メールマガジン
分権時代の自治体職員
第105回2013.12.25
インタビュー:一関市企画振興部市政情報課 広聴広報係長 畠山 浩さん(上)
皆さんは自分が住む(勤めている所ではなく)自治体の広報誌を読んでおられるだろうか。自分と直接かかわりのある情報(ゴミの回収日だとか予防接種だとか)以外は読んでいないという人も多くいるだろう。他方で、自分の興味のある雑誌は書店へ足を運んで立ち読みしたり、昼食代程度のお金を支払って購入してじっくり読んだりしている。広報誌もそのようなものになれば、住民の興味を引き付ける雑誌のようなものになれば、より多くより深く読んでもらえることになる。
広報誌に関して、コンクールがあり、県単位のコンクールを勝ち抜いた広報誌が全国大会で競い合う。内閣総理大臣賞を何度か受けたことで有名な、岩手県の藤沢町。そこの広報「Fujisawa」の責任者として有名な、畠山さん(現在は合併後の一関市)にお話をお聞きする。
稲継 今日は岩手県の一関市にお邪魔しまして畠山さんのお話をお伺いすることになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
畠山 お願いいたします。
稲継 畠山さんは、今、一関市の市政情報課というところにおられるんですけれども、これは藤沢町役場に以前おられて合併したということですね。
畠山 そうです。
稲継 いつのことでしょうか。
畠山 2011年9月26日ですね。
稲継 藤沢町役場で広報を担当しておられる時に、町政広報誌でFujisawaとアルファベットで書くんですよね。このまちの総合情報誌Fujisawaというものが、何度もコンクールに入賞するような、あるいは内閣総理大臣賞を取るような、そういう非常に全国的にも有名な広報誌になっていって、今は一関市に合併されてからも市政情報課で広報誌の『I-Style』(アイスタイル)というものをご担当されているとお伺いしています。
まずは、そのFujisawaを作り始めたころのことから、お話しいただけますでしょうか。
畠山 浩氏
畠山 通常の人事異動で広報担当になりました。実は、僕は一番苦手な科目は国語だったんです。国語は3以上を取ったことがなかったんです。文章も苦手だったし、しかもカメラを全くいじったことがなくて、とにかく何で自分が広報担当になったのか、まず分からないですね。絶望感の中からスタートしました。それで、役場の引き継ぎですから、簡単な事務引継書があって、例えば、カメラをボンと渡されて半押しすればピントが合って、ピントが合ったら押せば撮れるよ、というような引き継ぎしか受けてなかったものですから。ただ、半信半疑で行ったところ本当に写るんですね。カメラが優秀なものですから。なんだ、自分でもできるじゃん、みたいな形で意外と楽な気持ちでスタートしたんです。
ある時、カメラを肩から下げてようやく板について来たころでしょうか。毎月、小さい子どもを紹介するコーナーがあるんですが、たまたま町でばったり同級生に会いまして、「お宅の○○ちゃん、ちょうど年頃なんで、広報のこういうコーナーに出てもらえないか」と質問したら、「嫌だよ」と言われたんですよ。
稲継 どうしてですか。
畠山 「なんで、みんな出てくれるよ」って言ったら、「だって、広報おもしろくないし、写真下手だし、あんまり読んでないし」って言われたんですね。それがものすごいショックで......。何がショックだったかと言いますと、同級生でものすごく仲よしだったからこそ言えた本音だったわけですよね。それを思ったときに、じゃあ、今まで俺が取材して来た何十人、その頃だと何十人単位だと思うのですが、何十人といういろんな記事に出ていただいた皆さんは、みんな同じような気持ちだったんじゃないだろうかと思ったんです。ただ、町の広報誌だからだとか、役場の人だからとか、断れないという、そういう思いで、もしかしたらいやいや出てもらっていたのかな。あとは自分の書いた記事も本当は喜んでもらってないんじゃないか、という思いがありまして、それが一つの大きな転機になりましたね。
稲継 当時作っておられた広報誌というのは、一般にある、いわゆる広報ふじさわとか広報○○というやつだと思うんですね。それって、いわゆるベタなイメージの表紙があって、市政情報がばーっと並んでいるような、そういう本当に単なる情報誌で、特に食い入るように読んでもらうようなイメージを持って作っているわけでは全くないわけですよね。
畠山 基本的に、お知らせ中心の広報誌という形ですよね。
稲継 その広報誌に、皆さんは一応写ってくれるけれども、本音ベースでは決して喜んで写っていたわけではないというのを、同級生に教えてもらったわけですね。
そこで、じゃあ、次にどうされましたでしょうか。
畠山 そこで、これも予算を本当に切り詰めるために、当時はデジカメじゃなかったものですから、0円プリントというのを使っていたんです。つまり、写真屋さんではなくて、コンビニで同時プリントをしたんです。写真屋さんに行くと、1枚10円とか20円を取られるわけです。ところが、コンビニに持っていくと現像代だけで同時プリントという、同プリというサービスがありまして、プリント代はただなんですね。それを使うと予算が一番切り詰められる、というのがありました。
ところが、コンビニに行っても写真は上手くならないわけですよね。それで、予算はなく、単価も高いんですけど、初めて地元の写真屋さんに行きまして、それで、「広報が来るなんて珍しいね」なんて嫌味を言われながら、それでも行って「写真の撮り方から教えてもらえませんか」ということで頭を下げて、本当にカメラの持ち方から教えていだきました。
稲継 じゃあ、まずそこが変革のスタートということですね。
畠山 初めは何を言われているか全くちんぷんかんぷんでした。でも、人間は面白いもので、365日同じことを言われていると、何となく分かってくるんですね。それで例えば、1日一つずつ課題を出してもらって、じゃあ、今日は広角のレンズを使って子どもを撮りましょう、みたいなね。で、写真屋さんで教わったことを今度は家に帰って、ちょうど息子、娘が当時保育園の年長と2才ぐらいだったのかな。ですから、カメラを向ければすぐにピースする年代なものですから、子どもたちを使って練習をしたという感じでしたね。
稲継 たくさんの数の子どもの写真を撮られたわけですね。
畠山 撮りましたねえ。本当に撮りましたね。
稲継 子どもさんたちは嫌がらなかったですか。喜んでいましたか。
畠山 いや、ところがこれが子どもといえども2週間3週間続くと、だんだん飽きてくるんですね。それで、これは本当の話でいつもみんなに笑われるんですけど、10円撮影というのを我が家でやっていまして、モデルをしてもらったら私が10円をあげるというのをやっていたんです。いまだにうちでお父さんが向けたカメラの前では、大きい子は大学生で下も高校生なんですけど、一番撮影を嫌がる年代なんですが、最高の笑顔をしてくれますね。
稲継 10円で(笑)?
畠山 私がカメラを向けただけで。最近は10円ではすまないですけれども。
稲継 なるほど、そうですか。そういう家でも苦労されながら、写真の撮り方からまず覚えていかれた。写真の技術は徐々に向上したということですね。
畠山 そうです。
稲継 写真だけでは広報誌を作れませんよね。その他の部分はどういうふうにされましたか。
畠山 実は岩手は広報王国と言われておりまして、東の岩手、西の福岡という感じで言われておりまして、歴代ものすごく偉大な先輩たちが多いんですね。その広報の研修会というのが毎年あるのですが、よそでは、例えば、日本広報協会の先生とか、いろんなプロの方を講師に招いての研修会が多いんですが、岩手県は、その時代のトップの人、そういう人を講師にして、現役の担当者が現役の新人に教える仕組みがずっと何年も前からやっているんですね。
稲継 そうなんですか。
畠山 そこで、当時、岩手の県北に普代村というところがあるんですが、ここが全国的に非常にいい広報を歴代作っていました。そこに三船雄三さんという方がおりまして、その方の研修を受けたときに、すべて目からウロコで、痛いところを全部突かれて、本当に広報とは何ぞやとか、何のために作っているのかという技術から精神論に至るすべてを学ばせてもらいました。それが技術面での一つのターニングポイントになっていますね。ですから、取材拒否と三船雄三師匠との出会い。この二つがターニングポイントになっています。
稲継 その三船雄三さんと出会われてから、割と頻繁に会われるんですか。
畠山 頻繁には会えないですね。同じ岩手でも200kmぐらい離れています。
稲継 200km。
畠山 今、おそらく普代村の住民課長か何かやっていらっしゃるんですが、1年ぐらいしか一緒にやらなかったですね。10歳ぐらい違います。あとは異動されたので、でも、何かあるたびに顔を出してくれます。年1、2回はOBになっても研修会に顔を出していただいて、一緒に飲んだりしていろんなことを教えてもらいました。
稲継 そういう人との出会いって大事ですね。
畠山 大事ですね。
稲継 それがあったから今の畠山さんがいるということですね。それで、その三船さんと出会われてから、広報の作り方がどういうふうに変わって来ましたか。
畠山 まずは、広報コンクールというのがありますね。それで、県のコンクールがあって勝ち抜けば全国のコンクールがあってなんですけれども、当時私はコンクールで一番になる広報誌が一番いい広報誌だと思っていたんですね。広報誌の良し悪しのものさしが、コンクールだったんです。ところが、それを根底から覆されるようなことを言われたんですね。
稲継 どういうことでしょうか。
畠山 実は、たった1年だけに三船さんと一緒にやらせていただいた時期があって、ちょうど介護保険がスタートする年だったので、三船さんの特集と私の特集が介護保険をテーマにしてちょうどかぶったのです。私のものは、私的には自分がそれまで作ったものの中で、最もよくできたと思っていたので、県でも当然入選するだろうと思っていたんですね。ところが、私のものは落選して三船さんのものは県で1番になって、全国でも確かに二席ぐらいに入っていたんですね。その時に、「なんで同じ介護保険を作って、こういう差が出たと思う?」と三船さんに言われたんです。「それは、お前は審査員を見て作っただろう。俺は村民を見て作った」と言われたんです。
稲継 深い言葉ですね。
畠山 深いですよね。
稲継 その言葉を聞いてどう感じられましたか。
畠山 そうですね。やっぱり、自分の机の上で計算して作った部分とか、あとはよく見せよう、よく見せようと思って、作っている部分が非常にありまして、ことさら飾りたてて。「何のために」と本当にそれを言われた時に、今まで苦労して自分が作り上げて来たものは一体何だったんだろうと思いまして、原点に帰ろうと思いましたね。
稲継 何か、脳天をハンマーでかち割られたような瞬間......。
畠山 全くそのとおりですね。
稲継 そこから広報づくりに対する取り組み姿勢というのが今度は180度変わったんですね。町民のために作ろうということ。それは具体的にどういうことになるわけでしょうか。
畠山 一つは、例えば、中央の雑誌に藤沢の人たちが大きく取り上げられるということは、よほどのことがない限りあり得ないと思います。でも、広報誌であれば、それが可能なんですね。自分が一番常に思って来たことは、町民をフィルターにしてすべてを伝えていこうということで、例えば、そばを打っているおじさんでもいいし、あるいは野菜を作っているおばちゃんでもいい。一生懸命頑張っている人というのは、絶対に輝いていますよね。その輝きを写してあげたいし、その頑張っている姿を報じてあげたい。それが原点としてあります。それは今も変わってないです。
稲継 なかなか、そのシャッターチャンスというんですか、輝いている瞬間は......。僕はあまり写真を撮らないんですけど、どうでしょうか。タイミングとしてとても難しくないですか。
畠山 そうですね、運でしょうね。
稲継 運ですか。
畠山 運とあと粘りでしょうね。
稲継 粘り。
畠山 どんなに技術があっても、本当にコンクールでいう写真の1番、2番が決まるのは、ほとんどシャッターチャンスというか、技術よりもそっちの方が重要です。ただ、広報誌に掲載する写真は、コンクールではないので、例えばコンクールだと笑顔がどうしても優先されますけど、私の場合はそうじゃなくて、本当にありのままを写してあげたいというのが強くて、笑顔が似合わないとか、苦手な人はいますよね。普段、笑顔じゃない人を無理やり笑顔で撮っても違和感が出ますし、見た人が一番、なんでこの人、普段笑ってないのに笑っているんだろう、みたいな(笑)、できるだけリアルなものを押さえたいという気持ちがありましてね。ですから、頑固親父をとる時は頑固な状況を撮っていましたし、徹底してその人らしさ、笑顔というよりは、その人らしさというものを、追求して撮影していましたね。
稲継 その人らしさを撮る。
畠山 自分もその人らしさを書く。
稲継 その人らしさを書いていく。結構それって難しくないですか。
畠山 そうですね。だから、できるだけその表情を撮るのではなくて、例えばお母さんだったら、その子どもへの愛情を写す。それから、そういう地域のおじいちゃんだったら、すごい人のよさというか、その人の人情まで写すというような、いわゆる表情ではなくて、愛情とか人情とか、そういう部分を撮ってあげたいと思って撮りました。
稲継 書く中身も頑固親父なら頑固親父の、と先ほどおっしゃいましてけれども、子どもに対する愛情を注いでいる母親の気持ちになって、記事の方もその人らしさを書いていくということなんですね。
畠山 そうです。
稲継 先ほど国語は私は非常に苦手だったとおっしゃいましたけれども、記事の書き方は、どういうふうに克服していきましたか。
畠山 完全に自分なりにどうやったらいいかというのを勉強しました。さすがに三船さんに教えてもらった書き方が自分には難しかったんです。というのは、当時の日本一の人のレベルではとても書けなかったんです。これだけはもう自分の、いわゆるカメラは機械なので使い方を覚えれば、ある程度撮れるのですが、記事は自分で書かなければいけないですから、自分のレベルに合った書き方をしようということで、実は私独自の手法というのを編み出しまして。
稲継 どういう手法ですか。
畠山 それは、日本語と英語の構造の決定的な違いというのが、英語というのは必ず主語の後に動詞とか述語が来る。後ろに修飾語が来るんですよね。日本語は、主語と述語の間に修飾語が来ます。
稲継 そうですね。
畠山 そうすると、行政の公文書が最たる例なのですが、どんどん点とか接続詞でつないでいく。そうすると述語がどこに来るか。主語にいかないで最後の修飾語に対する述語が来たりするんですよ。それで、文章がねじれてしまうということに気づいたので、簡単に言うとパソコンで打っていますから、最初に主語と述語を書いて、あと、それを取材ノートから間に挟む修飾語をどんどん入れていく。主語と述語を決めてから修飾語を入れるという書き方をマスターしました。それを今でも続けています。
そうすると、まず一つは単文ができるということと、それからどんな文章を書いても、絶対に文章はねじれないという二つが必ずできます。少々文章が下手でも皆さんが読んで伝わるものを書けるようになったんですね。
稲継 それって重要なことですよね。
畠山 だから、逆に言うとこれは、国語3の自分だからこそできた方法ではないかと思いまして。
稲継 いや、それはグランドセオリーでして、私は大学院生の修士論文などをよく見ますが、一つの文章が150字を超えると、もう主語と述語の関係が分からなくなります。書いている本人も分からなくなるし、私が「これ、分からない。これ、どれが主語でどれが述語だ?」と聞くと、本人も首をかしげてしまうようなことが結構あります。だから、役所の文章でも、自治体の文章もそうだし、国のいろんな文章を読んでいても、「これ、主語と述語が分からない」と審議会で言いますと、担当者が大慌てで「えっと、どれだっけ?」っていう感じですよね。分からなくなるんですね。おっしゃるように、まず主語と述語をバチッと押さえておくのが大事なグランドセオリーだと思います。
畠山 だから、例えば「私は取材しました」とかいう文章を先に作ってしまって、「私は今日、岩手県一関市で畠山浩さんを取材しました」と入れていくと、絶対に崩れないですね。これをもうすべてに当てはめて書くようにしています。あともう一つは、できるだけ、和のリズムというんですかね、五七五ではないのですが、多少は字余りが出てきますが、できるだけ五七五とか五七七五とか、そういうリズムでなるべく書くようにして来ました。
稲継 そうですか。ありがとうございます。
そういういろんな取り組みをして、藤沢町役場の広報誌が最初のこのような従来どこにでもあるような広報誌から、非常にタイムリーなもの、昔は何ページぐらいだったんですか。
畠山 16ページですね。
「Fujisawa」最終号
稲継 16ページもので、表の写真は何か写真を撮った。あとは何か下水道事業の供用開始があって、ここからここまでですよ。まちづくりフォーラムで誰が出てきますよ、人事案件があって、道路の補正予算があって、ごみの収集はいつですよとか、そういうのがズラズラと並んでいる。これは全国、どこの皆さんにもおなじみの普通の広報誌なんですけれども、それがまるで、書店で売っているような雑誌のような、本当に500円払って買うような、そういう総合情報誌に変わっているんですよね。
このときは、最終号ということですが、60ページありますよね。非常にいろんな特集が入っていて、写真も非常にきれいなものが入っているんですが、この大転換をされたというタイミングがあったと思うんですね。その大転換をする時のタイミングっていうのは、畠山さん一人の決断では無理ですよね。例えば上司とか、もっと言えば、町長なんかも全部ゴーサインを出してくれないと変えられないと思うんですけれども、その辺の時の状況を教えていただけたらなと思います。
畠山 2001年の8月に岡山県の高梁というところで、いわゆる全国中学校体育大会の女子のソフトボール競技というのがあったんですね。そこで藤沢の子どもたちが、それは中学生なんですが、その子どもたちが日本一になったんです。全国制覇をしました。その時の私の上司というのが、たまたまそのチームの父母だったわけなんです。それで、「たぶん後にも先にもないんで特集してくれ」と言われまして、「もちろんいいですよ」ということで、当時とすれば、本当に未知の領域だったんですけど、12ページの特集を組んだんですね。そうしましたところ、普段、ご家庭に配って関係機関などに郵送して、100部ぐらい残部があって、それはもう誰ももらいに来ないので、いつかリサイクルに出すというのがパターンなんですよ。それがその号に関しては、もう1週間以内で残部が全部品切れになりました。
なぜかといいますと、一緒にソフトボールをやって来た友達に見せたいとか、学校の友達に見せたいとか、あとは仙台のおじさんに送りたいとか、いとこに見せたいとか、そういうのがあって、みんながもらいに来てくれて、それで急遽補正予算を取って300部増刷したんです。ところが、それもあっという間になくなって。
というようなときに、初めて自分の広報が必要とされていたわけです。それがうれしくて、特集の効果というか、人を取り上げるというのはこんなに素晴らしいことなんだ、というのを自分で実感しまして、それが一つの転機になりましたね。
その後からそういうことがあったので、特集をやりたいということを上司に言いましたら、それは広報を読まれるためには必要なんでやれやれ、というようなことで、町長には当時の課長が全部話を通してくれて、そこから今まで一度も特集のない月はないですね。
稲継 そうですか。
畠山 ずっとやり続けました。
稲継 それは、先ほど三船先生の教えで、審査員を見るんじゃなくて町民を見ろとおっしゃった言葉がまさにそれが出て来たわけですね。で、町民からニーズがあってたくさんもらいに来てくれるというのは、これは広報マンにとったら...。
畠山 いや、もう最高ですね。
稲継 たまりませんよねえ。
畠山 広報には、広報コンクールでいつに何の賞を取りましたというのは一切載ってないんですが、全ての号が「残部はありません」と品切れになっています。最後の3年間ぐらいは、もうずっと品切れマークだけでしたね。
稲継 そうなんですか。余部は刷っておられるんですよね。
畠山 刷ってあるんですけど。実はこれも先生が来るので、私は借りて来たんですよ。実は、私のバックナンバーすらないんです。
稲継 そうなんですか。
畠山 これはあげた人から、「貸すから返してくれ」と言われて(笑)。
稲継 そうなんですか、すごいですね。いや、これはカラーですよね。特集号を作り始めてからカラーに変えていかれたわけですか。
畠山 そうですね。
稲継 カラーは結構予算をとると思うんですけれども。
畠山 そこが、実は、ふざけたようなものを出して申し訳ないんですが、これは私が広報セミナーの講演で使った資料なんですが、こちらをご覧いただきたいんです。実は、こちらにみんなから「いくらかかっているの」と必ず聞かれるので、予算額と発行部数を全部書いているんですが、私が始めた頃に440万円あった予算がやめるときには230万円に減っているんです。それで、ボリューム的には倍以上でクオリティーもここまで上がったものを作っている。
稲継 2色刷りから4色カラーになって、16ページから32ページになったのに。
畠山 「年間200万円で作るFujisawaの裏技」と書いているんですけれども。
稲継 その秘密を教えてください。どうしてこんなことが可能になるんですか。
あるきっかけから広報誌づくりにのめりこんでいった畠山さん。特集記事は人気の的となり、毎号売り切れ(品切れ)になってしまう広報誌Fujisawa。紙面は倍増し、カラー印刷になったけれども、予算はむしろ減っている。その秘密はなんだろうか。
(以下、次号に続く)