メールマガジン

第43回2008.10.22

インタビュー:宮崎県北郷町役場 早田 秀穂さん(上)

 今回の登場人物である早田さんと、私(稲継)が初めて出会ったのは、JIAMの人事評価に関する研修だった。私が担当する研修において、早田さんは40数名の受講者の中の一人であったが、相当程度準備をしてきて授業に臨んでおられたことがうかがわれた。
 また、ひときわ目立って質問を次々としておられた。演習の結果の報告者に対する質問だけでなく、他の参加者の質問に対して「その質問自体論理矛盾している」という指摘をし、報告者、質問者、早田さんの3人の間で活発な議論も展開されていた。研修期間中、きわめて積極的に議論にかかわっておられた(この点については、過去のメルマガで触れたことがある)。
 研修の講師をしていると色々な受講者に出会うが、私にとっても、少し衝撃的な出会いであった。しかも、その方が、都庁や指定都市といった大規模な組織ではなく、宮崎県の比較的小さな町役場におられることが私の興味をかきたてた。
その後、早田さんから、それまで役場でやってこられたこと、最近の合併の中でやってこられたことを聞く機会を得た。小規模な組織であるがゆえに、さまざまな業務を体験できること、裁量の多いこと、住民との近接性などから、人事配置を考え、職員自身がやる気を出しさえすれば、小規模組織でも、幅広く色々な仕事に自発的に取り組めることを実感した。
 他の自治体職員の方々にとって参考となるさまざまな経験をしてこられたと感じたので、今回、メルマガ「分権時代の自治体職員」に登場していただくことにした。


稲継 今日は北郷町役場の総務課総括課長補佐兼職員係長兼総務係長兼選挙管理委員会書記長補佐という非常に長い肩書きをお持ちの早田秀穂さんにお越しいただきました。
今日はどうもありがとうございます。

早田 よろしくお願いします。

稲継 よろしくお願いします。まず、早田さん、入庁されたのはいつになりますでしょうか。

画像:早田 秀穂さんの写真
早田 秀穂さん

早田  採用は昭和54年の10月です。実際は4月から北郷町役場に勤務していましたが、今考えれば、6月のボーナスカット、12月の勤勉手当のカットを目的としたとしか思えない'試用期間制度'が北郷町は取られており、当時は10年ぐらい10月採用がつづいていた時代であり、私も10月に採用となっています。

稲継 北郷町役場に入庁されてから今まで歩まれた仕事をいろいろ教えていただく中で、お話を聞いていきたいと思うのですが、最初に配属されたのはどこでしょうか。

早田 最初の配属は、企画調整室という企画から広報、統計、財政等を持っている管理部門の課の広報統計係でした。

稲継 そこではどのような仕事をされましたか。

早田 主に広報誌の作成と統計業務でした。ただ、広報といっても当時は、一週間に1回発行するお知らせ板スタイルの'週報'と、年に4回程度、通常の6ページから8ページの'広報誌'の2通りの広報誌作成があり、一週間がとても早かったという記憶が残っていますね。

稲継 毎週、週報をつくるというのは結構たいへんですね。

早田 たいへんですね。裏面は主に各課から原稿を集めたいろんな連絡事項を掲載するのですが、表面に約半分程度、自分の判断で載せられるスペースがありまして、そこを少しでも住民の方に読んでいただきたい。そのためにはイラストを入れるよりも写真を入れた方がいい。その写真もできるだけ住民が写った写真の方が住民に関心があるだろうということで、いろいろと兼務の中で写真撮影に走り回ったという記憶が残っています。

稲継 なるほど。実際に仕事をやられてどういう感想をお持ちになられましたでしょうか。

早田 当然、はじめての社会人ということで、どちらかというと定型的な業務が多かったのかなと思います。統計という仕事が一番顕著ですし、唯一、広報誌の作成が創意工夫できる場かなと思っていました。ただ、今考えると当然入庁したばかりで、自慢が出来るような仕事をやったということはほとんどないですね。

稲継 そうですか。

早田 先輩に話を聞いて、その指示に従っていろんな業務をしていくということが日常業務でした。また、「若気の至り」で失敗や迷惑をかけたこともあったと思いますが、当時はOJTとか「仕事で部下を育てる。」という発想がない時代でしたし、今思えば自分自身、「仕事を通じて上司や先輩から人材育成してもらった。成長した。」という実感もありませんね。

稲継 それが昭和54年の実質4月から2年間ほどされたわけです。次にどちらの仕事に行かれたのですか。

早田 次に、税務課の中に地籍係というのがありまして、当時、北郷町は固定資産税の公平化と税の確保から宮崎県内ではいち早く地籍調査に取り組んでいました。ところが、取り組んだのはいいけれども、年次的な総合的計画書もないということで、異動当初は現場に行きながら、今後の調査計画をつくるという仕事に携わることになりました。
 また、実際は地籍係の配属でしたが、少ない職員で切り盛りするという町村の職員ですから、当時から係の壁を越えた仕事をするのが当然のことで、職員による現地調査も終了し、計画書も作り上げた8月以降は、地籍調査の主体は業者測量になりますので、固定資産税の評価替えも手伝いました。そちらのほうでもほとんどずっと残業だった1年間でした。

稲継 まあ、ここでの仕事は住民の方と接するような仕事ということですよね。

早田 はい。

稲継 広報のときにはあまりそのような機会はなかったわけでしょ。

早田 どちらかというと、取材をして一方的に記事にするということで、今思えば反省のひとつです。地籍調査では、実際、山や田畑の境界確認を行う現地調査の際、推進員という地元の詳しい方と一緒に回りますが、その方々と、当時は土曜日が半日勤務の時代で、月1回程度昼からは川に行って鮎を採ったりとか、推進員の方々にイノシシ撃ちに連れて行ってもらったりとかしていました。これが、住民と接するはじめての機会でした。

稲継 なるほど。土曜日の半日勤務というのは、もうなくなってしまいましたけれども、今から考えてみると、そういう接するいい機会だったのですね。

早田 そうですね。また、今までは役場の中で冷暖房の元で仕事ができる職場でしたが、地籍係は、暑いさなかに山に登って汗を流す職場であり、同じ役場職員でもだいぶ環境に差があるなとも感じました。

稲継 この税務課にはどれくらいおられたのですか。

早田 1年で動きました。

稲継 どちらへいかれました。

画像:早田 秀穂さん
早田 秀穂さん

早田 宮崎県庁の現在は市町村課となっていますが、当時は地方課という課の振興係に配属になりました。当時、労働組合が地方課派遣等にものすごく反対をしておりまして、私自身も当時の執行委員長等から再三呼び出しを受け、行かないように説得をいだきました。
  当時23歳とまだ若く、たいへん悩みましたが、父と相談した結果県庁派遣を受けることにしました。と申しますのも、当時父は北郷町に隣接します日南市の総務課長でしたが、私が公務員の道を選んだのは、父を見ていて自分も公務員になりたいなという夢が高校生のときに芽生えたからであり、その父自身も日南市役所から県庁地方課に行っているんですね。現在、親子で行ったのは私たち親子だけと聞いていますが、父の方からいろいろ勉強になった、絶対将来役に立つという話を聞いていましたので、入庁の際から、ぜひ県庁地方課へ行きたいと思っていたものですから、行かせていただきました。

稲継 なるほど。それで、行かれて、実際に地方課振興係でどういう仕事を担当されましたか。

早田 振興係の仕事は、主に起債の許認可、そして各市町村に出向いてその効果測定等の現地調査や指導でした。また、地域振興計画の策定等をさせていただきました。当然、財政主管課長会の説明や市町村のヒアリングが年度当初に組まれておりましたので、そうそうたる財政のメンバーに負けないように、ずっと書物を片手に法令等とかいろんな制度を勉強しました。こういった勉強をしたのは、地方課がはじめてかなと思います。

稲継 やっぱり、県庁地方課に行かれたのが、相当勉強するきっかけになったということですか。

早田 そうですね。必ずしも市町村が出してくる要求要望をすべて認めることはできませんし、それを査定するのは一担当に任せられていましたので、まず制度の内容からその効果的なものを判断しなければならない。
 さらに、県が市町村のデータを集めて、7月、8月には上京し、今度は国との折衝があるという状況でした。国の職員の中で一研修生がこの市町村がこういう事業をやるんだ、どういう効果があるんだということを、当然、説明しなければなりませんから、公務員になって間もなかったのですけれども、結構そういう県内の市町村の状況を調べたりとかさせていただきました。そういう申請の中の仕事について市町村でやっぱり温度差があるなと、担当者の熱意とかいろいろあるでしょうけれども、状況がぜんぜん違うなと思いました。今、あらためて振り返ると、県庁地方課に行った一年間というのは、北郷町と他の市町村を比較できる目が養えたよい機会だったかなと思います。

稲継 なるほど。北郷町と他の市町村との比較ができるようになったということと、法律とか政令についての勉強を県の職員として追い込まれてやるようになったということと、それといろんな人と接触する人脈ができたのではないでしょか。

早田 大きいですね。それが一番の財産でしょうね。現在も、北郷町は県庁への派遣研修を実施していますが、今現在は、もう組合の反対はありません。行ってきた私どもが、こういう効果があった、こういう研修だったというのを、時間はかかりましたけれども、説明してきましたし、逆に、若手職員は行きたいという希望をもってますので、何の反対もなく今は行けると思います。
  私が行った以前は県の独身寮を優先的に配置されていたのですが、組合が反対した関係もあって、市町村の派遣職員が有利なのはおかしいということになりまして、独身寮に入れず、1か月間通勤しました。着任当初は夜の12時、1時、2時の退庁が普通で、途中でダウンして車の中で寝たことも何回かあります。ようやく、県庁の独身寮に6月から入れました。
  年度当初の忙しさも夏以降は山を越えますので、県庁の方々と仕事が終わって10時頃から飲みに行くんですけれど、行った飲み屋さんのマッチ集めをはじめまして、北郷町に帰るときには86軒回っていました(苦笑)。その地方課というのは、どの県でもそうなんでしょうが、ある程度県庁の中でも期待された方が多く集まるポジションで、そのときの同僚の方が最終的には宮崎県の総務部長とか教育長とか、そうそうたる地位に上がられましたし、その方々との交流を続けていくことによって、私自身にとっても北郷町にとってもかなりいいことがいっぱいあったのではないかと思います。

稲継 地方課に派遣されるという経験をされました。そのあと戻られてどのような職場に行かれましたでしょうか。

早田 今は「職員調査」と申しまして、自分が異動したいセクションの希望や、その理由は何なのかということを聞いて人事異動の参考としていますが、その当時は密室の中の人事異動だったと思うんです。1年間、せっかく県庁地方課に行って振興をやったので、また、企画とか財政に行きたいなという希望は持っていたのですが、異動先は、住民福祉課という課になりまして、その中の社会福祉係に配属されました。
 現在は介護保険や後期高齢者制度等の福祉制度改革等に伴う社会の変革や住民ニーズにより複数の係がありますが、当時は、保健衛生係と社会福祉係の2係しかありませんでした。社会福祉係では、たった3人の職員で保育所に係る事務、国民年金、全ての福祉制度、つまり重度心身障害者医療制度、児童手当、敬老年金・福祉電話等の高齢者福祉、そして、当時できたばっかりの高齢者医療制度や県福祉事務所と連携しての生活保護等の業務を担当することになりました。初めて職場で徹夜をしたのが、この住民福祉課なんですが、当時レセプト点検はなぜか国民健康保健を所管する保健衛生係ではなく、老人福祉という観点から社会福祉係の所管となっており、今でこそレセプト点検にいろんな助成措置をされていますけれども、当時の北郷町で国、県からいただくレセプト点検の費用助成は臨時職員3日間分の雇用助成金だけでした。

稲継 1年間で3日間だけですか。

早田 3日間です。

稲継 それじゃ、とても点検できないですね。

早田 私がレセプト点検を行った結果、過誤で一番多かったのが、同じ方が複数の病院に行かれており、住民票が動いているのに、国保の方の手続きがされていないとか、病院側がちゃんと保険証を確認せずに町に医療費の請求をされているとかでした。結果的に徹夜を3日間したことによって、2千5~6百万円の過誤を見つけたのです。

稲継 そうですか。

早田 それが認められまして、それから翌年には臨時職員が3か月、3年目には半年と予算化されるようになりました。レセプト点検という業務は、今はどの市町村も専門の医療事務の資格を持った方が定型業務として処理していますけれども、当時の町村では未着手の分野でありましたし、経費の節約にもかなり寄与したと自負しています。
 また、レセプト点検をしていく中で、あるおばあさまが風邪という病名だけでお一人で一月に5つの病院を回ってらっしゃる。5つの病院からもらわれた薬が360錠。はたして、それを飲んでいるのだろうかと疑問に思いまして、当時、今でこそ、どこの市町村でもやってらっしゃいますが、あなた様の関わられた1か月間の病院は5つ替わられて、お金がいくらくらい実際にかかっているんですよという、'医療通知'を県内の町村では2番目に出した記憶があります。ただ、通知を始めた当初は、「これは病院へいくなということか」とか「どういう意味なのか」とクレームやお問い合せをいただきましたが、医療費の実態や町の負担等を説明申し上げ、納得していただいたということもありました。

稲継 3人で社会福祉のすべての仕事をということですから、福祉六法、福祉八法といいますか、いろんな法律がかかわってきますよね。これを、手元に福祉小六法を置いて、常にチェックしてやらなければならない。かなりの分量の仕事ですよね。

早田 ただ現実的に県の地方課(市町村課)時代と違って、そこまでの専門的な知識を要さなかったのは幸いでした。国県レベルで順路は定められており、それに従えばいいわけですから。ただ、あまりにも広すぎるので、本当に広く浅くしかできないとう状況でしたね。わからないことは、ともかく県や近隣市町村に電話して解決していました。レセプト点検の際も、専門用語で記載されていますから意味が分からず、直接病院に尋ねたことも多々あります。そうでないと仕事が回りません。そのおかげで、県や市町村、そして病院等の関係機関といったところに数多くの知人・友人ができました(笑)。
 また、係で保育所を2つ所管していましたので、保育所の運動会があると保育所現場は女性職員だけですから、保護者の方々と門柱を建てたり、ラインを引いたりとか、そういった仕事も本庁の職員で対応していました。
 さらに、社会福祉協議会と一緒になって一人暮らし高齢者宅にヘルパーさんと一緒に訪問し、煙突掃除などを。精神に障害をお持ちのご夫婦の場合は、保健衛生係の職員にも同行してもらい、畳をあげて掃除を行うなど、そういった住民の中でもどちらかというと課題のある方々のお世話を2年間ずっとやってきました。
 いろいろな環境下にある住民の方々と直接お話しをし、聞いてあげるという公務員の初歩をつかんだ2年間であったと感じています。


 次号に続く。