メールマガジン

第123回2015.06.24

インタビュー:寝屋川市 総務部長 荒木 和美さん(下)

 寝屋川市初の女性総務部長となった荒木さんのスタートは社会教育部の教育センターで、そこに6年半勤務することになる。センターに来た人に対して、自分の方から積極的に話かけるということをそこで覚えたという。次に、まったく畑違いの企画室に異動となる。


荒木  次は、企画室に変わりました。平成11年に市長が変わられまして、今から思いますと、現市長は就任当時から非常に精力的に動いておられました。私のおりました教育センターなんていうのは出先機関ですから、特別職が来ることなんて滅多にないんです。ないんですけれども、市長は就任されてから各職場、各施設を回られていたようです。ある時、私のおりました教育センターの事務所に、ふっと見たら末席に座っておられるんです。「あれっ」と思って「市長よね?」みたいなことがありまして、そういったことをしておられました。後からお聞きすると、市長は組織を一新したいということで、若手登用も含めて人事を考えておられたようです。その年の10月の異動で企画室に配属になりました。

稲継  なるほど。年度途中の異動だったわけですけど、ここではどういう仕事を命じられましたか。

荒木  企画室は、市の重要施策全般、特に、当時は地方分権一括法の担当と、あとは総合計画です。総合計画の進捗管理が主な仕事です。分権と総合計画の進捗関係の担当と、あとは庶務全般を担当しておりました。

稲継  何か印象に残っている仕事はありますか。

荒木  教育センターにおりましたときは、指導員的な、現場でケースワーカー的に関わるような仕事だったので、お恥ずかしながら庶務をしたことがなくて、それこそ、先ほど大事だと申し上げました、契約・会計業務すら分からず行きましたので、最初の2~3カ月はすごく大変でした。いまだに思いますけど、本当に出来の悪い、何も知らない新規採用の人よりも使い勝手が悪かったのではないかと思うぐらい、役所の業務が分かっていない職員でした。そこで庶務業務をやって、役所の文書事務の流れ、契約・会計事務の流れ、議会事務の流れを鍛えられました。

稲継  ちょうど地方分権一括法が施行される前年度ですよね。

荒木  そうです。

稲継  まさに、これからいろいろ規則改正とか、いっぱい山盛りにあるわけですよね。何か大変だった思い出とかは?

荒木  寝屋川市は13年4月から特例市になりまして、分権一括法の関連の条例改正もたくさんあったんですけれども、それに続いて特例市移行の事務もありました。この時代は本当にたくさんの法律を読みましたし、法律に基づく権限移譲される事務の中身とか、全庁的な部分にわたって権限移譲の中身や法律の中身を読みました。これもお恥ずかしい話で、所管している法律しか読んだことがなかったので、地方自治法だけではなくて、その他の個別法の体系とかも、このときに随分勉強させてもらったと思っています。

稲継  すごくいい機会でしたね。

荒木  いい機会でした。とてもいい機会でした。

稲継  今、おっしゃったけど、普通はどの職員も自分の所管、関係がある法律しか読みませんよ。それを特例市移行の担当部署ということで、全般的にすべて目を通さなければならないというのは、これはすごくいい経験をされましたね。

荒木  はい。多分、これはどの市でもそうかと思うのですが、この間、地域主権一括法が施行されて、義務づけ、枠付けの見直しがあったので、条例改正が数多くありましたが、分権一括法のときとは全然違う感じがしました。分権一括法のときは、本当に最初から地方自治法を紐解いて読み込むみたいなことをしていたんですけれども、今回はそういう仕事ではなくなっているというか。だから、あの時代だからこそできた仕事かなという気がしています。今、総務部長で法規担当に携わっているんですけれども、非常に歯がゆいです。もっと読めと。

稲継  一括法のときは約500本弱の法律改正があったし、大改正だった......。

荒木  大改正でしたね。

稲継  それは、市役所の例規を差し替えるのは、半端な数ではなかったですよね。それを、全部、目を通してというのは大変だろうと思います。

荒木  はい。私は、もともと法学部でもないので、そういう意味では、自治法関係や行政法関係といった仕事に関わる法律の体系の勘どころが分かったということで、あの仕事はとても大きかったと思います。

稲継  なるほど。ここに、平成11年10月に異動された。ここに2年半ほどおられたのでしょうか。平成14年ですね。

荒木  そうなんです。2年半ほど企画室におりまして、その後は、籍は企画室に残したままだったんですが、大阪府に2年間、研修生として出向いたしました。

稲継  大阪府の、どの部署に行ったんですか。

荒木  当時の大阪府企画調整部企画室広域調整グループというところに。

稲継  これは、どういう仕事をやっておられますか。

荒木  広域調整グループは、今の関西広域連合につながる関西広域連携協議会とか、いわゆる府県間連携をやっておりました。また、知事サミットといったような、個別のプロジェクトに関する知事会議を主催していました。当時は、関西学研都市のセカンドステージの時代で、しかし、大阪府が財政的に厳しくなり府県間道路の整備等が厳しくなるという状況でしたので、どちらかというと、今までは協力してやっていきましょうというところを、大阪府がブレーキをかける立場になった時代でした。大阪府の立場で府県間の調整をさせていただいていまして、これは非常に面白い仕事でした。

稲継  今まで、市役所の中だけで働いておられたのが、中間団体というか大阪府、しかも関西広域連合につながっていることであれば、他の府県とも関わりがあって、かなり幅広な仕事になりましたよね。

荒木  幅広な仕事ですね。はい。本当に、まさにそのとおりで、府県間連携の仕事として、国への要望活動もするんです。当時は小泉内閣の時代、都市再生が盛んに叫ばれていたときで、国が都市再生の旗を振ったのを府県がどのように実現化していくかということもあって、そういう意味ではとても面白かったです。国が言ったことを府県はこのように実現化するんだなというのも見ましたし、それに対して国に制度改正の要望をする府県の立場も見ました。また、府県間同士でのパワーバランスも見ました。市町村に対しての大阪府という立場だけではない、様々なところを見ましたので、いろいろな意味で目を開かされた2年間だったと思っています。

稲継  2年間とおっしゃいましたが、そうすると、平成16年に戻られていますね。

荒木  はい、戻りました。

稲継  戻り先は、どちらになりますか。

荒木  同じ企画室に、今度は係長として戻りました。

稲継  企画室に係長。仕事としては、行かれる前と同じような仕事?

荒木  市長室を兼務する形になりましたので、仕事の内容は全く変わりました。自治基本条例の担当と、市長の発信文書をつくるのが仕事になりました。

稲継  発信文書の作成って、これはなかなか大変ですよね。

荒木  はい。これも、また、とても鍛えられた仕事だったんです。市長宛にメールが来たり、市長がどこかでご講演をされたり、書き物として書かれるものを、基本は市長が論点をお示しになるのですが、そのあたりを文章としてまとめたりしていました。政治家の視点と、事務方の視点は全く違うんですね。あとは、言葉の使い方。われわれがいくら気を使っても、政治家の方からすると「そういう言い方はしない」とか「そういうのは、非常に上から目線に聞こえる」とか「それは、絶対に使わないでくれ」とか言われたことも結構ありました。非常に卑近な例で申し訳ないんですが、われわれは、よく「等」って使いますよね「何々等」と。一度、高齢者の方々という意味で「高齢者等」と書いたときがあったんですけれども「書き文書としては分かるんだけれども、これは私が見ると『高齢者ら』に見えてしまう。なので、絶対に、この使い方はするな」と、すごく怒られたときがありましたので、やはり政治家には独特の視点があるなと思いました。

稲継  なるほど。私も、そういう読み方は気付きませんでした。「なるほどね」と思いました、今。

荒木  私は人に付けるとき「等」は「ら」に見えてしまって困るんだと。だから、絶対、この使い方はやめてくれと、おっしゃってましたね。

稲継  面白いですね。自治基本条例の担当の件について、教えてもらえますか。

荒木  はい。寝屋川市は「寝屋川市みんなのまち基本条例」というんですけれども、平成13年にニセコ町がつくられて、他自治体でも自治基本条例を制定する流れがございました。本市も市長が市民協働を非常に大きく打ち出しておられ、自治基本条例を市民参画でつくりたいということで、全委員公募でお集まりいただきまして、その公募の委員さん方と一緒に素案をつくるという取り組みをいたしました。審議会方式のようにこちらが案をつくるのではなく、ワークショップ的につくりあげる形にしましたので、結局、足かけ2年ぐらいの市民検討委員会を開催いたしましたので、それが非常に印象的な仕事でありました。

稲継  審議会というと、ある程度、落としどころがあって、変な委員さんが入ってなければ、事務局としてもとてもやりやすいのですが、公募の市民というと、本当にいろいろな声が、ボイスがあると思うんですが、ハンドリングが大変だと思いますけども、どうでした?

荒木  学識の先生方にファシリテーター的に入っていただいていたんですけれども、それでは足りないぐらい、皆さん、思いを持っておられました。その2年間のうちに、公式な会議は50回から60回ぐらいだったんですけど、その前に準備会とか、それに至る自由な意見交換会で、多分、全部入れると100回ぐらいお集まりいただいている方もいらっしゃるんです。あとは、みんなでフィールドワークなどをしましたので、さすがにそれぐらいお顔を合わせていると、最後は自然と話がまとまるという感じになってきました。
 でも、最初はとても大変でしたし、途中、どうしてもまとまらなかった意見もあって、それらは両論併記のように書いていく形にしました。すごくいい経験をさせていただきました。正直なところ、公式的にも50回から60回ぐらいの会議、始まる前は、嫌で、嫌で「今日は、何をおっしゃるかな」とか「今日は、どういうトラブルになるかな」と思って、毎回、始まる前は気持ちが重いんですね。ところが、始まって話をして終わると、不思議なもので、とてもわくわくした気分で終わっていて、変な言い方ですけれども、私は、市の職員は市民さんに育ててもらうんだなというのをとても強く感じました。そこに行くまでが大変ではありましたけれども、市民さんあっての職員だなというのを、教育センターにいたときとはまた違う感覚で、そういうことを実感として思わせていただけた機会でした。

稲継  なるほど。この平成16年からは兼務ではありますけれども、自治基本条例から発信文書の作成をやっておられて、その次の異動が5年後ぐらいになるんですね。

荒木  そうですね。

稲継  平成20年に、課長代理に昇任されまして。

荒木  課長代理になって。はい。

稲継  これは、どういう課に行かれたのですか。

荒木  まち政策部の都市計画室というところに、課長代理で赴任をいたしまして、次の年に課長になりました。

稲継  どちらかというと、技術系の職場ですよね。

荒木  技術系ですね。ただ、技術系ではあるんですけれども、都市計画室自体はまちづくり事業と、それから都市計画法に基づく許認可をやりますので、その許認可をやるラインの課長としてまいりました。

稲継  課長試験ってあるんですよね?

荒木  課長試験があります。合格後はひとまず課長代理で着任して、その後課長に昇任します。

稲継  課長試験に受かって行かれたけれども、入庁して16年ですから、まだ30代......

荒木  そうですね、課長になったのが38かな。

稲継  38の課長って、なかなかいないと思うんですが。しかも技術系がたくさんいるところで女性が来たと。受け入れる方というか、前からいる人たちはかなり構えますよね。どうでしたか。

荒木  私も構えていましたけれども、お相手も構えておられたと思います。ただ、私は行ってみて思ったんですけど、技術系の職員というのは、最初、とっつきは悪いんですけど心を開いてくれると非常に義理堅いといいますか、こちらがちゃんと覚悟を決めているぞ、ということが分かれば意地悪するとか、そういうことは全くないので、仕事を中心にしてお付き合いをしていただけた、という意味では本当に感謝しています。ただ、その分、こちらはたくさん勉強をしないといけなかったですね。すごく勉強しました。それこそ、この時代は自分で本を買う量が半端ではなくて。まちづくり系は、結構、独特ですし、都市計画から、土地利用関係、農地関係、建物関係、設備関係までさまざまな分野を網羅しないといけないので、とても勉強しました。あとは、きっちり自分の意見を持って話を聞けば、それはそれで大変いい信頼関係を築いてくれたなと、当時の部下たちには本当に感謝しています。

稲継  なるほど。

荒木  あとは、彼らは事務系の課長をお迎えするのが初めてだったということもありました。変な話かもしれませんが、役所には役所の不文律みたいなものが結構あると思います。予算折衝の勘どころや、人事のヒアリングの勘どころ、あと、特別職にはこういうタイミングで説明に行くもんだとか、意思決定はこうなっているんだとか。彼らは技術的にはプロフェッショナルですけれども、役所の不文律は不慣れなところもありましたので、そこはお互いにWin-Winの関係が築けるなと思ってもらえたかなと思います。

稲継  なるほどね。

荒木  はい。

稲継  今まで経験してこられた庶務全般や、勉強した法律などに詳しくて、大阪府と他県との関係も勉強してきた。いろいろ積み重ねた荒木さんの持っている知識を、彼らも非常に求めていた部分があったんでしょうね。ありがとうございます。記録によると、この課長は1年だけで動かれるわけですね。

荒木  はい。

稲継  翌年に、次長に昇格。

荒木  はい、次長に昇格です。

稲継  次長というのは、これは室長クラスということですか。

荒木  そうです。はい。

稲継  総務部の人事室長。

荒木  人事室長です。

稲継  なるほど。ここから、今の仕事につながっていくんですよね。

荒木  はい。

稲継  ちょっと話が戻りますけども、まち政策部都市計画室におられたときに、利害関係者との調整とかもいろいろあったと思うんですけども。

荒木  寝屋川市の一番大きな道路プロジェクトであった、第二京阪道路が開通するときでしたので、許認可関係のラインの課長だったんですけれども、併せて土地収用や周辺の道路を供用するときの周辺対策的なこともあって、そういった利害関係の方々とお話をすることもありました。また、周辺で地区計画をつくるときに、その地区計画のご同意を頂くために、地元の自治会の方もそうなんですけれども、大きな土地を持っておられる不動産業者との調整もありました。今から思うと、私のような者が課長だと言っても、まず信用してくれないんですね。そのときの係長が、二人とも定年間際の係長で、それこそ都市計画のプロフェッショナルの係長だったんですけれども、一緒に地権者のお宅にお邪魔すると、私ではなく係長に話をされるんですね。それは、致し方ないことだったんですけれども。そのあたりの、見掛けとか、年齢的なものや女性であるということで、議論をする土俵に乗せてもらえないことが非常に「ああ、困ったな」と思うところではありました。そこは困ったなではなくて、係長に任せるところは任せて、だけど、ちゃんと課長としての話はしようと思い直しましたけれども、その辺が難しかったです。
 あと、まちづくり系は、きれいごとでは済まないところを実感しました。どちらかというと、これまでは行政の仕事として、サービス提供の仕事であったり、協働といった仕事で、本当の意味での利害関係がない。あるんですけども直接的なところではないので、そこは理念が共有できたり、思いが共有できたりすると「じゃあ」ということで一緒に同じ方向を向けたのに、まちづくりはそうではないところは非常に実感としてありました。あるときは、公権力を発動しないといけないところもありますし、気持ちの上でも、それはしょうがないことだと。あとは、訴訟も含めて、そこは責任の取り方としてするべきものだという意味では、今までとは違う世界だなということを、実感させられたところがありましたね。

稲継  なるほど。平成22年に人事室長に就任された。先ほど、少しご説明いただいた人事評価制度のバージョンアップとか、いろいろなことに取り組まれた。同時に、人事室ということで、そのころから、今は安倍さんの女性登用が非常に、数値目標も示してやっていますけれども、当時は男女共同参画だとか女性登用と言われ出したころだと思うんですね。それも、人事室長として何か取り組まれたことはありますか。

荒木  もともと、試験制度があるとはいえ、うちの首長の思いとして、女性の幹部職員を増やしたいのは非常に強いものがおありだったと聞いています。特に、議場のひな壇に女性の部長を、育てた部長を置きたいというか、当然のことながら数として一定数いるべきだろうという思いがあると聞いていました。人事室長になったときすぐに、市長から「取りあえず、何かしろ。数を増やせ」というご指示がありました。何かしないといけないだろうと思ったこともありましたので、当時の女性の部長、次長、課長にお集まりいただきまして「"頑張る"女性職員推進検討チーム」といったプロジェクトチームをつくりまして、どうすれば女性の管理職が増えるのか提言するようなことをずっと続けてきました。それが、今は名前を変えまして、「寝屋川なでしこネットワーク」、略して「NNN」というんですけれども、活動が始まって5年経ち、次は6年目を迎えます。その取り組みを今も続けています。

稲継  数としては、その間、増えてきたんですか。

荒木  係長級は増えてきています。ですが、課長以上でいうと、横ばい、微減ぐらいですね。退職の分が追いついてはいかないというところですね。

稲継  急には育ちませんからね。

荒木  それもありますし、本市は昇任試験が、係長と課長とでありますので、係長試験受験者はそれなりに増えてくるんですが、課長試験となると、どうしてもそれ以上、増えてこないところがあります。

稲継  なるほど。受験率も、女性の場合はそんなに高くないということですか。

荒木  はい。そんなに高くなくて。高めるための手立ても考えてはみたんですけれども、そんなに急激には増えないですね。

稲継  これは、政府全体として取り組まなければならない、子育てのこともあるし、いろいろな問題もあるから。もちろん、寝屋川市さんも、これからいろいろ取り組んでいかれるだろうし、日本国政府として取り組まなければならない問題もたくさんあると思います。

荒木  そうですね。私、数値目標の3割って、なぜ3割かなと疑問に思ったことがなかったんですけれども、この間、ある研修所で講師の先生から、「黄金の3割」という理論を教えていただきました。社会科学的には少数派が3割を超えると意思決定に関与できる存在になる。象徴ではなくて、ちゃんと影響を及ぼす数になるのが3割なんだという話を聞かされて、そういう意味では、もう少し数を増やすことに取り組んでいきたいなと思っています。今までは、数が増えるだけが大事だとは思っていなかったんですけれども。

稲継  多分、日本だけだと思うんですね。ほかの国の自治体とかへ行くと、半分以上は女性なんでね。

荒木  そうですか。半分......

稲継  ええ、議員なんかでも半分以上だと思うんですね。日本だけ、みんな黒い背広を着たおっさんばかり並んでいるというイメージで、外国の人を案内すると、むしろ驚かれることが多いんですよ。

荒木  そうなんですね。

稲継  それは、やはり、日本もこれから、いろいろなサポートする仕組みをつくりつつ働き続けられる、そして、それなりに出生を嫌わないような仕組みをつくることが必要かなと思います。

荒木  はい。もう少し当たり前になるといいかもしれないですね。

稲継  そうですね。長時間お話をお聞かせいただきまして、ありがとうございました。
 このメルマガは、主として全国の自治体職員の方が見ておられます。全国の自治体職員の方に何かメッセージがありましたら、最後に一言お願いしたいと思います。

荒木  私、公務員という仕事は、とてもいい仕事だと思うんですね。でも、日常的には、そのいい仕事を実感する前に、いろいろな方に怒られ、責められ、行革のあおりもあって、とてもつらいなと思ったり、このままでいいんだろうかとか、これからどうなるんだろうと思ったりすることが多いかもしれないんですけど。でも、やっぱり仕事をやってみて、こんなにいい仕事はないなと思うのも事実で。こんなにいい仕事もないなと思って頑張っている仲間が全国にいっぱいいらっしゃることが、心強いなと思いますし、私もこれからもそういう思いでやっていきたいなと思っています。

稲継  はい。今日は、寝屋川市総務部長の荒木さんにお話をお伺いしました。どうもありがとうございました。

荒木  ありがとうございました。


 まったく打ち合わせなしにインタビューをはじめたが、次から次へとテンポよく話してくださったのが印象的だった。手元にメモはなく、こちらの目を見て話し続ける。その聡明さとアグレッシブネスを感じ続けたインタビューだった。
 寝屋川市においては部長級の上は特別職しかない。40歳台前半で部長にまで昇進してしまった荒木さんの今後を予測することは難しい。いったん、出先など新しい仕事に回ることもあるだろう。しかし、この人が周りを活気づけるエネルギーは尋常ではないので、今後も市民サービスの向上に資する取り組みを続けてくださるに違いない。