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第32回2007.11.28

インタビュー:山口市職員課長 伊藤和貴さん(上)

 人事課(職員課)は大きく変わりつつある(「人事課の存在意義」を参照されたい。)。各地の自治体の人事課長(職員課長)さんとお話していると、そのことを実感することがある。昔の人事課長のイメージ(堅い、暗い、厳しい、笑わない、はじめからけんか腰、あげあしをとる)とは全く異なる、明るい、笑顔のすてきな、柔軟な思考をもった人事課長である。
 今回インタビューに応じてくださった山口市の伊藤課長もそのような方である。
 山口市の職員課の職員は、皆が「人事研修担当」である。全員が研修担当者であると同時に、人事担当である。分限処分の担当をしている職員が研修を受け持ち、また、冬には人事異動作業に従事する。職員同士で情報の共有がかなり進んでいるという印象を持った。
 この職員課を率いるのが伊藤課長である。終始にこやかに優しい笑顔で話に応えてくださる。驚嘆すべき読書量に裏打ちされた豊富な知識を持ち合わせているものの、それが嫌みに感じられない。このような課長のもとで、情報を共有して働く職員課のメンバーともお話したが、皆、いきいきとして、明るかった。


稲継 今日は、山口市にお邪魔いたしまして、伊藤職員課長さんにお話をお聞きします。お忙しいところどうもありがとうございます。よろしくお願いします。

伊藤 遠くまでご苦労様です。よろしくお願いします。

稲継 入庁されてから、今までのお仕事を振り返る形で、お話をお聞きしていきたいと思います。入庁されてからどのような職場を歩んでこられたのかご説明いただけたらと思います。

入庁から30歳まで

伊藤  山口市役所に入庁したのが、昭和55年の4月。最初の所属が教育委員会の社会教育課という、様々な現場を抱えている職場でした。そこで5年間、青少年教育であるとか、人権教育であるとか、様々な現場を5年間経験させていただきました。

その後、総務部の庶務課法令審査担当を2年間。その頃は今と違って通達行政の全盛期で、要は通達を探したり前例を探したりすればいいということで、あまり気乗りのしない仕事を2年間やっておりましたら、県庁へ行けということで、1年間県の地方課へ行って、地方自治制度なり、公務員制度を基礎から勉強させてもらったという感じです。その直後に職員課の人事係に配属になりました。

稲継  一般に職員は、最初の所属、最初の先輩によって、その後の人生の多くが決まる場合が多いといわれます。伊藤さんの場合、社会教育課で公務員としての哲学をたたき込まれるような、その時に自分なりに得られた教えなり、格言なりというものはありますか。

伊藤 当時、社会教育課というのは、熱い先輩が多くて、とにかく現場主義で行こうと、真実なり、真理は現場にあるんだと、だけど現場というものは遠いものだぞという、刑事魂みたいなものですかね。

稲継  「現場が遠い」とはどういうことですか。

伊藤 いくら住民の中に入っていっても本音の部分や本質はなかなか見えにくいということだったと思いますね。

稲継 それでも現場に近づけという。

伊藤 はい、とにかく、分け入って理屈ではなく皮膚感覚で感じてこいという方針でしたね。あれがすごく勉強になりました。

稲継 社会教育課で公務員としての哲学をたたき込まれた後、総務部の庶務課に移られました。ここでは、どちらかというと定型業務をやられた。その後、県の地方課の勤務は勉強になりましたか。

伊藤 当時、通達行政の全盛期ですので、やはり、基本的な法令運用の勉強にはなりましたね。

稲継 そして、市に戻られて、職員課に配属されました。これが30歳くらい。

伊藤 そうですね。

職員課の係員時代

稲継  職員課には、何年くらいおられて、どういうお仕事をされたんでしょうか。

画像:伊藤和貴氏写真
伊藤和貴氏

伊藤 職員課には、昭和63年から平成4年3月までですから、4年間ですね、人事の担当に携わっておりました。その時に始めた仕事としては、今で言うジョブローテーションですね。採用後10年間は、職員を3年ずつ3回は異動させたいねと、そういう方針がそこで出来ました。その頃はまだジョブローテーションという言葉は知りませんでしたけれど、感覚として、10年間で3回くらいは回したいなと。

稲継 それは、「回したいな」と伊藤さんが思われたんですか。

伊藤 そうですね。私が新採で5年間おりましたんで、やっぱり新採で5年間は長いなという感じがありましたので。

稲継 新採の10年間で3回回すというジョブローテーションを自主的にその時にルール化していかれた。

伊藤 そうですね。

稲継 なるほど。最近では割とジョブローテーションとして、若い時期に人材育成の観点から回すというのは全国の自治体に広まりつつありますけれど、たぶん昭和63年だとそこまで明確に10年間で3回ということをルール化している自治体はまだ少なかったんではないでしょうか。

伊藤 そうかもしれませんね。

稲継 その時には、他の自治体を調べるということはされましたか。

伊藤 いえ、不勉強者で調べなかったと思います。

稲継 皮膚感覚で10年間に3回と決められたわけですね。

伊藤 はい。3回くらい回した方がいいよね、という感じですね。当時、人事の課長も係長も非常にオープンでチャレンジを好む人だったんで、私のような下の意見をどんどん吸い上げてくれました。

稲継 当時は、まだ係員ですか。

伊藤 そうです。係員です。

稲継 係員の意見を上が採り上げてくださって、10年で3カ所回らせようよと、

伊藤 当時の係長も新規採用で10年間同じ職場にいた経験から、「それいいね。」ということで。

稲継 なるほど。それをルール化された。

伊藤 そうですね。

稲継 他にはどういうことをされてましたか。

伊藤 あとは、昇任ですね。当時は非常に昇任が少なかったんですね。大きな定期異動をやっても一人か二人しか昇任しない。当時、係長昇進が45歳、課長補佐が50歳とかですね、そういう遅い昇進年齢だったんで、組織全体の若手のモチベーションが落ちてるということで、とりあえず、最短の昇進ルートを設定しようよということで、35歳で係長を作ろう。45歳で課長を作ろう。その真ん中の40歳すぎで課長補佐を作りましょうという最短の人事を戦略的に仕掛けていこうという方針を作ったことが大きいことだったと思います。

稲継 なるほど。でも、今お聴きしますと45歳で係長が平均だったものを35歳にした。かなり大胆な変更ですよね。

伊藤 そうですね。その時は10歳くらい下げていこうということで、当時の職員課長の発想で、5年かけて段階的に下げていこうよということでやってきました。

稲継 そうすると、全員が係長になれるわけでもありませんよね。

伊藤 そうですね。

稲継 かなり選抜も厳しくしていかなければならないし、よく見ていかなければならないということになりますよね。

伊藤 はい、それでその時にセットで始めたことで、人事調査書というのがありまして、要は、定期異動のときに、本人の意向を聴きましょうというのと、それから、それに対して所属長の意見、その意見欄を当時付け加えたという感じですね。

稲継 意見欄ということですが、実質的に人事評価も入るということですね。

伊藤 そうですね。実質的にはそれが人事評価、それがそのまま人事に反映するというスタイルで、異動と昇任にもこれが反映するということですね。

稲継 これをこの時期に始められた。

伊藤 そうですね。その意見欄をつけたのがその時ということですね。

稲継 かなり大胆な改革ですね。今までこういうのはなかったんですか。

伊藤 異動希望だけはずっと取っていたんですが、それに対してコメントをもらう。今で言うところの評価なんでしょうけどね。それをつけていかなければ客観性が出ないという発想でしたね。

稲継 こっそり入ってるけど、すごく重要な人事評価ですよね。

伊藤 それを当時の係長と相談してこっそり入れたわけです。

稲継 なるほど。昇進最短ルートを作られた。それから、人事調査書に所属長記入欄を加えて、実質的には人事評価制度を入れられたということですね。
 その他に取り組まれたことはありますか。

画像:インタビュー風景写真

伊藤 その他、人事担当としては、採用試験という業務もあるので、それまで、いわゆる採用試験というのは、1次はペーパー、2次は三役を中心とした役職の面接と、それで合格者を決定していくというルールだったんですけれど、ある意味でそれだけで人が見切れているんだろうかという疑問がありまして、2次試験から集団討論的なものを入れようじゃないかという提案をしました。その審査はやはり現場に近い若い職員がやりたいということで、要は、職員採用の採点権限を若干現場に取り戻すという作業を行いました。まあこれもかなりいろいろあったんですけど、結局は当時の職員課長が上の方を押し切ってくれまして、2次試験の割合の30%くらいですかね、それを職員課に留保することができました。

稲継 当時は時期的に言うとバブルの頃ですよね。比較的、人は取りにくい時期だったんでしょうかね。その時期に敢えて人物本位の試験をやろうということに切り替えていかれたんですね。

伊藤 そうですね。

稲継 その後、バブルが崩壊した後に全国の自治体はそちらの方向にシフトするというところが増えていくわけですけど、山口市は早かったんではないですかね。集団討論を取り入れられたのは。

伊藤 全国でも早いところは若干始まっていましたけど、大勢の中では、幾分早めだったかもしれませんね。

稲継 それから、新採のチューター制度のようなことを作られたと聞きましたが。

伊藤 今のようなチューター制度ではなく、今振り返って思うんですけど、新採職員に聴いてみると、当時の係長によって、その職員の一生が大きく作用されているという話を多く聴いたんで、とにかく、いい指導者がいるところへ新採を貼り付けようと、その直属の上司をいわゆる指導担当として任命しようというようなことをやっていました。だから、1年間はイロハからたたき込んでもらおうということですね。

稲継 その直属の上司は、直属の上司であると同時に指導者であるという位置づけをするということですね。

伊藤 そうですね、この係長にその人を任せるという意識で当時は人事をやってました。

稲継 まだ、伊藤さんも当時は30代の前半で、それほど上のポジションにおらたわけでもないのに、伊藤さんの意見を吸い上げてくださって実現していった。そういう意味では、自由にものの言える雰囲気が職員課に前からあったということなんですね。

伊藤 そうですね。当時の職員課は、とにかく昔言葉で言えば開明的というか、課長をはじめとてもチャレンジ意欲のある人が多かったですね。そういう中で私も育てられたという実感がありますね。

 山口市の職員課が明るくいきいきとして、風通しがよいのは、どうやら、この当時からの伝統的のようである。このような職員課の中で、伊藤さんは、自分なりの人事政策を実現する喜びを経験されておられたのだと考えられる。それが、現在の職員課における雰囲気にも大きな影響を与えている。

企画課・都市開発部・文化振興課時代

稲継 4年間職員課におられた後、次はどういう職場に行かれましたでしょうか。

伊藤 次は企画財政部の企画課というところへ、いわゆる総合計画を作りなさいというミッションをいただきました。これがちょうどバブル崩壊前後の端境期で、今まで、総合計画と言えばハード一辺倒、国も相次ぐ経済対策で、とにかくハコモノを建てろという時代から真っ逆さまに落ちていった、いわば今で言うところの「ウオンツ型政策」から「ニーズ型政策」へと転換していく時代だったんですね、民意や地域経済に配慮しながらハードからソフトへと転換していくという、かなり大幅な政策変更を伴う作業をした状況でしたね。

稲継 企画課には何年おられましたか。

伊藤 企画課には、平成4年から平成8年までですから、4年間ですね。

稲継 その次はどちらに。

伊藤 その次は当時、総合計画の中にいわゆる中心的な施設計画というのがありまして、情報芸術センターという名称ですけど、旧市街地の再開発計画の中の拠点施設、それが当時のメイン事業として総合計画に位置づけてあって、それを担当しなさいということで、計画から今度は具体的にやれと、都市開発部というところに人事異動になりました。当時、事業費で180億と要求されたものを、企画サイドで半分の90億に値切ったことも多分に影響していたのかもしれませんが...。

稲継 事務屋さんからすると、やや珍しい職場ということになりますかね。

伊藤 そうですね。技術屋と事務屋とが混在する職場だったですね。だから、技術屋さんはどちらかというと区画整理事業、事務屋は、センターのソフトを構築しなさいという、そういう役割でした。

稲継 そこに4年ほどおられて、その次はどこに。

伊藤 その次は、企画財政部の文化振興課。これはこのときに新たにできた課ですけど、そこでも引き続き、センターのソフトを中心に今度は文化振興という観点から再構築しましょうという仕事をやっておりました。ただ、これが、波乱を含んだ事業になっていくんですけど。

稲継 波乱と言いますと。

伊藤 これがその後の市長選の一つの争点になったと。

稲継 これを建てることの是非が市長選の争点の一つになったということですね。

伊藤 そうですね。

稲継 それを担当しておられた。

伊藤 そうです。

稲継 それを担当の当時は主幹でおられた。

伊藤 そうです。課長補佐ですね。

稲継 でも、現市長から作れと命じられた以上は作る方向で動かなければならない。ところが、市長選の争点としてそれが浮上した。

伊藤 ちょうど、国もお金がない時代で、ハードはやめよう。身の丈論が一番強くなった世相でしたので、やっぱり市民もそれに敏感で、当然そういうことが出るという時代の中で、ただ、市としての政策の観点からすると、やはり、都市部の再開発というのは将来的なストックとして重要であるという方針で進んでいたので、その辺で真っ向から民意が割れたという状況でしたね。

稲継 市長選はどうなったんですか。

伊藤 市長選は、その事業の継続を訴えた当時の助役さん、それともう一人は、それに対して反対という方が出られて、結果としては、反対の方が通られました。

稲継 反対派が通ったということは、事業は中止しろということですか。

伊藤 中止、あるいは目的変更という考えを持っておられましたから。

稲継 じゃ、市長が新しくオフィスに入られて、色々な指示が飛んできたと思うんですけど、伊藤さんのところにはどんな指示が降りてきましたか。

伊藤 それが、悲しいことといいますか、なんと言えばいいのか、市長選がある直前に私は人事異動を命じられまして、市長選が4月上旬にありまして、その直前の4月1日に公民館長に行きなさいと。

稲継 異例な異動ですよね。

伊藤 そうですね。オープン直前のタイミングで異動したということで、新しい市長さんが来られて、その情報芸術センターに対してのアクションは直接は受けていないということです。

稲継 そうすると、新しい市長さんが来られて、一番ドタバタの時に、どちらかというと、やや閑職ポストに一時避難させられていたということなんですかね。

伊藤 当時の人事がどう考えていたかは知る由もないんですけど、ただ、そうは言うものの、新しい市長さんもこれは伊藤が担当していたセンターということで、個別に呼び出しはありますから、今までの経緯なり、思いなり、今後の転がし方をどう考えていたんだというレクチャーはさせていただきました。

稲継 じゃ、新しい市長さんは結局それを中止したわけですか。

伊藤 いや、結局市長さんはある程度の中断期間をおいて、オープンに向けて歩みを始められました。

稲継 なるほど、それが最終的に今の形に作られていくことになるわけですね。

伊藤 そうですね。基本的には、当初のコンセプトを市長さんは認めてくださったと、ただ、もっと市民にわかりやすい形で出していきなさいと、当然それは市長の言われるとおりだったので、そのとおりに。ポストは離れていましたが、それとは密接に関わらざるを得ない立場でしたね。

稲継 なるほど。
  それで、公民館長を命じられたということで、公民館に行かれたわけですけれど、ここはどういう職場だったんですか。

伊藤 山口市の一番北部にある山間部の仁保という集落なんですけど、とてものどかな田園地帯です。


 次号に続く