちょうど総合計画の書き換えの時期でそれを書き換えましたし、もう一つ、町に一つ文化ホールがあるんですが、それの設計からオープンまで全部やりました。

稲継   比較的、役所に入って、それほど間がたたない内に、かなり大きな仕事を任せてもらっていたということですね。

畠山   そうです。前職が不動産関係だったんです。ですから、図面を描いたり、いろんな構造計算をしたりとかが少しできたので、その辺も含めて、ちょっと文化ホールを設計しろという話になりまして、それが一番大きな仕事でしたね。

稲継   その次に広報になるんですね。

畠山   そうですね。そこでずっと町長とぴったりいたものですから、特別文章がうまかったわけじゃないんですけれども、何が良かったのか分からないですが、「お前、明日から広報へ行け」となったんですね。

稲継   最初、広報係への異動を聞いたときは、どういう印象を受けられましたか。

畠山   いや、もうショックですよ。

稲継   ショック?

畠山   意向調査というのがありまして、自分が行きたいところとか行きたくないところを書くんですが、私は行きたいところは空欄で、行きたくないところに広報と書いたんです。

稲継   どうしてですか。

畠山   いや、なんか休みがなさそうだったし。

稲継   忙しい。

畠山   文章を書くのが絶対に嫌だったので。何か楽しそうに見えなかったですね。毎月出来上がって来たのを見て、「こんなのよく書くな」と思っていました。これを1年中やっているんだから、もう頭がおかしくなるだろうな、という先入観があったんですね。

稲継   なるほど。

畠山   ですから、行きたくない部署に広報と書いたら広報になっちゃったんですね。

稲継   なるほどねえ。でも、最初の頃の広報というのは、やっぱりどこの市にもあるような広報なので、これじゃつまらんだろうなという、つまらなさそうな仕事で大変そうな仕事だろうな、というイメージは何となく私も分かります。その後にだいぶ模様替えされたやつなんかは、本当に作りがいのある広報誌ですよね。大変かもしれないけれども。

畠山   そうですね。もう、本当に24時間広報のことしか考えてなかったですね。もう寝ている時もご飯を食べている時も、見出しをどうしようかとか、今日の取材はどんな切り口で入ろうかとかそんなことばっかり考えていたんで。家族のおかげですね。よく離婚されずにここまで来たなと思って。

稲継   なるほど。東京の地下鉄の駅なんかにはフリーペーパーがいろいろ置いてあって、その中にR25とか結構飛ぶようになくなるやつもあるんですが、それに全然劣らないような内容だなと読ませてもらって思ったんです。すごいなと思います。藤沢町の広報誌というのは、何人で担当しておられたんですか。

畠山   1人です。

稲継   えっ、1人?畠山さんだけで毎月32ページ特集も含んで。

畠山   ですけどね、やっぱり、田舎で娯楽がないので、これは冗談ですけど、たぶん広報を読むのが一つの娯楽になっているんじゃないかと思っているんです。本当に皆さん、楽しみにしていらっしゃって。

稲継   でしょうねえ。

畠山   特集もあるし、いろんな人物紹介もあるので、取材を受ける人が電話で「こんなのがあるから取材してくれ」とコーナーまで指定してくるんですよ、何のコーナーに頼むって。そのくらいステータスでしたね。藤沢の人たちは完全に地方新聞に載るより広報に載りたがっている人が多くて。ですから、新聞社も毎日来て、どこかのネタを分けてくれと。外に出ないネタは私だけが全部持っていましたね。

稲継   そうなんですか、すごいですね。

畠山   「新聞に紹介したい」と言われたら「嫌だ」と言われましたもの。「広報でなければ駄目だ」と。

稲継   それはすごいですね(笑)。

畠山   あるとき、小学生のテニスを頑張っている子どもを取材に行ったんですよ。その時に、お父さんがその子のコーチをやっているので、お父さんに最初、お話を聞いて、それで学校から帰って来た本人を取材したんです。「あれ、今日、何の取材?」とその娘がお父さんに聞くわけです。それで、「広報だよ」と言ったんです。そしたら、その子どもさんが「広報って何?」と言ったんです。私、その時ちょっとショックだったんですよ。「広報、いつも見てるじゃん、これだよ、これ」と言ったら、その子が「これ、広報じゃないよ、Fujisawaだよ」と言ったんですよ。

稲継   タイトルがFujisawaになっているからね。

畠山   そうなんですよ。それがすごくうれしかったですね。本当に町の人たちに浸透しているなということが、そういう日常ですごく実感できたので。

稲継   でも、ほんとにやりがいのある仕事を、これは何年かやってこられたんですね。

畠山   長いですねえ。藤沢町で、11年、12年ですかね。

稲継   1999年からでしたっけ。

畠山   今では14年ぐらいなりますかね。15年目ですかね。

稲継   なるほど。

畠山   一関市にきて、今、まだ2年にならないですけど、そうですね。

稲継   これを見ていたら、自分で何か雑誌社か出版社をつくれそうな感じですよね(笑)。

畠山   資金がないですから(笑)。

稲継   (笑)そりゃ、そうかもしれませんけど。でも、これは本当に素晴らしいと思います。
 今日は一関市で広報を担当しておられる畠山さんにずっとお話をお伺いして来たわけですけれども、このメルマガは全国の主に市町村役場の職員の方々が読んでくださっていますので、自分もこうなりたいとか、こういうことをやってみたいとか、思っているけどなかなかそういうふうに上手くは行かなくて、じくじたる思いで毎日過ごしている職員の方もすごくたくさんいらっしゃると思うんですね。その方々に何か畠山さんの方からメッセージがありましたら、お願いしたいと思います。

画像:畠山 浩氏
畠山 浩氏

畠山   今の世の中ですね、それこそ例えば草食系男子とかいろんな新人類を指すような言葉が出てくるほど、いろんな人がいるわけですよね。その中で例えば、根性論とか精神論とかというのは、もう古いとよく言われるんですが、でも私はそういう時代だからこそ逆に必要だと思っているんですね。
 もう一つは、なんて言うんでしょう、人間というのは感動でしか動かない生き物だと私は信じているんで、それが人との出会いであったり、誰かの言葉だったり、読んだ本であったり、見たテレビであったり、感動を与えるものがいろいろとあると思うんです。子どもがプロ野球選手になりたいというのは、プロ野球を見て、野球選手に感動してなりたいと言っているんだと思うんです。それはもうたぶん人類共通だと思うんですね。
 ですから、一つは、何にでも感動できる心というのを自分がまず持っていなきゃいけないと思うし、それを持っている人は必ず誰かを感動させることがいつかできると思うんですね。そのためには何が必要かというと、やはり感謝の気持ちを持てるかどうかというのが一番大事だと思います。取材に行く際にも、取材をしてやっているんだではなくて、本当に忙しい時間を割いて自分の取材のために時間を作っていただいてありがとうございます、という気持ちで、「こんにちは」と言ったら最初の笑顔と一言が変わってくると思うんですね。たぶん感謝の気持ちというのは絶対に連鎖していくものだと思うので、そういうのがどちらかというと希薄になりつつある人間関係とか、コミュニティとかいったものをもう1回つなぐ一つの大切なものになっていくんじゃないかと思うんですね。
 ですから、私は内閣総理大臣賞をいただいた時に思ったのは、私の広報を作る技術が一番だったんではなくて、これを作らせてくれた藤沢町のまちづくりとか住民活動とか、藤沢町の人たちが日本一だから私が日本一のものをつくれたんじゃないか、と今でも思っています。そういう気持ちを持ち続けられるかどうかというのが、やはり大切なんじゃないかなと思います。
 あと、正直、編入合併だったものですから、藤沢方式は一関方式にすべて変えて、藤沢方式は採用しないという約束で合併したんですけれども、結果的に広報誌は藤沢方式に変わっていったんですね。やはり人数的にも環境的にもどう考えても、いくら私が日本一を取ったからといって、不利な状況で合併して入って来ているわけですよね。その中で、私が思ったのは、自分が日本一を取ったから偉そうに理詰めで部下にああだこうだと教えるんじゃなくて、やはり向こうが本当に私を信頼してもらって、本当に広報を好きにならない限りは絶対にチームとしてうまくいかないと思ったんです。
 ですから、何をやったかというと、まず、誰よりも先に出勤します。私が一番遠いんですよ。家から30km以上あります。でも、一番遠い自分が一番先に出勤して、みんなが来る前に必ず床をはいて机を拭いて、お湯を沸かしてごみを捨てて掃除を全部終わらせているんですね。

稲継   それは20代の子がやってくれるようなことですね。

畠山   それを下にやれとは絶対に言わないです。それで、「おはよう」と言うことで自分がみんなを迎える。これを合併してから1年半になりますが、いまだに続けています。今朝もです。それを続けていくと何が起きるかというと、絶対にこの人はいい人だと。この人にはかなわない、あの人を信じてついて行こうというのが、一言も「おれを信じてついてこい」と言わなくても、1年以上続けていくとそれが徐々に出てくるんですね。ですから、理詰めではなくて自分の行動と背中を見せることだけにこの1年間徹してきましたね。実際、今、うちの部下たちは仕事をしろと言わなくても、残業しろと言わなくても、自分が納得いくまで徹底的にやって、それでなんでこんなに遅くまで仕事をやっている、と上からチェックが入って、職員課から健康診断を受けろと言われるほど仕事をしていますね。私はやれとは一切言ってないです。でも、やるようになりましたね。
 だから、やっぱりそれはさっきも言いましたが、まず自分が感謝の気持ちを持てるかどうか。そういうところからスタートするんじゃないかと思います。

稲継   感謝の気持ちからですね。

畠山   私も実は厳しいので、この特集は常に20点アップしかしないんですよ。これは、全部部下が企画して、自分たちで取材をして自分たちで書いた記事なんです。それで私は最後、デスクなものですから校正をするのですが、その時に通常のものもコンクール号もおれは20点アップしかしないぞ。おまえらが50点のものしかできなかったら70点にしかならないけど、70点のものを作ったら90点になるから、そうしたらもしかしたら県で一番になるかもよっていう話をするんです。

稲継   20点アップとはどういう意味ですか。

畠山   20点アップというのは、簡単に言うと、自慢話で申し訳ありませんが、私が手を入れるとものすごく良くなるんですよ。それは、いい広報を作る、それだけのキャリアを積んできていますので、当然、書いたものは直せば良くなるんですよ。だけれども、それをやってしまうと、本人たちの力にならないので、常に20点アップ。だから、本人たちに与える課題というのは、野球で言うとダイビングキャッチをすればグローブに入るよ、という位置にノックするんですよ。要は正面には打たないです。絶対取れないものも打たないです。でも、この子たちが本気でやった時に、グローブにポッと入るところにいつも課題を置くんですよ。それでやらせているんですが、校了前日に、「どうですか」と言われて、「うーん、いいんだけど、何か足りないよね」という話をしたんです。そしたら1人の子が「何が足りないですか」と言うから、「たぶん外からの視点が足りないよ」と言ったら、「それを入れたら良くなりますか」と言うから「絶対に良くなるよ」と言ったんです。そしたら、たった1日で3人でこの2ページを徹夜で作って間に合わせたんですね。やっぱりこの2ページが増えたことによって、その特集の厚みというのは全く変わって来まして、それでコンクールでも結果的に1番になったというのがありました。
 だから、本当にこっちがやれと言わなくても、自分たちでやらなきゃいけないという使命を持ってやっていますね、今。

稲継   人材育成論にもつながる非常に大事な話ですね。

畠山   そうですね。やっぱりチームでてっぺんを取るというのが目標になっていまして、職場には、チームでてっぺんを取るという係目標が張ってあります。
 やはり、一番は「職員から職人へ」ですね。

稲継   広報職人。

畠山   なかなか苦労をかけているのは、大きい声では言わないですが、まだまだお役所なんですよ。だから、われわれがどうしてもそういう仕事をしていると、やっぱり役所の中ではちょっと浮いてしまうようなところもあって、もうしょっちゅう上からはいろいろと言われますけどね。
 ただ、少なくとも自分の部下だけは、広報をやめるときに広報をやって良かった。まだまだやりたいと思ってやめてほしいので。彼らが部下であることは、これはもう本当に偶然ではなくて、こういう出会いというのは全部運命だと思っていますから、何とか彼らを一人前に育ててあげたい、という気持ちがずっとありますから。

稲継   部下の方にとっても、70点だったかもしれないけど、一言あって3人で徹夜し、これを加えていって入賞するという経験をすると。

畠山   やはり自信につながりますよ。

稲継   成功体験はすごく大きいですね、その人を伸ばすのにね。

畠山   やはり広報を作るのに最も適している規模というのが藤沢町ぐらいだと思うんですよ、人口1万人にいくかいかないかぐらいの、顔の見えるところなんですね。今、12万人にもなるともう範囲も広いし、人も分からないですしね。

稲継   そうですね、拾えませんよね。写っている人がどこの人か分からないですよね。

畠山   藤沢町時代は、町の中で子育てをするというのではないですけれども、地域の皆さんに、自分も自分の広報も育ててもらいました。一関市に来てからは、やはり地域が広報を育てるということは、なかなか不可能だと思うので、私が今まで経験して来たことを、どれだけ彼らに伝えられるかがすごく大事なのかなと思っています。それはコンクールで入選する方法ではなくて、やはりどれだけ相手の立場に立って、それで、見たり聞いたり考えたりできるか、ということですよね。
 東西南北の頭文字 を取ると、NEWS という単語になるんですよ。NEWSのNは北ですね。Eは東で、Wは西で、Sは南。NEWSというのは、町中、東西南北走り回って情報を集めて来て、汗水たらして、足で情報を集めてきて、心で書いて初めてNEWSだぞ、という話をずっと言い聞かせて。
 だから、5分で終わる取材も10分聞いて来い。30分で終わるものも1時間聞いてこいということを言っていますね。

稲継   Fujisawaの単価を計算してみたら、年200万円だから月に17万5,000円、3500戸に配っておられるので、一部50円なんですよね、36ページカラーの雑誌が。

畠山   そうですね。ただ、これもさらにすごい裏技がありまして、一部計算ではなくて色計算で契約するんですよ。4色、2色、1色の3本の単価契約を組んで、予算がないと表紙と裏以外全部モノクロにしたりして、それでページを稼いだりしています。ですから、東日本大震災が発生した月は、ちょうど3月号の校了日の印刷機が回る15分前だったんですよ。そこで印刷機がひっくりかえっちゃったので発行できなかったんです。それで、どうしようかなとなったんですけど、年度最後の3月なので、もうそれ以上予算を増やすことはできない。それで、課長に相談してこれを4月号までもっていけないので、印刷機が復旧したらすぐに震災の特集を出したい。「どうするんだ、予算ないだろう」と言われたんで、今、カラーページで編集している部分を、モノクロにすれば同じぐらいのモノクロページを捻出できるからという話をして、ちょうどカラーの半分の単価がモノクロだったので、それで版を全部モノクロに替えまして、それでその時の第1特集を第2特集に下げて、第1特集に8ページの東日本大震災の特集をつっこんで、それを出したんです。
 ところが、もう停電でパソコンも何も使えなかった。唯一、自分の車がたまたまガソリン満タンだったので、車から携帯電話の電源をとって、それで8ページのうち6ページは携帯で作りましたね。どうせ何もできないですよ、電気もつかないし。それで夜中に、ずっと携帯でテキストを打って、300文字ぐらいになったら、それを保存するんです。それで30も40もフォルダができて、それを4日後、5日後ぐらいに電気が通ったときに、全部自分のパソコンに転送して、それで一気に作ったので、たぶん震災の特集を出したのは藤沢が日本一早いと思います。3月25日には発行していますから。

稲継   それはすごいですね。

畠山   印刷機が復活するまでの間に8ページの特集を組んでしまって、それでもう一気にそれを追加して刷ったので、たぶん一番早いと思います。3月15日号発行のものだったんですけれども、25日にはもう出していましたので。

稲継   それは驚きですね。お聞きすることが全部驚きですね。本当にびっくりしちゃいますね。そうですか。

畠山   本当に、みんな広報が好きでもっとやりたくても泣く泣く異動していく中で、10年以上もこういう仕事をやらせていただいているんで、もうそれだけでも自分は幸せだったなあと、日本一幸せな公務員だなと思いますね。

稲継   なかなか雑誌社に入っても雑誌の編集長ってなかなかなれないけど、ずっと編集長をやっておれるわけですね、見方によっては、ありがたいことではありますよね。
 どうもありがとうございました。今日は一関市市政情報課、畠山浩さんにお話をお伺いしました。どうもありがとうございました。

畠山   ありがとうございました。


 広報担当の職員から、広報職人へとチームを変えていく。チームでてっぺんをとる、とお話の中に出てきたが、チームワークを重視しつつ職人気質で仕事を仕上げていく。たった一人ですべてやっていたFujisawaから大きな一関市になってチームでI-styleを発行している畠山さん。今後のI-styleが楽しみだ。