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第44回2008.11.26

インタビュー:宮崎県北郷町役場 早田 秀穂さん(中)

 早田さんは、週刊の町報をつくりながら統計業務を行う仕事を2年、税務課で地籍調査や固定資産税の評価替えの仕事を1年やったあと、県の地方課に出向し、起債の許認可や地域振興計画の仕事を1年経験した。町役場にもどってから社会福祉係で、保育所、年金、社会福祉全般の仕事を2年間経験する。入庁してから6年間で、地方自治全般についての業務知識を増していくとともに、土曜日の午後に住民とともの鮎つりをしたりイノシシ狩をしたり、また、独居老人の家の煙突掃除をしたり、保育所の運動会の設営を手伝ったりと、住民との接点も多く持ってこられた。次に早田さんが担当したのは、観光行政だった。


稲継 社会福祉係という、なかなか量的にも質的にもハードな2年間のあとに、次に移られた職場はどちらになりますか。

早田 再び、課名は変わっていましたが、企画調整課に配属になりました。今度の担当は、当時、北郷町が観光施策に力を入れようということで、新たに商工観光係が新設されまして観光業務を仰せつかりました。ただ、職員がそういるわけじゃありませんから、企画の方の仕事も一部やりながら観光行政全般を担当しました。さらに、当時は、財務会計や給与関係を電算化しようということになっていまして、電算導入業務も担当することになりました。

稲継 電算の担当を具体的に言うとどういうお仕事につかれたのですか。

画像:早田 秀穂さんの写真
早田 秀穂さん

早田  まず、当時はあまり前例のない仕事でしたから、電算部門にどういう業務が対応できるのかとかいった対応業務の選考や、業者から提案書をいただいて、業者選定を行いました。その結果、本町は県内の市町村の中でも人事給与システムをいち早く取り入れることになりました。2年後に総務課に配属になるのですが、電算を担当していたことが理由だったのかなと思います。

稲継 観光のほうもやっておられたということですが、これは、どういうことをやっておられたのですか。

早田 今でこそ県内の多くの市町村に温泉がありますが、本町は昭和53年に自治体でボーリングを行い、温泉試掘に成功した宮崎県で第1号の町でした。当時、宮崎の温泉といいますと、霧島のえびの高原と北郷町の温泉しかない状況でした。北郷町は「緑と清流と温泉の町」というのが観光キャッチフレーズなのですが、その温泉と蜂之巣公園という当時県内で1,2の大きなキャンプ場の運営管理を担当しました。
 観光のほうの思い出としましては、蜂之巣のキャンプ場は夏休みだけ、1か月半ほどの短い期間でのオープンですが、間に4千人程度の利用があるキャンプ場で、その半分以上が学校行事で利用されるキャンプ場でした。
 私が担当する以前の夜の管理体制は高齢の管理人がいるだけでしたが、ある県内のキャンプ場で、女子高校生が夜にアルコールが入った者に襲われて妊娠をするという事件があったものですから、安全性も大事にしようということで、上司と話をし、学校の利用日や金曜、土曜は担当者である私と保護者の了解を得たバイト生と週2回程度、宿泊警備を行う体制を取りました。泊まることによって夜の対応など利用者のニーズが把握できましたし、学校関係者からも好評だったと記憶しています。

稲継 その企画調整課に2年ちょっとおられて、さきほどちょっとお話にでましたが総務課に移られるのですね。その課にはいつからいつまでおられましたでしょうか。

早田 昭和62年の7月から平成5年3月までですから、約6年間です。

稲継 ここではどのようなことをされたのですか。

早田 人事係です。給与や職員の福利厚生関係をメインに担当しました。当時のスタッフは、課長補佐と私と庶務の女性職員の3名で、補佐が例規・議会をもたれ、女性職員は庶務と秘書という事務分掌でした。
 また、当時、本町は広域消防になっていなかったので、役場職員が昼間は救急車を運転し、夜は役場職員と消防団が泊まるという体制だったのですが、消防防災係長の副務で救急当番の割り振りや119番通報時の指令業務も担当もしていました。

稲継 ここに比較的長くおられたわけですけれども、当時、何か印象に残っておられるような仕事とかございますでしょうか。

早田 6年という長い期間在籍しましたが、人事給与電算システム導入の初年度こそ入力作業や処理に苦労をした記憶はありますが、今思えば単に上司の指示により比較的定型的な業務処理の日々だったと思います。
 また、当時は職員研修など全く実施していなかった時代でしたから、その分は職員にとっては不幸な時代でしたが、私にとっては楽だったと思います。(苦笑)
 今、本町で最重要視している人材育成や職員の資質向上など、当時は全く考えもしていなかったと時代でした。

稲継 割とルーティン業務をやっていたということですか。次にうごかれたのはどちらになりますでしょうか。

早田 次の職場は1年間でしたが、平成5年の4月から国のリゾート法の制定にともない宮崎県がリゾート法の第1号に指定され、本町もその指定エリアに入ってましたので、観光行政を充実させるために、以前は企画調整課にあった商工観光係を独立させた商工観光課の観光係として配属されました。
 この間の記憶としましては、今後の北郷町のリゾートを具体的にどう構築していくのかという計画書の作成を主に担当しました。現在、北郷町には温泉宿泊施設やリゾートホテル、先ほど申しましたキャンプ場、さらに歴史的な文化資産があるのですが、既存の施設の利活用を含めたこれからの町のリゾート構想・計画書の担当をさせていただきました。この構想による各種施設の完成までは時間はかかりましたが、私が担当させていただいた構想・計画に基づく施設等が現在は出来上がり、町の交流人口の増加の一躍を担っていることに担当させていただいた者として大変嬉しく、誇りにも思っています。

稲継 1年だけとおっしゃいましたが、次にはどちらへいかれましたか。

画像:早田 秀穂さん
早田 秀穂さん

早田 計画書の策定も無事終わり、これからは構想を具現化するためのハード面の仕事に邁進しようと考えていましたところ、予想もしなかった内示があり、社会教育課-当時の課名ですが-そちらに行けということになりました。
 思いもかけない異動内示であり、当時の町長には計画書の策定に携わったこと、これから計画を実現していきたいこと等をお話して、なぜ異動になるのかと不満げにお尋ねしましたところ、当時、北郷町はポーツマス市と姉妹都市交流を始め、また、今現在も続いていますシンガポールとの学校間交流をスタートさせたばかりの時期でした。それで、その拠点となる-当時国際交流センターという言い方をしていましたが-ふれあい交流センターという、いわゆる文化ホールをつくる計画があり、そのセンターの建設建築や利用計画を担当してくれということで異動になりました。
 観光課ではリゾート構想計画、そして、教育委員会では建物と完成後の利用計画と、この頃は計画書ばかりに携わっていたような気がします。
 また、前任が社会体育を担当していたものですから、プラス社会体育も兼任してくれということで、当時の教育長からは「仕事が倍になって大変だけれども、まあがんばれ」という激励をいただきました(苦笑)

稲継 そこで建設のことで社会教育課に来られたわけですが、特に印象に残っておられるようなこととかあればお願いできますでしょうか。

早田 私は、常々「まちづくりは人づくりから」という考えを持っているすが、その発想をいただいたのが教育委員会時代でした。教育委員会、特に社会教育関係は、公民館連絡協議会、地域婦人連絡協議会、子ども会、老人クラブ連合会といった各種社会教育団体と頻繁に付き合いのある課です。各団体の持たれる目的、目標を理解しながら、一緒に社会教育をつくり上げていくということで、たいへん勉強になったセクションであったと思います。
 どうしても教育というのは、橋を造る、道路を造るといったような土木建築部門に比べ、なかなか効果がすぐには表れない分野です。ですから予算的にも決して恵まれているとは言えない状況にありました。
 しかし、予算さえ獲得すれば、自分がやりたい仕事、社会体育にしても様々な教室を開くことができますし、イベントも開くことができます。ですから、予算を獲得する努力をしなければなりません。そのためには自分自身がどういう制度、事業があるかをまず研究し、国、県の補助金をいただくことに力を注ぐことにしました。その結果、社会教育や社会体育の部門で様々なイベントも開催できましたし、合わせて社会体育施設、社会教育施設の改築、改修もかなり手がけました。
 教育委員会は、土日がほとんどイベントで出勤です。各社会教育団体の会合も夜間が多いため、残業が多い職場です。はっきり申し上げて、当時、職員が行きたくない課のナンバーワンでした。実際、私も行ったときは多少腐りましたが、行ってみて教育委員会の面白さ、楽しみを知りましたし、住民の方々と接する喜びも感じました。教育委員会の限られた人数で、すべてのイベントを一緒に実施し、必ずイベントが終わったら全員での飲み会を行う。係を超えた業務体系をつくりあげ、みんなで賑やかにやっている姿勢がだんだん他の職員にも伝わったみたいで、数年後には行きたい課のナンバーワンになったと自負しています。

稲継 そうですか。行きたくない課のナンバーワンから行きたい課のナンバーワンになったのですか。

早田 あそこは面白い。いろんな仕事が任せられて、その職員の発想を、自分の努力でやっていけば、かなえられるセクションだということがみんなに伝わったのだと思います。私をはじめ多くの課員がレクリェーションインストラクターやニュースポーツ普及指導員といった資格も取得しましたし、課員全員が一丸となって仕事に取り組んでいた輝く時代だったと思います。
 ただ、時代が流れ、今現在、当時に購入したカヌー30艘やペタンクといったスポーツ・レクリェーション機材等の一部が活用されていません。担当者の考え・資質でせっかくある機材・財産を使わないのはもったいないと、残念に思っています。

稲継 その社会教育課の次にはどちらに移られましたでしょうか。

早田 私は北郷町のとなりの日南市の市民ですが、総務課の消防防災課係長を拝命いたしました。教育委員会に通算約6年間いましたので、そろそろ異動かなとは思っていましたが、まさか消防防災係長とは晴天の霹靂でした。と申しますのが、当然、消防防災というのは、住民の生命と財産を守るという崇高な業務であり、やはり町内に住んでいて何かあったらすぐ動ける人間が今まで消防防災係長という責務を担っておりましたから、「果たして私でいいのか?」「なぜ?」という気持でした。
 消防防災係長は、消防団も担当しますが、実際、消防団の中からもどうして町外者が消防防災係長なのかという異論があったと聞いています。ただ、住民の方と接するという教育委員会で培ったノウハウを持って消防団員の方々と接しました。
 まず、情報連絡に落ち度がないよう私費で携帯電話を購入しましたが、当時は携帯電話の基本料も通話料金も結構高額な時代であり、家内からは毎月請求書が届くたびに小言を言われたのを覚えています(苦笑)
 また、消防団は伝統と格式を重んじ、階級第1主義の組織です。と言うものの、ある面、役場の組織もそうですが、当時の本町の消防団組織は、年功序列で長く何十年も団長をされている方の考え・指示が絶対であり、さらに前例・慣例主義でだけで消防出初め式、表彰者選考、幹部選考基準、各種訓練といった行事や物事が処理されていく組織でもありました。
 しかし、いざ災害があったときの連絡体制が決まっているかといえば、何もきまっていない。火災発生時にしても階級上位者や年配者が到着しないと慌てていて迅速かつ的確な初期消火活動ができない。災害時の避難所での消防団と役場職員の業務区分が明確でないなど、改革・整備を行う点が多々ありました。
 消防団の意思決定を行う最高幹部会・分団長会・幹部会・部長会といった団内の組織改革と団員の意識改革、そして火災・災害発生時の指揮命令系統の整備や新たな防災計画書の策定に取り組みました。これらの改革・整備を行う上で最も重視した点は、まず幹部や団員の多くと語るということです。膝をつき合わせ、幹部・団員の話を聞き、彼らの思いを把握する。そして行政マンとして実現できるよう努力を惜しまない。非常に飲み会の多い組織・業務でしたから、その点は幸いだったかな、と思います。その当時の分団長という地位的にはナンバー3の方々が、現在、団長や副団長の最高幹部会に昇任されていますが、私は総括課長補佐となり、消防業務には直接的には関与していませんが、やはり何かあると私が出て行かなければならない場面が結構あり、今でも信頼は厚いものがあると自負しています。

稲継 ここで、4年ほどおられたのですかね。

早田 はい。

稲継 そのときに何か経験されたこととか、話していただければ。

早田 消防防災業務で思ったのは、消防団プラス消防防災担当者の危機管理意識の重要性です。地震や火災はいつ何時発生するか分からない。常に危機管理意識を持って普段過ごすようにしました。そのせいかどうか分かりませんが、悲しいかな、夜、寝ていても、雨が降ると目が覚めるという習慣が身につきました。町土の約90%が山地の北郷町と平野部の多い日南市とでは気象条件が違います。自宅ではたいしたことのない雨量でも、北郷町は山に囲まれている関係上、雨が非常に多い。雨が降ると北郷が気になるという悲しい性が身についてしまいました。
 また、市や比較的人口の多い町は消防署や出張所が配備され、消防職員が常駐されているので実感は難しいと思いますが、田舎の町は、まず、消防団が真っ先に火災・災害現場に到着します。消防団を指揮する私も迅速に駆けつけなければなりません。そして、迅速かつ適切な初期消火を行うための判断能力と指示能力が消防防災係長には求められました。間違いが許されないポジションで常に緊張した日々を送りましたが、私自身の指示力や判断力の高揚のためには大変役にたった業務だったと思います。

稲継 今、お話を聞いていると、消防団の方から非常に信頼を勝ち得たけれども、他方で雨が降ると目が覚め手しまうというのは悲しい性が身についてしましたね。

早田 もう笑い話ですが、小さい町ほど飲み会が多いと思いますし、消防団業務を担当しますと本当に飲む機会が多くなります。ある日スナックに行って乾杯をした瞬間、携帯が鳴り火事の連絡が入ったことがありました。当然、飲酒運転はできませんので、一杯飲んだだけで店に料金を1人2千円払って、タクシーで現場に駆けつけました。負担したタクシー代は4千円!当時の予算ではタクシー使用料は全く、会議出席負担金も年2回程度しか予算化されていませんでしたので、結構個人負担が多く、大変だった思い出があります。今はタクシー代を2万円、会議出席負担金も年度当初・夏季訓練大会・消防出初め式・送別会といった団運営に係る要的な行事に対して必要最低限度は予算化していますので、現職からは感謝されているようです。


 次号に続く。