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コラム
合同会社おでかけカンパニー 代表 福本 雅之
2020.10.28
地域の持続可能性を高めるための公共交通の役割
「公共交通はコロナが怖いから、クルマで来たよ」
先日、行政の公共交通担当者を対象とした研修会に講師として呼ばれた際、とある参加者が別の参加者に話していた雑談が耳に入ってきた。今回のコロナ禍の中で「電車やバスは密だから怖い」と敬遠され、企業の中にはマイカー通勤を奨励するところも出てきている。
ただでさえ、地方や中山間地域の移動手段の主役はマイカーである。1人1台のクルマがあるという家も珍しくない。
そこへ来てのコロナ禍で、感染リスクが高いというイメージをもたれた公共交通には逆風が吹き荒れている。冒頭の某行政担当者の話はそれを象徴している。果たして、これからの社会で公共交通、特に地方部の公共交通にはどのような役割があるのだろうか。あるいは、マイカーがあれば公共交通など不要なのであろうか。
いかにマイカーが主役とはいえ、マイカーを使えない人は存在する。免許取得が一般的ではなかった世代の高齢者や、免許を取ることができない子供たちがその代表である。
この中でも高校生が特に重要であると考えている。小学生や中学生にはスクールバスが手当てされる一方、相当な中山間地域であっても、高校生の通学は公共交通に頼らざるを得ない。こうした地域では、通学手段の制約から進学先の選択肢が限られてしまう。希望する高校に通うためには、家族がマイカーで毎日送り迎えを強いられることもある。すなわち、公共交通での通学が不可能な場合、その地域は高校生の住めない場所になってしまうのである。
実際、中山間地域では子供が高校に進学するタイミングで地域を離れる家族も少なくない(ただし、こうした動きは1つの自治体の中でなされることが多く、住民票の異動がない場合もあって、統計上には数字として現れにくい)。そもそも、両親が地域で農業に従事しておらず、マイカーで街まで働きに出ているような場合、地域に住み続ける必然性もない。とすれば、子供の通学の便の良い街中に引っ越してしまおうという動きが出るのは、世帯の行動として自然なことである。
結果として、地域には細々と田畑を耕す祖父母のみが残り、若い世代はごっそりと街へと移住してしまう。このようなことが続いていけば、高齢化はさらに加速し、地域の持続性が保たれるわけもない。
筆者が関わった事例の中で、高校生の通学手段を確保するために公共交通の充実に取り組んだ結果、成果を挙げた地域を紹介する。愛知県の北設楽郡(設楽町・東栄町・豊根村)は、愛知県の北東部に位置し、長野県・静岡県と県境を接する、3町村合わせて人口1万人足らず、高齢化率は約50%という中山間過疎地域である。
郡内には設楽町に県立田口高校が立地しているが、学生の確保が課題となっていた。その一方で、高校生の中には通学が不便なために高校進学とともに下宿をせざるを得ず、結果的に田口高校ではなく郡外の高校を選択した、という生徒も少なくなかった。田口高校を選ぶ生徒を増やし、郡内唯一の高校を存続させることが、若い世代を地域につなぎ止めることになるという課題意識の下、田口高校への通学利便性を高めるため、3町村が協力してバスの利便性を高める取り組みを行うこととなった。
もともと、3町村ではそれぞれが町村営バスを運行していたが、各町村の中で閉じた運行が基本であったため、町村をまたぐ移動の際には、町村境での乗り換えが必要であった。このため、必ずしも通学しやすいとは言えない田口高校を選ぶ東栄町・豊根村の高校生は少なかった。
そこで、3町村の運行する町村営バスを相互乗り入れすることで、高校まで直接行けるようにした。具体的には、通学時間帯に東栄町・豊根村のバスが設楽町まで直行するようにしたのである。
こうした取り組みを行ったとしても、住民に知られなければ効果は出ない。特に高校生の親はマイカーで移動する世代であるので、バス車内やバス停に利便性向上の案内をいくら貼り出しても無意味である。そこで、進学先を決める中学3年生を対象に、電車・バスで行ける高校リストと、通学に使える便の時刻を掲載した広報誌を配布することも併せて行った。
こうした施策を行った結果、東栄町・豊根村から田口高校へ進学する高校生が増加し、各町村における高校生の下宿率も減少した。また、田口高校への交通アクセスが改善されたことを受けて、田口高校内に豊橋特別支援学校の分教室が設置され、対象となる生徒の通学負担が大きく軽減された。
北設楽郡での取り組みが始まっておよそ10年が経過した。この間、隣接する地域では高校の統廃合が相次いだ。もし公共交通の取り組みがなかったら、それは田口高校であったかもしれない。
地域が持続可能であるということは、地域の中で多様な世代の人々が暮らしを営むことができ、将来世代へと引き継いでいけるということである。マイカーを使える人のみが暮らせるだけでは持続可能とはいえず、公共交通の果たす役割は決して小さいものではない。