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第85回2014.04.23

横浜市立いちょう小学校

2014年3月20日、横浜市立いちょう小学校の最後の卒業式が行われ、41年の歴史の幕が閉じました。1973年に神奈川県営いちょう団地(横浜市泉区)の中に開校したいちょう小学校は、1980年代後半から、団地に暮らすインドシナ難民や中国帰国者など外国出身者が増加したため、次第に外国につながる児童(外国籍や日本籍を取得した児童)が増えていきました。いちょう小学校の児童数は一時期2000人にまで膨らんだこともありましたが、地域の少子高齢化によって、近年の児童数は大きく減少し、2014年4月に隣接する飯田北小学校と統合(統合校「飯田北いちょう小学校」は飯田北小学校の校舎を使用)し、閉校することとなりました。2014年3月に閉校する時点での児童数は166人で、その4分の3が外国につながる児童でした。

いちょう団地といちょう小学校は、外国人の多い地域と学校として、2000年頃からテレビや新聞などで報道されるようになりましたが、私は2000年の秋に初めていちょう小学校を訪問して以来、学校の行事に通うようになり、教職員の懇親会や卒業式の打ち上げ旅行などにも参加させていただくようになりました。そして、2005年には、学校と協力して、『多文化共生の学校づくり-横浜市立いちょう小学校の挑戦』という本を出版しましたが、その頃から、いちょう小学校は「多文化共生の学校づくり」を進めるモデル校として全国に知られるようになりました。

『多文化共生の学校づくり』で取り上げたのは、外国につながる児童が多いことを積極的にとらえる校長のもと、様々な課題に一丸となって取り組む教職員と地域関係者の姿でした。1990年代のいちょう小学校は、子どもたちが落ち着かず、地域との連携も進んでいない状態でした。1998年に着任した瀬野尾校長は「地域に根ざした学校づくり」を進める中で、学校を「共生」の発信拠点とすることをめざしました。団地の秋祭りにPTAとして参加し、団地の国際交流会の会場として体育館を提供して、児童を参加させるなど、地域との連携を進めました。そして、2000年には外国につながる保護者が初めてPTAの会長を務めました。台湾出身のこの保護者は、翌年には子どもたちのための中国獅子舞の会を始めました。この中国獅子舞は学校行事だけでなく、地域の行事にも出演するようになり、いちょう団地の多文化共生のシンボル的存在となりました。

2002年に、泉区役所はいちょう団地の多文化共生の課題を把握するため、学校や自治会、ボランティア団体など地域関係者の聞き取りを行い、その後、半年ほど地域関係者を集めた連絡会を開きました。2002年に着任した服部校長は、その機会を生かし、学校とボランティア団体の連携を進めました。具体的には、夏休みの補習教室にボランティアが参加するようになりました。また、学校敷地内にあるコミュニティハウスにあった図書室が校舎内に移され、空いたスペースが国際交流室として地域に開放されました。この部屋は、日本語教室などボランティア活動の拠点となりました。一方、中国やベトナム出身の保護者がPTA代表に就き、保護者懇談会が夜の開催となり、自治会やボランティア団体もそこに参加するようになりました。

こうして、学校と自治会、そしてボランティア団体の連携が大きく前進しました。もともと、いちょう団地では、1990年から自治会が国際交流会を開いて、日本人住民と外国人住民の交流に力を入れ、無料法律相談会も開き、一方ボランティア団体は1990年代前半に日本語教室を始めるなど、外国人支援や交流に取り組む自治会とボランティア団体が存在していたので、学校が多文化共生に取り組むようになると、三者の連携は大きく前進しました。そうした成果を発信したのが、2004年6月にいちょう小学校で開かれた「多文化共生教育フォーラム」で、全国から180名の参加者が集まりました。

その後、服部校長を継いだ金野校長、そして金野校長を継ぎ、最後の校長となった田中校長も「多文化共生の学校づくり」を発展させました。特に、地域のボランティア団体の一つである多文化まちづくり工房との信頼関係を強めていきました。多文化まちづくり工房は、日本語教室を軸に、子どもの学習支援教室や生活相談など徐々に活動の幅を広げましたが、団体名にあるように「まちづくり」の視点をもっているところがユニークで、団地の秋祭りなど、様々な地域活動に参加するようになりました。2000年代後半になると、消防署と協力して地域防災にかかわるようになり、外国につながる若者(中学生から社会人まで)が参加する防災チームを立ち上げるに至りました。

地域の連携といえば、1998年に始まった地域の3小学校(いちょう小、飯田北小、上飯田小)と上飯田中学校からなる4校連絡会も、地域が一体となって多文化共生を進める推進力となりました。実は、飯田北小学校もいちょう団地の子どもが通い、外国につながる児童が多く、多文化共生の取り組みを進めてきました。4校連絡会をベースに、幼稚園や保育園、高校との連携も着実に進んでいきました。

多文化共生の地域づくりの拠点になったいちょう小学校が閉校することで、いちょう団地の今後を心配する声も上がっています。確かに、地域社会にとってコミュニティの核ともいえる小学校を失うことは大きな痛手と言えるかもしれません。幸い、いちょう小学校があった校舎は、今後も地域活動に利用することができるようなので、いちょう団地の子どもたちや若い世代にとっての居場所となることを期待したいと思います。

2014年4月にスタートした飯田北いちょう小学校では、いちょう小学校の校長だった田中氏が校長に就任しました。いちょう団地にとって、多文化共生の第二幕が始まりました。

【参考文献】
山脇啓造・横浜市立いちょう小学校編『多文化共生の学校づくり-横浜市立いちょう小学校の挑戦』(明石書店、2005年)
早川秀樹「多文化が生きるまちづくり」『自治体国際化フォーラム』2011年11月号
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/pdf_265/12_culture01.pdf