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第88回2012.07.25

インタビュー:豊島区保健福祉部 部長 東澤 昭さん(下)

 文化商工部長として、「文化の豊島」を代表する存在となった東澤さん。部長としてはどのような仕事をされたのだろうか。また、入庁してからはどのような道を歩んでこられたのだろうか。


文化商工部長時代

稲継   文化商工部長には何年になられましたか。

画像:東澤昭氏
東澤昭氏

東澤   平成21年4月です。

稲継   そこから平成24年の3月までの3年間は文化商工部長をやっておられて、どのようなことに取り組まれましたか。

東澤   部長になってしまうと、意外と思ったことができなくて......(笑)。

稲継   そうですか(笑)。

東澤   そのときの課題は、文化政策推進プランを形にすることでした。私の課長時代にできなかったのが、そのプランづくりなんです。文化政策懇話会から受けた提言を基に行政としての計画をつくらないといけなかったのですが、その後、文化創造都市宣言をやり、条例をつくり、ここ(にしすがも創造舎)のことがあり、地域再生計画をつくったり、そのほかいろいろなイベント事業もあって、なかなかプランづくりに取り組むことができませんでした。文化商工部に戻ってきたとき、文化政策推進プラン策定の議論が盛り上がってきており、そのとき委員長だったアートディレクターの北川フラムさんを中心にプランをまとめ上げる仕事が部長になってまず取り組んだ仕事です。
 もう1つ、次の文化政策をどう展開するかということが常に頭にありました。文化政策推進プランでは、3つのシンボルプロジェクトを示しています。その1つとして、新たな創造の場づくりということで「池袋アートステーション事業」が提案されています。池袋駅は1日の乗降客数が250万人ぐらいで、日本でも有数のターミナル駅なんです。ただ、その250万人の潜在パワーが街に出てこない。この力を街の中に取り込んで文化的に発展させていくことができるような拠点をあちこちにつくっていこうという考え方に基づくのが「池袋アートステーション」という事業です。ただ、予算もない中でこのままでは実現できませんし、なかなか難しい。
 そこで考えたのが、東京都の歴史文化財団と手を組むことです。財団の東京文化発信プロジェクト室が「東京アートポイント計画」という事業を展開していました。アートのポイントを東京中につくっていって、その点が集まってつながると線になり面になるということで、地域の空き店舗を使ったり、公共空間を使ったりして地域の中でいくつものアートプログラムを展開していくという事業です。そのプロジェクトとうまくコラボできないかなということを思いついて、文化デザイン課の職員と一緒に東京文化発信プロジェクト室にお話に行きました。プログラムディレクターの森司さんたちと1年ぐらいかけて話をしながら、平成23年の10月から「としまアートステーション構想」という事業を始めました。豊島区と東京文化発信プロジェクト室、NPO法人アートネットワーク・ジャパンの3者の協働事業です。事業開始にあたって記念シンポジウムでは、北川フラムさんや立教大学の中村陽一先生にお越しいただき、構想メンバーである日本大学准教授で建築家の佐藤慎也さん、アートネットワーク・ジャパンの蓮池代表と一緒に新しいアートの展開と可能性について話し合いました。拠点としては、雑司が谷の区立千登世橋教育文化センターの地階にあった喫茶店がたまたま撤退することになり、ぜひそこを文化デザイン課の所管にしてこの事業で使わせてほしいと庁内の会議にかけました。ただ、そこはあくまでもアートステーション構想のための拠点であって、そこを中心としながら街のいろいろな場所でいろいろな人がアートプロジェクトを展開していく......。それは別にどんな場所でもいいんです。

稲継   ポイント、ポイントで。

東澤   ポイント、ポイントで。そうした担い手となる人が自主的に文化イベントを展開していく、そのサポートをするアートステーション、つまり拠点という位置づけで、これからどんどん地域の中に広げていこうと考えています。
 これまでの文化の問題は、担い手が偏っていることではないかと感じています。地域の交流イベントでも町会や商店街が主体になっていて、出てくる方はいつも同じ顔ぶれなんです。若い人や新しく住民になった人が参画したいと思っても敷居が高かったり、子育てでなかなか家の外に出られないという人たちがアートに触れる場がないので、もっとすそ野を広げて、そこにアーティストを絡めながら、新しいものを地域で展開していこうというものです。去年の10月にスタートしたばかりでまだまだこれからですが、あとは後任の人たちにやってもらうしかないですね。

稲継   保健福祉部長としては、なかなか口を出しづらい立場で。

東澤   ただ、区長が「福祉と文化の融合」ということを鮮明に打ち出していて、実は福祉分野でも文化の取り組みがかなり進んでいます。

稲継   ああ、そうですか。

画像:東澤氏の名刺
東澤氏の名刺

東澤   先ほど差し上げた名刺に絵が描いてありますが、これを描いたのは知的障害者の方です。いわゆる障害者美術というと偏った目で見られてしまうかもしれませんが、本当に芸術的な素晴らしい絵を描く人たちがいるので、そうした人たちをアピールしていこうという動きがあります。この方は駒込の福祉作業所に通って来ている人ですが、名刺デザインとして使うことによって福祉作業所に工賃が発生します。

稲継   なるほど、そうですか。

東澤   あとは、駒込の染井銀座商店街とこの福祉作業所がコラボレーションをして、商店街の店先に絵を飾ったり、障害者とボランティアの方が一緒にパン屋さんをやったりしています。空き店舗を利用したお店に中に障害者の絵を展示してパンを売って運営するという、福祉と文化と商店街振興の3つが組み合わさった新しい動きだと思います。

入庁した頃のこと

稲継   今までは文化デザイン課としての取り組みをお聞きしましたが、ここで東澤部長の入庁してからこれまでのことをお伺いしたいと思います。入庁されて最初に配属になったのは、どういうお仕事ですか。

東澤   国民健康保健課です。私は母子家庭で家計も苦しかったので、高校を出てすぐに就職しました。当時は昼間働いて夜は学校に行く職員が多く、最初の配属先の国民健康保健課では20人ぐらいの学生がいて、夜に大学に通っていました。私は高校時代から演劇をやっていたので、演劇の勉強がしたくて明治大学に入りました。明治大学は唐十郎さんも所属していた「実験劇場」という学生劇団があるなど演劇が盛んだったので期待をしていたんですが、当時昭和47、48年頃は学生運動の名残で、学校に行ってもロックアウトしていて授業をやっていないんです。仕方がないので、サークルの人たちが教室で演劇をやっているのを見てばかりいました。そこで初めて劇作家の別役実さんの名前を知ったり、当時の新しい演劇界の動きを知ったりして、いろいろと面白いなと......。すると、本格的に演劇の勉強をしたくなって、入学して2年目から俳優養成所に通い始めました。

稲継   そうなんですか。

東澤   20代は本当に演劇に没頭していましたので、公務員としてはひどいものです。

稲継   (笑)。

東澤   管理職になって、今の目で当時の自分を見ると、最低ランクの職員ですよね。

稲継   国保には何年?

東澤   5年ぐらいいました。その後は地域の出張所に異動しました。住民記録、印鑑登録事務、税金や国保料の徴収など一通りのことを7年やり、20代はそこで終わりです。

稲継   なるほど、もっぱらアフターファイブの演劇のほうに力を入れておられたんですね。

東澤   そうですね。公務員としての仕事の面白さに目覚めたのは、その後ですね。

画像:豊島区役所
豊島区役所

稲継   そうですか。その後はどういうお仕事でしたか。

福祉の仕事

東澤   福祉関係です。最初は、当座の生活費がなくて困窮している方に小口の資金を応急的に貸し付ける仕事でした。そこで初めて厳しい現実を目の当たりにします。

稲継   それは個別の家庭の事情も聞いたり?

東澤   かなり細かく聞くんです。

稲継   聞くんですよね。そうすると、自分は公務員で、マイクロクレジットというかお金を貸し付ける立場であるが、相手方は区民でありさまざまな家庭がある。では、行政としてどうしたらいいのかということに目覚めたということでしょうか。

東澤   そうですね。貸付ですから当然返してもらわないといけませんので、返済の可能性があるかどうかも見ないといけません。一方で、福祉ですから困っている人を目の前にして貸せないのはつらいんです。自分はOKだと思って上司のところに決裁を上に持っていっても、これはまずいだろうと却下されて断らないといけないこともあったり、事情を聴いているやりとりの中で突然相手が怒って窓口の表示看板を掴んで殴りかかってきたり......。生活保護のように基準が明確ではなく裁量の部分があるだけに逆に難しいと思いました。

稲継   そうですね、難しいですよね。

東澤   ここで貸し付ければこの人は助かるなと思っても、実際には後で返済が滞って債務が膨らんでくることもありますので、両方の視点が求められると思いました。

稲継   福祉は何年間ですか。

東澤   その時は通算5年です。小口は1年間で、次が福祉関係施設の管理運営と、民生児童委員関係の運営とか予算決算全般など、30歳を超えて初めて区の仕事の全容、流れが把握できた時代でした。

稲継   まずは福祉部ではあるが全体像が見えるようになってきたんですね。

東澤   ええ、そうですね。

稲継   その次はどういうお仕事ですか。

文化振興係へー「路上美術館」

東澤   その次は社会教育課の文化振興係です。その時の仕事が、文化デザイン課につながるんです。

稲継   なるほど。当時は教育委員会の中にあったんですか。

東澤   教育委員会の社会教育課です。そこでの一番大きな仕事は路上美術館です。

稲継   路上美術館とは何ですか。

東澤   池袋の西武百貨店の前にグリーン大通りという大きな通りがあるのをご存じですか。

稲継   はい、はい。

東澤   西武百貨店の前から護国寺の方に向かう大通りがあります。今はかなり感じが変わりましたが、当時は金融機関が立ち並んで、池袋のウォール街と呼ばれていた銀行街でした。3時を過ぎると銀行は閉まるので、閑散としてしまう。

稲継   シャッターが閉まってね。

東澤   大きなウインドウがあるのにもったいない。前区長の時代、昭和62年に職員提案制度があって、区長賞を取ったのが路上美術館事業でした。銀行の大きなウインドウに絵を飾る。それからグリーン大通りの並木道は都心部ではかなり大きなほうで、歩道も広い。そこに彫刻を置いて、誰もが気軽に芸術作品に触れられるようにして街を活性化させようという提案です。最初の年、昭和63年は都市計画課がプレイベントとしてやりましたが、美術の展覧会なのだから社会教育課の仕事だろうということで、平成元年に所管替えになったところでちょうど私が異動で担当になりました。その仕事が一番大きな仕事です。

稲継   なるほど。

東澤   これがなかなか大変なんですよ。

稲継   各銀行に頼んで回るんですよね。

東澤   そうです。全部の銀行に回ってお願いするんです。店舗の内側から飾らないといけないので、閉店後にお金の締めの計算をしているところに入らせてもらって絵を飾るんです。そのための交渉が大変でした。それから当時グリーン大通りは都道だったので、建設事務所から道路占用許可を取るのと、警察署で交通管理者の道路使用許可を取るのがかなり大変でした。彫刻をずっと置くことができればいいんですが、1カ月以上はまかりならんということでどうしても一定期間のイベントになってしまうんです。平成元年から平成6年までやりましたが、当時はバブル真っ盛りで豊かで、今では信じられないぐらいの予算がついて運営していました。彫刻も箱根の彫刻の森美術館や作家のアトリエから持ってきて、夜中に業者にお願いしてクレーン車を使って設置するような仕事をやっていました。そして、バブルがはじけて予算もつかなくなって事業を休止するまで関わっていました。

稲継   なるほど、ずっと社会教育課におられたんですね。

東澤   そうです。

稲継   平成6年ぐらいまでですか。

東澤   そうですね。その仕事とも絡むんですが、美術展や書道展、区民作品展など美術関係の仕事はほとんど担当していました。先ほど申し上げた、戦前の長崎アトリエ村の頃から区内にお住いの芸術家が当時はまだ相当存命でいらっしゃいました。展覧会のカタログ撮影のために絵を集めるのですが、経費節減のため自分で車を運転して作家の方々の家を一軒一軒回ったりしました。そのおかげで、区内の美術家とはほとんど知り合いになりました。それは大きな財産です。

稲継   それはすごいネットワークの財産ですね。

東澤   中には文化勲章を受章された先生もいて、そういった方とも気さくにお話ができていい経験になったと思います。

稲継   社会教育課の次は?

職員研修担当時代

東澤   職員課の研修係長になりました。

稲継   職員の人材育成ですね。

東澤   そうです。

稲継   そこでの思い出は何か?

東澤   新入職員の研修で、実際に街に出て、街の魅力を発見しようという研修をやりました。当時、赤瀬川原平さん、南伸坊さんなどが路上観察学会をつくって、街歩きをしながら街の面白さを見つけるということをやっていて、財団法人豊島区街づくり公社(現在:「公益財団法人としまみらい文化財団」)でその皆さんをお招きしたことがあります。その手法をうまく研修に活用して、新入職員にポラロイドカメラやビデオカメラを持たせて、街で発見した面白いことをストーリー仕立てにしてプレゼンさせるような研修でした。それが最初の仕事で面白かったです。

稲継   なるほど。

東澤   あとは、当時の区長の肝いりでサービスアップ検討委員会をつくりました。課長クラスの方をいくつかの部会の座長に据えて、窓口のサービスアップや分かりやすい窓口のつくり方など、いろいろな提案をまとめて実行する仕事ですが、当時はうまくいきませんでした。委員会報告の一つに、混みあっている窓口で職員がフロアマネージャーになって案内するという提案がありました。今では国民健康保険課や区民課などで普通にやられていることなんですが、平成8年頃は猛反発を受けました。

稲継   どうしてですか。

東澤   それでなくても忙しいのに、フロアマネージャーなんて......

稲継   出ていられるかと。

東澤   時間を取られて、出ていられるか、という古参係長たちからの意見が多く実現できませんでした。一方で提案した職員の気持ちも分かりますので、かなり悔しい思いをしましたが。

稲継   なるほど。

東澤   目的別に窓口に誘導する動線や窓口表示の看板を色分けすることは多少実現したと思いますが、フロアマネージャーは一番大きな要素だったにもかかわらず実現できませんでした。それが今、豊島区では、「区民ファースト」窓口実現プロジェクトというのが進行中です。

稲継   ブレア政権のサービス・ファーストですね。

画像:取材の様子
取材の様子

東澤   プロジェクトに若手のメンバーを募ってPTで提案を検討しています。先日も居並ぶ部課長や係長を前にした彼らのプレゼンテーションがありました。その様子を見ていると、私が担当だった頃とは雲泥の差があり、区長のリーダーシップも大きいとは思いますが、職員の意識が変わってきたような気がします。豊島区では、この10年間で職員を1,000名以上減らしてきているんです。平成11年頃に3,000人いた職員が、今は2,000人を切りました。当然、指定管理もどんどん入れていますし、区民窓口も一部委託したり、派遣職員を入れたりと相当アウトソーシングしている中で個々の職員の意識が変わり、鍛えられているのかなという印象を持っています。

稲継   なるほど。研修係には平成6年から?

東澤   4年間ですね。

稲継   平成10年までおられて、次に動かれたのが。

子育て支援課長―「ファミリーサポートセンター」

東澤   子育て支援課長です。平成7年に管理職試験に受かって、平成10年4月に子育て支援課長になりました。

稲継   今までとは全然関係ないところですね。

東澤   そうですね。全く初めてのセクションです。

稲継   何をするところですか。

東澤   児童手当や児童扶養手当の支給、乳幼児の医療費助成という手当給付関係と、保育園の入園申請関係。あとは、私立保育園に対する補助や運営支援。それから、女性相談や母子相談。夫の暴力を受けて逃げている女性の相談に乗ったり、場合によっては保護したり......。

稲継   シェルターをつくったり。

東澤   そう、そういったことをやるセクションです。そこでの新しい仕事として私が最初にやったのは、一時保育事業とファミリーサポートセンター事業です。

稲継   それはどういう?

東澤   当時は乳幼児の数が減少傾向にあって4つの保育園を廃園したのですが、そのうちの1つの施設を使って始めたのが一時保育事業です。保育園は通常、保護者が就業していて家庭では保育できないことが入園の条件なんですが、理由のいかんに問わず一定金額を払えば1時間でも2時間でもお預かりするという保育事業です。
 ファミリーサポートセンター事業は、会員登録したボランティアによる保育事業ですね。援助する人たちのサポート組織をつくって、急用のために一時的に子どもを預かってほしい方と援助者をコーディネートする仕事です。その事業の立ち上げをやりました。それから、子ども家庭支援センターの開設も手がけました。当時、児童虐待は東京都児童相談センターの専管で、児童福祉司が週に1回区の窓口に来て相談にのっていたんですが、区民に一番身近な区としてきちんと取り組む必要があるということで子どもの権利担当係長を設置して、児童相談センターと地域の保育園や家庭などを結ぶ調整をしたり、区が中心になって児童虐待防止連絡会をつくったり、児童虐待防止に本格的に取り組むスタートの時期でした。

稲継   子育て支援課長が初めての課長だったんですね。

東澤   そうです。

稲継   その次は?

介護保険課長から文化デザイン課長へ

東澤   次は介護保険課長です。平成12年12月の異動です。

稲継   一番大変な時期ですね。

東澤   人事の事情で、年度途中になったようです。介護保険課はその4月に設置されたばかりで、私は2代目の介護保険課長です。

稲継   まして介護保険制度もスタートしたばかりで、認定をどうするかなどの混乱の時期ですよね。

東澤   そうですね。認定審査会も軌道に乗り始め、医師会、歯科医師会、薬剤師会などいろんな分野の専門家に認定審査をお願いしているんですが「こんなに大変だったと思わなかった」という声がちょうど挙がってくる時期でした。制度がスタートしたばかりなので、区民の皆さんに制度そのものを知っていただく説明会もたくさんしました。まだサービスの利用率もそれほど伸びていなくて、保険料も今より低く抑えられ、制度もシンプルでした。今の担当者に比べれば楽だったかなと思います。12月の異動で、2月から始まる予算議会ではいきなりいろんなことを聞かれるので、猛勉強しました。

稲継   答弁しなくてはいけないですしね。

東澤   そうですね。

稲継   議員も手探り、何を質問したらいいかわからない状態だったと思います。

東澤   ええ。

稲継   平成12年の途中から介護保険課長になられて、その次が文化デザイン課長ですね。

東澤   そうです。

稲継   それで、先ほどの話につながるわけですね。いろんな分野を歩んでこられたんですが、全部文化につながっているような。

東澤   そうですね、おっしゃるとおりですね。

「文化」でのつながり

稲継   プライベートでやっておられる演劇も含めて、ずっとつながっているような糸を感じました。それは意識してそう動いたわけではなく?

東澤   全然(笑)。

稲継   人事は天から降ってきますから。自分で希望して行けるわけではないですからね。

東澤   そうですね。ただ、自分では全然違う分野だと思っていても、大きな区政の中では関連しているので、改めてこの仕事は全部がつながっているなと思います。

稲継   なるほど。にしすがも創造舎の話から今まで、東澤さんのさまざまな取り組みについてお伺いしてまいりました。このJIAMのメルマガをご覧の全国の市区町村職員の中には、自分も羽ばたいてみたい、こうやってみたいと思いながらもいろんな桎梏(しっこく)があって羽ばたけない人もたくさんいらっしゃると思います。その方々から「メルマガを読んでいつも勇気をもらっています」とお便りをいただくこともあります。飛び出そうとしているが飛び出せない方々に向けて何かメッセージがありましたら、最後にお願いしたいと思います。

東澤   うまく言えませんが、行政だけでやれることはすごく少ないと思っているんです。区民といかにつながっていられるかということがすごく大きいので、区民の皆さんとのネットワークで、仕事を離れて話ができる関係を構築できると刺激になりますし、広い視野で情報も得られてすごく面白いと思います。行政の中でも、自分の職場だけではなくて他の部署で相談できる人がいることはとても有益ですね。
 それから、自分は全体の組織の中の1つのパーツに過ぎないんですが、一人一人には個性があって、自分でない人がその仕事をやれば全然違う結果になっているかも知れない。逆もそうです。そのことを自覚するとすごくいいと思います。池井戸潤さんの直木賞受賞作品『下町ロケット』のキャッチコピーが「その部品がなければ、ロケットは飛ばない」というものでした。その部品が自分だと思えば自信が湧いてくるでしょう。リレーに譬えれば、自分は単なる一人のランナーかもしれないけれど、自分がいなければそのリレーには勝てない、自分がいなければこの仕事は成り立たない、ロケットは飛ばないんだと思うと、やる気が出てくるのではないかと思います。
 これは、としまアートステーション構想のアドバイザーの西村佳哲さんの本に紹介されていたのですが、ある物事を前にして「○○したいけど難しい」というのと「難しいけど○○したい」というのは、語順が違うだけですが、同じ言葉を使っていても意味が違って聞こえますよね。

稲継   なるほど。後ろのほうにポジティブな言葉を持ってきたほうがいいんですね。

東澤   そうです、そうです。後ろのほうにその人の気持ちが入りますから「○○したいけど難しい」と諦めてしまうのではなく、「難しいけど○○したいよね」というその夢の部分を忘れずに持っていると、絶対に次につながってくる気がします。

稲継   どうもありがとうございました。今日は豊島区の東澤さんにお話を聞きました。長時間ありがとうございました。

東澤   ありがとうございました。

画像:取材にご協力いただいた皆様、左から東澤部長、NPOアートネットワークジャパン代表蓮池様、豊島区文化デザイン課池田様、髙橋様
取材にご協力いただいた皆様、左から東澤部長、
NPOアートネットワークジャパン代表蓮池様、
豊島区文化デザイン課池田様、髙橋様

 好きで始めた演劇。20代は仕事よりも、むしろ趣味の演劇の方に没頭していたという。おそらく、職場での評価は必ずしも高くなかったかもしれない。しかし、その後、その趣味の演劇や舞台芸術、文化といったものを仕事の中で種々に生かしていった東澤さん。今、全国各地から、文化行政については、豊島区への視察が相次いでいる。もちろん、首長の理解もあったのだが、東澤さんがいなければ、今の豊島区の文化政策は成り立っていなかったろう。
 自ら、考え、調査し、行動する職員、しかも、それが自分の趣味やライフスタイルとぴったりあった職員が、豊島区の行政を前へと推し進めている。