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第90回2014.09.24

オランダとスウェーデン

2014年8月末にオランダとスウェーデンを訪問しました。両国とも小国ではありますが、いずれも多文化主義的な政策を採用した移民に寛容な国として、欧州の移民受け入れの歴史の中で大きな影響を持ってきました。

オランダの人口は約1900万人で、その11%が外国生まれ(外国人は約5%)です。オランダは、ドイツ同様1960年代以降、ゲストワーカーの受入れを進めましたが、1973年のオイルショック以後、受入れをやめました。1980年代には多文化主義的な統合政策を進めていきますが、1998年のニューカマー市民統合法の制定によって統合プログラム(オランダ語とオランダ社会の学習)を始めて以来、移民の受入れを厳格化していきます。

2000年代になると、多文化主義への批判が高まりますが、2002年の人気政治家ピム・フォルタインと2004年の映画監督テオ・ヴァン・ゴッホの2つの殺害事件によって、世論は決定的に移民(特にイスラム移民)に厳しくなりました。2000年代後半には、入国前の外国人の一部や永住許可の申請者に統合試験を課すなど、統合政策の改革が進みます。2000年代以降、反移民政党が一定の支持を得るようになり、今年5月の欧州議会選挙で、オランダの反移民政党である自由党は、13%の得票率で第3党となっています。

スウェーデンの人口は約1000万人で、その15%が外国生まれ(外国人は約7%)です。19世紀後半から1930年代まで移民送り出し国であったスウェーデンは、1950年代から60年代の高度経済成長期に外国人労働者の受け入れが積極的に進められ、1970年には人口の7%近くが外国生まれとなりました。1970年代に、経済の停滞により、労働者の受け入れをやめた一方で、難民の受け入れは積極的に進められました。難民の受け入れ重視は現在まで続き、難民受け入れ大国といえます。

スウェーデンは、1960年代後半から統合政策に着手し、1975年には多文化主義的な統合政策の基本方針が策定されました。特に有名なのは積極的な二言語主義(学校教育における母語教育の推進)の採用でした。1990年代には、冷戦の終焉によって難民の受け入れが急増しますが、移民の隔離や貧困、差別などの問題も顕在化しました。1998年には統合政策の強化のため、統合庁が設置されますが、2006年、長年続いた社会民主党政権が退き、代わった保守中道政権は、統合・男女平等省を設置し、統合庁を廃止しました。2010年には、雇用を重視した統合政策を進める方針のもと、統合・男女平等省は廃止し、雇用省が統合政策を所管するようになり、今日に至っています。2014年9月の総選挙で8年ぶりに社会民主党が勝利しましたが、反移民政策を掲げる民主党も躍進し、今後どのような政策がとられるか予断を許しません。

オランダでは、アムステルダムとロッテルダムという国内で最も大きな2つの都市を訪問しました。アムステルダムでは、最も移民が多い南東区で区議会議長(区長)を2010年から2012年まで務めたマルセル・ラローズ氏の案内で、劇場や警察、教会、ラジオ局など区内の関連団体を訪問しました。多様性を生かした都市づくりを進めるインターカルチュラル・シティ・プログラムのメンバーであるロッテルダムでは、今年5月まで副市長を務めたコリー・ラウィッシュ氏にお会いし、ロッテルダム市の移民統合担当者の案内で、ロッテルダム市内の最も移民が多い地域を訪問しました。訪ねた地域は、いずれも10年前は犯罪が多発する問題地域でしたが、自治体が様々な取り組みを進める中で、大きく改善されていました。

一方、スウェーデンでは、ストックホルム市と同市に隣接するボットシルカ市を訪問し、カタリーナ・ベリグレン市長にお会いしました。同市はスウェーデンで最も移民の多い自治体で、インターカルチュラル・シティ・プログラムのメンバーでもあります。多様な文化背景をもった生徒が通う高校や図書館を訪問しました。図書館では、反うわさカフェが開かれていました。これは、バルセロナ市で始まった、移民に関するうわさについて市民がオープンに討論する集会で、地元の警察官や市議会議員も参加して、移民に関する市民の本音について語り合う興味深いイベントでした。私がスウェーデン訪問したのは、ちょうど国と自治体の選挙運動の真最中で、ボットシルカ市のユース議会が主催する市議会議員候補との対話集会にも参加することができました。

オランダとスウェーデンでは、他の欧州諸国同様、移民に関する否定的な言説が国政やマスコミで広がっていますが、自治体や地域レベルでは、移民の受け入れに関する経験と知見が着実に蓄積されていることを感じました。